平安時代3
武士の反乱
☆都で藤原氏が我が世の春を謳歌、地方では政治が乱れていた
*地方役人に、力を持った武士団を抑えることができない
☆象徴的な出来事は、「平将門の乱」
*平将門は、一族の内紛から伯父を殺し、国府を攻め、関東の大半を支配した
*自ら新皇と称し関東に独立国を建てようとした
☆藤原純友の乱(朝廷に反旗を翻した)
*伊予に役人として赴任、その後海賊の首領となった藤原純友
☆将門も純友も統制の取れた軍勢ではなかった
*朝廷の遣わした武士団に鎮圧された
摂関時代の弊害
☆藤原氏は、兄弟同士で戦いに明け暮れていた
*争いとは、自分の娘を天皇や皇太子に嫁がせ摂政や関白になる事
*嫁がせた一族の家が、幼い天皇に代わって政治を行なった
☆摂政や関白は藤原一族以外からは出なくなっていた
☆藤原氏は政治を意のままに動かす
*自らの持つ荘園の税も朝廷に納めなくなった
*他の貴族は自分の土地を藤原氏に寄進して、その恩恵に与ろうとした
*藤原氏は広大な土地を所有する
☆朝廷は政府としての機能を果たせない状況でした
「刀伊の入寇」事件
☆満洲に住んでいた刀伊が、対馬、壱岐、北九州を襲い、女性や農作物を奪った
☆朝廷の行動は常軌を逸したもの
*武力を用いず、夷狭調伏の祈薦をする
*政府は、無力になっていた
☆刀伊を撃退したのは、大宰府の次官藤原隆家だった
*隆家は藤原道長の甥
*道長との折り合いが悪く、若い頃に左遷され出世はしなかった
武士の台頭
☆関東で平忠常が乱を起こした(平将門の乱から約九十年後)
*朝廷は、源氏の源頼信に命じて忠常の乱を鎮圧させる
*これにより平氏は関東での勢力を失うこととなる
☆「前九年合戦」「後三年合戦」
*東北で、蝦夷の残党が内乱を起こした
*源氏の武士団によって鎮圧された
*朝廷は豪族間の私闘と見倣し、恩賞を与えなかった
*源義家が私財をはたいて家臣たちに恩賞を与えるた
*東国の武士たちは義家に心酔した
☆後の武士独特の忠誠心につながる強い結びつきができる
戦を嫌う平安貴族たち
☆朝廷は治安を維持する警察機構のようなものを持たず
*戦は武士たちに任せきり
☆雅を愛する平安貴族たち
*「戦」を「穢れ」として忌み嫌う
*貴族は、同じ理由で、自らが手を汚す「死刑」制度も廃止した
*死刑制度がないには、世界史的に見ても稀有なこと
☆死刑制度の廃止
*命や人権を重んじてなされたことではない
*天皇や太政官たちは自分たちが、死刑を宣告する「身が穢れる」と考えたの
*死刑に処された者が怨霊となって祟ることを恐れた
平安時代末期は警察機構がほとんど機能しない
☆経済も立ち行かず、都の通りに餓死者の死体が転がっていた
☆朝廷は世の中の嫌な事件や現実には目を瞑る
*優雅な生活と文化を愛し、権力争いに明け暮れていた
☆飛鳥時代の政府(朝廷)は、常に外国からの侵略に備えていた
*防人制度を作ったり大宰府に水城を築いたりした
☆三百年も平和が続くと、朝廷も完全な平和ボケに陥る
*国を守るという考えが希薄になり、現実的な判断力をも失っていた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』
「死刑」制度を廃止した平安時代(平和ボケ)(ネットより画像引用)
武士の反乱
☆都で藤原氏が我が世の春を謳歌、地方では政治が乱れていた
*地方役人に、力を持った武士団を抑えることができない
☆象徴的な出来事は、「平将門の乱」
*平将門は、一族の内紛から伯父を殺し、国府を攻め、関東の大半を支配した
*自ら新皇と称し関東に独立国を建てようとした
☆藤原純友の乱(朝廷に反旗を翻した)
*伊予に役人として赴任、その後海賊の首領となった藤原純友
☆将門も純友も統制の取れた軍勢ではなかった
*朝廷の遣わした武士団に鎮圧された
摂関時代の弊害
☆藤原氏は、兄弟同士で戦いに明け暮れていた
*争いとは、自分の娘を天皇や皇太子に嫁がせ摂政や関白になる事
*嫁がせた一族の家が、幼い天皇に代わって政治を行なった
☆摂政や関白は藤原一族以外からは出なくなっていた
☆藤原氏は政治を意のままに動かす
*自らの持つ荘園の税も朝廷に納めなくなった
*他の貴族は自分の土地を藤原氏に寄進して、その恩恵に与ろうとした
*藤原氏は広大な土地を所有する
☆朝廷は政府としての機能を果たせない状況でした
「刀伊の入寇」事件
☆満洲に住んでいた刀伊が、対馬、壱岐、北九州を襲い、女性や農作物を奪った
☆朝廷の行動は常軌を逸したもの
*武力を用いず、夷狭調伏の祈薦をする
*政府は、無力になっていた
☆刀伊を撃退したのは、大宰府の次官藤原隆家だった
*隆家は藤原道長の甥
*道長との折り合いが悪く、若い頃に左遷され出世はしなかった
武士の台頭
☆関東で平忠常が乱を起こした(平将門の乱から約九十年後)
*朝廷は、源氏の源頼信に命じて忠常の乱を鎮圧させる
*これにより平氏は関東での勢力を失うこととなる
☆「前九年合戦」「後三年合戦」
*東北で、蝦夷の残党が内乱を起こした
*源氏の武士団によって鎮圧された
*朝廷は豪族間の私闘と見倣し、恩賞を与えなかった
*源義家が私財をはたいて家臣たちに恩賞を与えるた
*東国の武士たちは義家に心酔した
☆後の武士独特の忠誠心につながる強い結びつきができる
戦を嫌う平安貴族たち
☆朝廷は治安を維持する警察機構のようなものを持たず
*戦は武士たちに任せきり
☆雅を愛する平安貴族たち
*「戦」を「穢れ」として忌み嫌う
*貴族は、同じ理由で、自らが手を汚す「死刑」制度も廃止した
*死刑制度がないには、世界史的に見ても稀有なこと
☆死刑制度の廃止
*命や人権を重んじてなされたことではない
*天皇や太政官たちは自分たちが、死刑を宣告する「身が穢れる」と考えたの
*死刑に処された者が怨霊となって祟ることを恐れた
平安時代末期は警察機構がほとんど機能しない
☆経済も立ち行かず、都の通りに餓死者の死体が転がっていた
☆朝廷は世の中の嫌な事件や現実には目を瞑る
*優雅な生活と文化を愛し、権力争いに明け暮れていた
☆飛鳥時代の政府(朝廷)は、常に外国からの侵略に備えていた
*防人制度を作ったり大宰府に水城を築いたりした
☆三百年も平和が続くと、朝廷も完全な平和ボケに陥る
*国を守るという考えが希薄になり、現実的な判断力をも失っていた
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』
「死刑」制度を廃止した平安時代(平和ボケ)(ネットより画像引用)