慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「多死社会」が到来

2017年08月12日 | 日本国内問題
在宅か介護施設か「終の住居」を決める

元気なうちから情報を集めて「最期は自宅で死にたい」という人が増えている
介護に一番必要なのは「お金」より「情報」
 ☆介護サービスや制度が改正を重ねてわかりづらくなっている
 ☆積極的に情報収集にあたりたい
 ☆「死に方」に正解はない、新聞広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」の広告?ヒット
終の住処、自分の最期をどこで過ごすか
 ☆安心して老後を過ごし、本人が満足できる最期を迎えれるには?
 ☆「介護が必要になった時点で考えればいい」…では遅過ぎる
高齢期の住まいは、三つに分けられる
 ☆最期まで自宅で生活する
 ☆できるだけ自宅に住み続け、自立できなくなったら施設等に移る
 ☆早めに高齢者住宅等に移り、必要なサービスを受けながら暮らす
今後は、早めに高齢者住宅に移る事が求められる時代になる
死に方は、生き方そのもの
 ☆自分の望みを、家族と話し合っておくことが必要である
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS』8月号








「多死社会」(ネットより画像引用)

国の方針は病院、施設から在宅
日本は、25年には、人口の30%が65歳以上という超高齢社会に直面する
30年には団塊の世代が全員80代に突入
28年あたりをピークに、人口がどんどん減少し「多死社会」が訪れる
1950年代までは、日本人の80%以上が自宅で看取られていた
現在は80%近くが病院で亡くなっている
最近10年ほどの傾向では、病院での死亡が微減している
 ☆介護施設や老人ホームで亡くなる割合が増えている
国は「病院、施設から在宅へ」と大きく舵を切った

サービス付き高齢者向け住宅
有料老人ホームと違って賃貸契約なので費用が比較的安い
入居者の安否確認と生活相談が標準サービス
他はオプション
 ☆食事サービスは利用できるが、自分で作りたいときは自室
 ☆息子たちが来たときは外食など自由度が大きい
「高齢の親を一人にしておけない」という家族には安心
介護度が上がったら、敷地内にある介護サービス事業所に相談できる
高額な入居一時金も不要で、退去(住み替え)の決断もしやすい

自宅に住み続け、自立できなくなったら施設等に移る
要介護度が上がっているので、低費用の介護福祉施設を利用できることが多い
「特別養護老人ホーム」要介護3以上が対象
 ☆地域にこだわらなければ空きも増えている
「介護老人保健施設」
 ☆リハビリ中心で自宅での生活復帰を目指す
 ☆3か月程度を目処に入所する施設

介護福祉施設を利用
市町村の介護認定を受けなくてはならない
申請後、認定通知まで通常1か月以上かかる
満床のための待機を考えると、早めの申請、入居申し込みは必須



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歴代天皇史(摂関政治)

2017年08月12日 | 歴史上の人物
藤原北家が天皇の外戚として摂政や関白といった要職を占めた

摂関政治は、藤原良房から基経へと受け継がれた
藤原家の台頭を抑えたかった宇多天皇
 ☆藤原氏の摂政関白を置かずに天皇親政を行った(藤原時平と菅原道真を重用) |
 ☆阿衡事件(基経は宇多天皇の詔勅に激怒し、菅原道真が基経の怒りを鎮めた)
 ☆寛平御遺訓(宇多帝が幼い醍醐天皇に位を譲る際に与えた教訓l巻)
 ☆真言宗の阿闍梨(宇多上皇は真言宗の阿聞梨となり、真言宗と朝廷との関係を強化)
 ☆寛平の治(天皇が、菅原道真らを抜擢して行った天皇親政)
 ☆昌泰の変(醍醐天皇が菅原道真を九州の大宰府に左遷した)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『歴代天皇史(三栄書房)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




摂関政治(『歴代天皇史(三栄書房)』記事より画像引用)

不仲の陽成天皇を譲位させ光孝天皇を立てた基経
藤原良房の跡を継いで、政治の実権を握ったのは藤原基経
清和天皇の第一皇子が9歳で陽成天皇として即位すると、摂政となり政治を行った
陽成天皇は暴力的な奇行が目立ち、周囲の人々はその行動に翻弄されたとされる
天皇は病気を理由に譲位を仄めかす
基経は人選を進め、安親王を光孝天皇として擁立した

光孝天皇は、政治に関心がない
光孝の母と基経の母は姉妹で、光孝は基経にとって都合の良い点が多かった
天皇は基経を関白に任じ、政治を一任する
基経は、光孝天皇の皇子の源定省を親王とし、立太子にさせた
光孝天皇の崩御とともに、親王は宇多天皇として即位

宇多天皇は、基経に関白としての役割を果たすよう勅書を送った
基経は、勅書の一文に激怒し、政務を拒んで自邸に引き籠もる
菅原道真で、基経をいさめる意見書を提出し、基経も折れる
4年後基経は世を去り、長男時平が跡を継ぐ
宇多天皇は道真を重用して天皇親政を行った
道真は権大納言にまで昇進し、遣唐使の廃止など様々な政治改革を行う
道真の長女・行子を宇多天皇の女御等皇族との姻戚関係も深めた

宇多天皇は息子・醍醐に譲位
「菅原道真と藤原時平の助言を得て政治を執るように」と訓戒する
醍醐天皇は、道真を重用し道真と時平は肩を並べる
藤原時平はそれおを許さず
 ☆「道真が、娘婿の斉世親王(醍醐の弟)を即位させようとしている」と時平は醍醐天皇に訴える
 ☆醍醐天皇は、道真を九州の太宰府に左遷する
二年後、道真が憤死する
 ☆京都では天変地異が始まり、時平も39歳の若さで亡くなる
人々は道真の祟りと恐れ、鎮魂のため北野天満宮、太宰府天満宮を設けた

藤原家の台頭を抑えたかった宇多天皇
 ☆藤原氏の摂政関白を置かずに天皇親政を行った(藤原時平と並んで菅原道真を重用) |
阿衡事件
 ☆天皇が基経を関白に任じた詔勅にある「阿衡」という表現
 ☆基経は「地位は高いが職務を持たない」意味とし激怒
 ☆菅原道真が、基経に意見書を送り、筋の通った主張に基経も怒りを収めた
寛平御遺訓
 ☆宇多帝が幼い醍醐天皇に位を譲る際に与えた教訓l巻を指す
 ☆天皇としてのふるまい、学問、任官叙位、朝廷の儀式等の注意を記す
真言宗の阿闍梨
 ☆宇多上皇は真言宗の阿聞梨となり、弟子になった僧侶は宇多の推挙で朝廷の法会に参加
 ☆真言宗と朝廷との関係を強化し、宇多の朝廷への影響力を回復させて、醍醐天皇を支えた
寛平の治
 ☆天皇が、菅原道真らを抜擢して行った天皇親政は「寛平の治」と呼ばれている
 ☆遣唐使廃止や諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始
昌泰の変
 ☆醍醐天皇が菅原道真を九州の大宰府に左遷した

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日本三大悪女

2017年08月12日 | 歴史上の人物
日本三大悪女(北条政子、日野富子、淀殿)

北条政子(平安時代から鎌倉時代にかけて生きた女性)
 ☆政子は、嫉妬深く源頼朝が他の女性と接することを好まず後継者不足
 ☆源氏の嫡流が絶えた後、政子と北条家が政治の実質的な権限を握った
 ☆朝廷と争い(承久の乱)で上皇などを流罪に追い込んだ
日野富子(室町時代に生きた女性)
 ☆子を将軍につけたいという思いが、応仁の乱を引き起こした
 ☆夫の足利義政を疎んじ政治の実権を握った
 ☆自らの蓄財に熱心で、結果として民衆の困窮を招いた
淀殿(室町時代から江戸時代にかけて生きた女性)
 ☆残すことができたはずの豊臣家を滅亡に追い込んだ
 ☆淀殿に不義密通の噂があった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください、気になる話題アラカルト、
出典、番組BS11(尾上松也謎解き歴史ミステリー)
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)




日本三大悪女(「尾上松也謎解き歴史ミステリー」番組より画像引用)

北条政子の嫉妬深さ
政子の実家である北条氏は、地方の一豪族にすぎない存在
北条家が後世脚光を浴びるのは、源氏の棟梁である源頼朝(流人)のお陰です
 ☆平治の乱で父である源義朝が平清盛に敗れ、源頼朝も殺されるところ
 ☆源頼朝は、命だけは助けられて流人生活を送っていた
北条政子は、当時としては珍しいほどの嫉妬深さがあります
 ☆源頼朝は、妻の北条政子が2人目の子供を身ごもっていた時に浮気する
 ☆北条政子は激怒、浮気相手のいた屋敷を打ちこわす
当時は一夫多妻が当たり前
 ☆源氏の公達であった源頼朝にとってはむしろ当たり前

北条政子の政治的な動き
北条政子は源範頼に謀叛の疑いがあると源頼朝に讒言
猜疑心の深い源頼朝は、北条政子の言葉を信じ源範頼を殺害する
源頼朝が亡くなった後、2代将軍になったのが源頼家(北条政子の実子)
源頼家は、将軍就任後は北条家よりも比企家を重視
北条家は北条政子の名で比企家を討伐
源頼家も将軍の座を追われ、最後は暗殺をされます
北条政子は、息子の源頼家を守ることなく死に追いやった
3代将軍源実朝も暗殺された
北条政子が「尼将軍」と言われるようになった
承久の乱で、政子は、敵対した後鳥羽上皇に対して隠岐の島への流罪を命じる

日野富子が「応仁の乱」の源
日野富子は、室町幕府の8代将軍足利義政の正室になる(側室の追放)
 ☆当初足利義政と日野富子の間には男子誕生しなかった
足利義政は、実弟に将軍職を譲ると決めた
日野富子は後の足利義尚となる男子を出産
 ☆実の子を将軍職にしたい日野富子
この将軍職の争いなどにより起こったのが応仁の乱

日野富子の蓄財
日野富子は、応仁の乱で、双方に戦費の貸し付けをして、莫大な利子収入を得ていた
足利義政は隠居をして9代将軍に足利義尚が就く
足利義尚の後見は、実母である日野富子が取り仕切り絶大な権力を握る
日野富子は、応仁の乱を終わらせることではなく蓄財
応仁の乱が終息後も、京都の各地に関所を作り、得た収入を自分のものとした

淀殿(豊臣家を滅亡に追い込んだ)
淀殿の父は戦国大名の浅井長政、母は織田信長の妹であるお市の方
浅井長政は織田信長と敵対するようになり敗北し自害する
豊臣秀吉は、淀殿との間には子を授かることができた
 ☆2度目の男児は成長して豊臣秀頼となる
豊臣秀吉が亡くなると、淀殿は次第に権力を握るようになる
徳川家康自身は、豊臣秀頼が臣従するのであれば無理に豊臣家をつぶす気はなかった
全てを拒否し続ける淀殿と豊臣秀頼に業を煮やし大坂の陣
淀殿と豊臣秀頼は大坂城で自害をしたと伝えられていま

淀殿に不義密通の噂があった
正室にも側室にも子ができることはありませんでした
豊臣秀吉は、淀殿との間には子を授かることができた
 ☆2度目の男児は成長して豊臣秀頼となる

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8月12日練習

2017年08月12日 | 英語練習
今日の7セン テンス(ラジオ・テレビプログラムより)
(NHK基礎英語Ⅲ、ラジオ英会話他)

What makes so sure?
I will do what I can.a bad heart.
come out.competitive
remind me of my hometown.
Will it be sunny tomorrow.
I'll be there in about 30 minutes.
Here you go.keep the charge.

昨日の復習で再チャレンジ語句


5分間英語


浄土宗(平成29年8月の言葉より引用)

The best way to thank our ancestors is
  to live each day earnestly.
 ☆earnestly(ひたすら)

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