慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

崩壊近い文科省?

2017年08月07日 | 日本国内問題
文科省「前川の乱」に乗ずるも崩壊近し?

前川氏の新行状が明るみに出ると共に文科省の不祥事と脆弱さも露わに
経産省は、首相方針の『人づくり革命』より「人づくり省」の設立へ
 ☆文科省の″権力の源泉″といわれてきた私学助成金の減額が議論されている
 ☆実現すれば文科省の大学教授などの天下リポストは確実に激減する
 ☆首相の新たな看板政策、『人づくり革命』
 ☆官邸関係者によれば、今後、「人づくり省」の新設が練られている
 ☆「人づくり省」には、文科省以外に経産省からも多くの人材が登用される
大学などの教育利権に甘え、事なかれで生き延びてきた三流官庁文科省
文科省をいったん潰し、真の人間教育のための組織に変えるべきでは!
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS』8月号






崩壊近い文科省?(ネットより画像引用)


国会で追及され『前川氏の証言は怪しくなった?』
前文部科学事務次官、国会で参考人で証言
 ☆「私の理解では、はじめから『加計ありき』だった
 ☆和泉氏(首相補佐官)が『総理は自分の国からいえないから、私が代わりに』
 ☆親友のこと、加計学園と明確に理解した
前川氏は最初のうち威勢はよかつた
関係者が出席すると、そのトーンは一気に落ちた
 ☆前川氏が具体的な名を挙げて批判した官房副長官や首相補佐官らの出席
反安倍のマスコミは「直接対決は平行線で」と報じたが?
 
前川氏が次官を辞めた原因
文科省の組織的な天下り斡旋問題の発覚
前川氏の在職中の「出会い系バー通い」の発覚
「出会い系バー通い」は売買春の拠点?
 ☆省庁のトップ次官が夜な夜な通う店ではない
前川氏はそのことを指摘された
 ☆「貧困女性の調査だ」などと開き直っていた
前川氏の「出会い系バー通い」も個人的趣味なのでは

出会い系バーに100回も通って
前川氏は、文部省で少ない東大法卒
早くから「将来の次官」といわれ、出世コースを進み次官に就任した
前川氏は、天下り問題を理由に「万死に値する!」といって次官の職を辞任
 ☆退職金5千600万円は満額貰っている
彼を知る関係者は「国が達者でたとえ話がうまい」と証言する
前川氏が″出会い系バー通い”を官邸から注意されたのは昨年秋
 ☆これが退職に追い込まれた最大の理由
前川氏はそれを加計学園問題に完全にすり替えた

前川氏マスコミを懐柔し「応援団」
官僚時代、前川氏に情報を貰うなど、彼に世話になったマスコミ幹部も多い
全国紙記者は暴露する
 ☆次官時代はお気に入りの女性記者がおり、いいネタをリークしていた
前川氏はこうしてマスコミを懐柔
「前川の乱」の支えは、政財官マスコミ界に広がる前川氏の応援団
 ☆教育関係者に前川ファンは増えていったなどと書いていた(元読売新聞編集委員コメント)
”お仲間”は読売だけでなくNHKや朝日新間にも多い

悪質なのは前川氏の”反乱”に乗じる文科省の傲慢
自分たちの既得権益を死守しようという文科省
文科省は、次官だった前川氏が「出会い系バー通い」をするほどヒマ
 ☆文科省には監督する業界団体が殆どない(全国紙社会部記者)
許認可権限があるのは大学くらい
 ☆大学は、完全に天下り用の植民地
 ☆助成金を差配する文科省に歯向かう大学は皆無
文科省は予算権限と許認可権をバックに教育ムラに君臨
天下り先を確保し既得権益に胡坐をかいてきた

文科省内には、不倫も多い
他省庁とくらべ極端に外部との接触が少ないといわれる文科省
文科省は既得権に甘ええ、組織そのものも緩んでいる
文科官僚の特徴は、省内での不倫の多さだろう
省内には問題職員が左遷される”ごみ溜め”の部署まで存在する(文科省関係者)







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歴代天皇史(遷都の歴史)

2017年08月07日 | 歴史上の人物
平安時代の天皇史は、繰り返す遷都の歴史

律令国家への移行とともに平城京など数々の帝都が出現する
桓武天皇により長岡京への遷都
 ☆仏教勢力が政治に関与することを嫌い、彼らを排除した天智天皇系の都を造ろうと考えた
 ☆長岡への遷都を発表(仏教界などの反発も強かった)
 ☆天皇の腹心で長岡京の造営を主導していた藤原種継が暗殺される
 ☆この事件を巡って、皇太子の早良親王らが疑われ幽閉された
 ☆早良親王は自ら飲食を断って息絶えた
 ☆桓武天皇の母や皇后が原因不明の奇病にかかる
 ☆東北地方では蝦夷の反乱、長岡京も水害に遭いなかなか完成しなかった
桓武天皇による現在の京都へと続く、平安京が誕生
 ☆不幸を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとされた
 ☆桓武天皇は長岡京からの再遷都を決意し、新都を造営した
 ☆完成した新都は、期待を込めて平安京と名付けられた
頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、約400年に及ぶ平安時代が幕を開け
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『歴代天皇史(三栄書房)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




遷都(『歴代天皇史(三栄書房)』記事より画像引用)

ヤマト政権の律令制を取り入れた当初
中央集権国家として基盤を確立した
ヤマト政権では、大王(天皇)や王が住んだ「宮」とは一体のものとした
 ☆王族は、それぞれの皇子宮で育てられ、成人後もそこを政治的本拠地とした
大王(天皇)は即位すると、それまで住んでいた皇子宮へ遷宮して執務を行う

律令国家へ移行する
中国の都城制を模した本格的な帝都、藤原京が誕生する
天皇が住む内裏、政務や儀式を行う朝堂院等、道路によって碁盤目状に区画された
条坊制に基づく広大な街区が造られ、「京」と呼ばれた
平城京にも受け継がれ、ひとつの宮で何代もの天皇が政治を執る

奈良時代中期
政治的混乱や飢饉、疫病などが深刻になる
第45代聖武天皇は頻繁に遷都を行い、世を改めようと試みた
奈良時代後期、孝謙・淳仁天皇を経て、称徳天皇が崩御し、道鏡が追放される
天武天皇系の皇統に代わって天智天皇系の自壁王が即位し光仁天皇たなる
光仁天皇の息子山部王が即位して桓武天皇となる


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浅井長政29年の生涯

2017年08月07日 | 歴史上の人物
戦国歴史ミステリー「信長を追いつめた男、浅井長政」

信長最愛の妹「お市」を妻とした「長政」(長政、織田信長と同盟結ぶ)
 ☆織田信長が美濃の斎藤氏を牽制するため、長政に同盟を持ちかけてきます
 ☆この同盟は浅井家にとっても悪いものではない
 ☆織田信長の妹で当世一の美女とうたわれたお市の方を長政の妻とし同盟を結びます
 ☆織田信長は浅井長政のことをとても気に入っていた
朝倉に、命令書を幾度となく無視し続けられて信長
 ☆朝倉家討伐のための挙兵
浅井長政、織田信長に裏切られる
 ☆信長は、長政と交わした「朝倉への不戦と誓い」を破り、朝倉方の城を攻め始めた
 ☆朝倉とは長い親交と恩がある浅井家は、その不仲を無視することはできなかった
 ☆信長との同盟の際に朝倉氏とは敵対しないという条件を付けていました
浅井長政は織田信長と朝倉義景の間で板挟み
 ☆長政は朝倉家との義を重んじ織田の軍を攻撃する
 ☆背後から織田の軍を急襲しますが、織田信長は近江国から脱出
浅井長政、滅亡へのカウントダウン
 ☆織田信長は浅井家の本拠地・北近江に進軍したので、長政は朝倉氏に援軍を要請
 ☆信長とは正面衝突にはならず両者にらみ合いで終了
 ☆織田信長は、30,000の軍を率いて再び北近江に攻め込む
 ☆北近江の城はあっという間に落とされ、義景は越前国へ撤退
 ☆信長は逃げる朝倉の軍を追撃し一乗谷の戦いで朝倉氏を滅亡させた
 ☆その後信長は軍を長政へと向けてき、浅井の本拠地・小谷城は、織田の軍勢に囲まれた
長政の父・久政が自害、長政自害
 ☆朝倉義景と浅井久政・長政父子の首級は薄濃にされた
 ☆織田の内輪の宴席で披露されたということです
長政の娘3人はこの後も戦国の世を強かに生き続けました
信長を追いつめた男・浅井長政の29年の生涯は終わる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』、3分でわかる織田信長
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)












浅井長政(『高島礼子・日本の古都』画面より画像引用)

織田信長と浅井長政
浅井長政は、北近江を治めていた戦国大名浅井氏の3代目当主です
悲運にも、浅井家最後の当主となってしまいました
織田信長の妹・お市の方を妻にし、織田とは同盟を結ぶ
最期は信長と対立し自害してしまいます
浅井長政、彼が生きたのはたったの29年間

浅井長政の祖父と父
長政の祖父・亮政は元々北近江の守護・京極氏に仕えていた
京極氏は、国人一揆が主導し、専横を極めた浅見貞則を追い出す
浅井亮政は京極家中での実権を握り北近江での勢力を築きます
勢力拡大に伴い南近江の六角氏と対立するようになる
亮政の傀儡と化していた京極高延が、亮政と対立するようになる
家督は長政の父・久政が引き継ぐ
 ☆久政が家督を継いでから、浅井家は六角氏の配下となる
 ☆久政の弱腰な外交に家臣たちが不満を持つ
久政は家督を長政に譲るよう強要され強制的に隠居させられてしまいます

浅井長政の生涯
勇猛で野心が強かった祖父と、弱腰な外交のせいで隠居させられてしまった父を持つ長政
祖父が下克上で手に入れた北近江の土地も失い六角氏に臣従していた父
家臣たちは不満を覚え、知勇に優れた長政に期待を寄せる
 ☆長政に家督を相続させようと久政を強引に隠居させる
六角氏の戦いに長政は15歳という若さで勝利します
六角氏の筆頭家臣も暗殺され、六角を離れ浅井に仕官するものも多くいた

浅井長政、姉川の戦い
長政は朝倉の軍と共に近江国の姉川で織田と徳川の連合軍と刃を交えます
この戦いは織田と徳川の連合軍が勝利します。
姉川の戦いの後、本願寺は織田信長に脅威を覚た
反信長派の大名たちと共に信長包囲網を展開
長政は、信長に対して敵対心を持つものたちと連携し再び信長への攻撃を仕掛ける
結果、織田の重臣である森可成や信長の実弟・織田信治を討ち取ることに成功
信長は、浅井・朝倉両氏との和睦に成功し、信長は窮地を脱しました
信長は、浅井・朝倉と協力関係にあった延暦寺を焼き討ち
 ☆延暦寺の焼き討ちで命を落としたものは4,000人とも言われています
延暦寺や日吉大社は消滅し、近江の寺社・社領はことごとく没収された


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