活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

アトムとコスモ■陸域観測技術衛星「だいち」(その6)

2011-08-31 23:23:32 | 宇宙の海

地球観測衛星による東日本大震災をはじめとした利用事例の紹介」
開催日時:2011年6月20日(月) 18時半~ 約2時間
会場:府大中之島サテライト 2階ホール
主催:Kansai Space Initiative:特定非営利活動法人関西宇宙イニシイアティブ
講演者:石館和奈氏((財)リモートセンシング技術センター 利用推進部)


■アトムとコスモ

先の章では。
貿易摩擦の落とし子である日米衛星調達合意が、日本の衛星を技術開発に
特化する方向へと押しやっていったと総括した。

だが。
この表現では、まだ日本の宇宙開発のベクトル分析をするには不足がある。


なぜならば。
日本の宇宙開発には、その成り立ちに起因する宿痾が存在するからである。

そして、その宿痾こそが日本の宇宙開発のベクトルの指向性を確定づけて
いるものであり、先の表現も正確には、日米衛星調達合意はその方向へ
更に合力を与えたと形容する方が正しいからである。


では。
その宿痾とは、何なのか。
それを語るには、第二次大戦の敗戦にまで時間軸を巻き戻す必要が生じる。

そこにある、宇宙航空と原子力という二つの技術の戦後史をこれから俯瞰
することで、先に挙げた宿痾の正体を解き明かしていきたいと思う。



あの1945年(昭和20年)の敗戦を受けて。
連合国、なかんずくアメリカが日本に施した様々なプログラムの一つとして、
日本は宇宙を含む航空と原子力に関する研究・開発・製造の途を閉ざされて
しまった。


 ※ 原子力:1945年(昭和20年)9月22日 発令
       連合国軍最高司令官総司令部指令第三号第八項
   『日本帝国政府はウランからウラン235を大量分離することを目的と
    する、また他のいかなる不安定元素についてもその大量分離を
    目的とする、一切の研究開発作業を禁止すべきである』

  参考:「戦後の宇宙線研究再開とCRC(宇宙線研究者会議)結成の経緯
          福井崇時 名古屋大学名誉教授 2005年12月5日

 ※ 航空 :1945年(昭和20年)11月18日 布告
       民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書
   『12月31日限りで航空機の生産・研究・実験をはじめとした一切の
    活動を禁止する』

   参考:社団法人 日本航空宇宙工業会HPより
    「日本の航空宇宙工業 50年の歩み
            8.第1章 戦前の航空機工業と戦後の再建
      財団法人 日本航空協会HPより
       「民間航空再開50年を語る

   なお、この布告がGHQの発した布告301号であることは、全くの偶然
   ではあるが、後の日米衛星調達合意にも繋がっていくスーパー301条
   と想起するその数字に、何やら因縁めいたものを感じる…。


その箍(たが)がようやく外れたのは、戦後六年を経た1951年(昭和26年)
調印、翌年に発効となったサンフランシスコ講和条約以降である。

が。
その時既に、戦時中両分野に従事していた研究者は散逸してしまっており、
日本の宇宙航空と原子力の研究開発は文字通り0からのスタートとなって
しまった。


だが。
ここからが、両者の命運が大きく分かれていくこととなる。
当時の日本は、焦土と化した国土と産業基盤の立て直しが正に愁眉の急で
あり、その根幹を支える社会インフラとして電力の安定供給と拡大を図る
必要があったがために。

国策として、電力産業の振興が推し進められていった。

原子力も、その一角を担うものとして。
1955年(昭和30年)には、早くも原子力基本法が制定された。
それを受けて、財団法人原子力研究所(原研)が発足。
その翌年には、新たに発足した科学技術庁の所管の元で特殊法人日本
原子力研究所となり、日本の原子力開発の研究拠点となっていく。

そして。
1957年(昭和32年)には、日本最初の原子研究炉であるJRR-1が初めて
臨界に達し。
その後、二基の研究炉の開発を経て。
1963年(昭和38年)には、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)
社が設計を、原研の監修下で日立製作所他によって製造を担当した動力
試験炉JPDRが日本で初めて原子力による発電を成し遂げた。

 ※ JPDR : Japan Power Demonstration Reactor

ちなみに、その日(10月26日)は。
後に、原子力の日として制定された。

こうして、官民挙げての原子力研究が進む状況を如実に物語る数字を
一つ、紹介しよう。

1956年(昭和31年)。
つまり原研発足当時の日本の原子力産業の売上高は、僅か9億円に過ぎ
ない。

それが、1972年(昭和47年)には1,178億円。
更に。
2007年(平成19年)には、1兆6,483億円に伸長するのである。
(データ出典:「日本の原子力産業と研究開発
          - 昭和30年代の「赤字」問題を中心にして -
        著:北村洋基
          京都大学 經濟論叢 第114巻第5・6号(1974)
           
       「2007年度/第49回原子力産業実態調査の概要」より
                社団法人日本原子力産業協会編


無論、その道程が平坦だった訳ではない。

技術の国産化と、輸入による即戦力化の狭間で揺れ動く政策。
#ちなみにその政策論争は、即戦力派の勝利するところとなるのだが。

また。
どれほど売上が進展しても、それを上回る勢いで費消される研究支出。
それを支えているものは、殆どの原子力産業が日本を代表する巨大
コンツェルンの一角であるが故ということ。
更に、莫大な政府の補助金や助成金が、それらを側面から支えていた
こと。
(※ 昭和30年代の原子力政策と、各企業・コンツェルンの収支の
   相関状況については、先述した論文「日本の原子力産業と研究
   開発 - 昭和30年代の「赤字」問題を中心にして -」が面白い。
   当時はまだ京都大学にて経済学の博士課程に在籍していた著者
   により著され、京都大学の經濟論叢に収録されたものである。
   1974年と、1/4世紀以上も前に書かれたこうした論文が自宅から
   簡単にアクセスできるのも、正にインターネット時代の大きな
   恩恵である)

そして。
原子力技術の先進国であるアメリカからの技術輸入=(アメリカに
とっては、輸出拡大)を目論むための、アメリカならびに政府や
政財界による世論形成等。

(※ この辺りの情勢については、れんだいこ氏のHP「原子力発電決別考
   中にある「日本に於ける原子力政策史その1」に詳述されている。
   どこまで記述を受け入れるかどうかは、読み手のポリシーに拠る
   ところが多いと思うが、詳読するに十分足る力作である。
   まだ製作中のページもあるが、完成後は是非腰を据えて精読したい
   と思っている)

宇宙開発と瓜二つといってもよい構図が、そこには見て取れるのである。


だが。
それほどに共通点を持ちながら、なお。
原子力開発と宇宙開発は、その技術史的特徴において一卵性双生児とは
なり得ない。


次章では、その決定的差異のコアを為している2つの要素を紹介しよう。


(この稿、続く)





宇宙開発と国際政治
クリエーター情報なし
岩波書店

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