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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

日本テディベアコンベンション

2008年06月15日 21時25分03秒 | Weblog
 梅雨の晴れ間を利用して、植木の手入れをする。
 三坪ほどの、庭とも呼べない空間の、植木の剪定と、草むしりである。
 後片付けも含めて40分ほどで終わったが、両腕は、パンパン。日ごろ、如何に力仕事をしていないか、我ながら情けなくなる。

 “三坪の庭”というと、作家の吉川英治が、長女に縁談が持ち上がったとき書いたという詩がある。
 ときは六月、ジューンブライドの季節で、変人も大好きな詩なので、つぎに紹介しよう。記憶のままに書くので、文言はあっていると思うが、漢字、かなの使い分けは違うかもしれない。あらかじめ、お許し願いたい。

        幸せ何と ひと問はば
        娘は何と 答ふらん
        珠になれとは 祈らねど 
        芥(あくた)となるな 街中の 
        よしや三坪の 庭とても
        楽しみ持てば 草々に
        人生植うる ものは多かり

 これまで、「楽しく、一所懸命」と言い続けてきたが、知らず知らず、この詩に感化されていたものと思う。

 昼食後、「第16回日本テディーベアコンベンション」を見るために、浜松町の東京都立産業貿易センターに行く。途中、iPodに入れた「江戸囃子」を聴きながら。
 ベア作家のKさんから招待状を頂いたからやって来たが、誰からも来なかったら、間違いなく、出かけてこなかった。
 以前は、初日のオープンを待って入場するほどの熱の入れようだったが、物を持つ空しさを感じてからは、よほどの作品でない限り購入しなくなった。
 こういう人が増えたのだろうか、最盛期には、このセンターの3フロアを借り切ってのイヴェントであったが、今は、やっと2フロアを埋めた、という感じである。
 と、書いている今、下から突き上げるような地震だ。おそらく内陸部の直下型地震であろう、震度1くらいに感じた。

 さて、最終日のそれも閉場2時間前のせいか、ベアを抱えたり、大きな紙袋を下げた人が、あまりいない。
 このコンベンションに限らず、デパートの「物産展」・「伝統工芸展」・「職人展」などの催し物も、年々さびれ、ついには廃止されてしまう。売上げが少ないのが、最大の原因であろう。なぜ売上げが少ないのかは、わからない。

 今回、招待状を送ってくれたKさんに、挨拶がてら作品を見せてもらう。
 ほとんどの作品は、初日の、昨日の午前中に売れてしまった、と言う。
 Kさんは、世界的な賞も受賞している、人気のベア作家であるから当然で、ひとごとながら喜ばしいことである。
 変人は、Kさんがこの賞を受賞する前からのファンで、すでに数点の作品を持っていた。数年前のコンベンションで、非売品の札をつけて、受賞作品が飾られていた。これまでのKさんのイメージが、くつがえされそうな斬新なベアであった。
 そこで受賞作品と同じものが作れるか尋ねた。付属品の籐椅子が、もうひとつあるので作れると言う。
 そうして苦労して入手したベアは、いま、母の部屋に鎮座している。

 帰り際、気に入ったベアの写真を1枚くれる、とのことであったが、今回は、貰わずに帰って来た。
 実は2年前、このコンベンションで、Kさんの作品を購入した。上着がまだ完成していなく、間に合わせにTシャツが着せてあった。上着を後日、送ってくれるということで、代金を支払い、そのベアを連れ帰った。
 昨年のコンベンションでは、ミシンが故障して、まだ上着ができていない、ということで、お詫びのしるし?に、ベアの写真を一枚貰った。
 そして今回は、上着のことは一切、何も言わないのだ。
 「まだミシンが故障しているのであろう」と、超内気な変人は何も言えず、ささやかな抵抗として、ベアの写真を貰わなかったのだ。今後、Kさんの作品は絶対に買うまい、ブースにも寄るまい、と固く心に誓って。


      梅雨夕焼みちのくのひと思はれて     季 己

震度6強

2008年06月14日 23時22分34秒 | Weblog
 植木鉢の桔梗の花が一つ咲いた。ことしの初花である。
 桔梗は、古歌ではつねに“きちかう”と、四音に詠まれていた。
 俳句の世界では、秋の季語なので、ずいぶんと早く咲いたものだ。やはり、地球温暖化のせいだろうか。

 と、そんなことを考えながら朝食をとっていると、カタカタ音が聞こえてきた。不気味な音だ。反射的に蛍光灯の紐を見る。大きく揺れている。地震だ、それもかなり大きい。
 玄関に行き、扉を開け放つ。テレビをつける。震度6強の大地震だった。
 起震車での震度7は経験済みで、立ってはいられなかったが、恐怖感はまったく感じなかった。
 けれども、現実の震度3の地震では、まず逃げ道を考えるなど、身の安全だけを考えて、貴重品・防災用品など持ち出す余裕など全くない。
 ましてや、実際の震度6強の地震に遭遇したら、体が硬直し、足がすくみ、心臓麻痺を起して、あの世行き超特急に乗るに違いない。

 一関市厳美町に親しい人がいるので、テレビ嫌いが、今日だけはかなりの時間、テレビにかじりついていた。
 特に、一関市の上空からの中継には注意した。テレビの中継を見る限りでは、家が倒壊するなど、していないように思えた。
 緊急の電話以外はしないように呼びかけていたので、電話をすることは控えた。
 夜、メールを送ったが、どうだろうか。

 テレビドラマ大嫌い人間なので、NHKが地震関係のニュースを中断して、連続ドラマや、自ら大河ドラマと称している下らぬ番組を放映しているのには、腹が立った。
 民放でさえ、番組を変更して、地震関係のニュースをやっているのだ。受信料をガッポリ徴収しているNHKが、やらないとは何事だ。受信料を払いたくなくなる。
 ドラマを楽しみにしている人が、たくさんいるだろうこともわかる。けれども時と場合を考えて欲しい。
 電話が使えないとき、リアルタイムで現場の様子が分かるのは、テレビ・ラジオしかないのだから。


      夕かげに紫にほふ桔梗かな     季 己

胃カメラ体験記

2008年06月13日 21時29分09秒 | Weblog
 朝起きると、腹がクククーッと鳴った。
 きのう、7時半ごろ夕食を終えたが、それ以後、全く飲まず喰わず状態。
 今朝は、朝食はもちろん、水さえ飲めない。
 胃カメラ(内視鏡)検査を受けるためである。

 9時20分ごろ、掛かり付けの近所の開業医、「T内科・胃腸科クリニック」に着く。受付を済ませ、しばらく待つ。
 最近、「使い回し」、「作り置き」、「左右取り違え」など医療事故が相次いでいるが、今回の検査には、全く不安は無い。
 院長のT先生は、ホームドクターのようなもので、病歴、アレルギーなども百も承知である。それに、何度も内視鏡検査でお世話になっている。
 担当の看護師のKさんも、顔馴染みで、前回の大腸検査の折にも、お世話になった。

 待合室で待っていると、Kさんが、白いジュースのようなものを、紙コップに七分目くらい入れて持ってきた。
 「胃の中の泡をとるお薬です。そのままゆっくりお飲みください」という。
 少し甘くて飲みやすい。大腸検査の下剤とは、比べものにならないくらい楽だ。
 ほどなく、小さなドロップ状の氷のような冷たいクスリが出される。
 「これは、喉の麻酔薬で、なるべく喉の奥のほうでゆっくり溶かしてください」とKさん。

 溶け終わった頃を見はかり、Kさんは手をとるように、ロッカールームへ案内してくれる。(お断りしておくが、退職はしているが、定年前退職である。もちろん後期高齢者ではなく、若い光輝好齢者である)
 ロッカールームで靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、貴重品と靴をロッカーに入れる。

 半袖シャツの普段着のまま来たが、手術着に着替えることもなく、そのままで検査台に上がる。
 T先生の指示で、左側を下にして、お尻を突き出すようにして、身体を“くの字”に曲げる。
 Kさんが、口に“おしゃぶり”のようなものを銜えさせてくれる。ここから胃カメラを挿入するのだ。
 鎮静剤を注射するために、右腕を軽くポンポンとたたく。血管が出ないようだ。
(もしかしたら、血も涙も無い人間?)
 「ちょっと痛いかもしれませんが、手の甲に注射します」と、T先生。
 腕にするより、いくらか甲のほうが痛い感じがする。
 覚えているのは、ここまで、後は全く記憶にございません、だ。
 大腸検査のときは、夢見心地の中で、何かが肛門から入り、ゆっくりと奥へ進んでいる感じがしたが、今回は、まったく何も感じなかった。

 多くの方が、胃カメラを飲み込むときが非常に辛いとおっしゃるが、おそらくそれは、鎮静剤を用いない検査であろう。
 酒・タバコをまったくやらない変人には、鎮静剤は効果覿面、すぐに夢の世界に入ってしまう。
 「終わりましたよ。立てますか、ゆっくりでいいですよ」と、T先生に肩をたたかれる。
 T先生とKさんに両脇を支えられ、休養室のベッドに寝かされる。夢見心地の中で、である。
 これをネタにブログを書くつもりでいたので、必死の思いで?懐中時計を見る。10時5分過ぎごろであった。即、また夢の世界へ。
 といっても、これまた何も覚えていない。

 また、肩をたたかれた。Kさんの顔が間近に見えた。
 夢うつつで「ハイ」と答え、やっと立って、ロッカールームまで抱えていってもらう。
 札入れ、小銭入れ、定期入れ、キーホルダーと、順にポケットにしまう。
 「革がお好きなんですね。わたしも革が大好きなんです」と、Kさん。言われてみれば、みんな革である。
 「革製品で、気に入ったものがあると、すぐ買いたくなってしまう困り者です」とこたえると、Kさんは、ただニッコリしただけだった。
 また、懐中時計を見ると、12時10分過ぎだった。休養室のベッドで、2時間寝ていたのだ。検査時間は、実質、20分位らしい。

 待合室に戻ると、「喉がかわいたでしょう」といって、Kさんが果実の缶ジュースを持ってきてくれる。
 T先生に呼ばれ、診察室で、いま撮ったばかりの画像を見ながら、いろいろと説明を受ける。
 2年前のポリープは、素人目にも成長していた。癌化していないと思うが、切除したとのこと。気になるポリープがまだ一つあるが、小さいので、しばらく様子を見ましょうと言う。
 これで、ガンに怯えることなく、数年は過せるだろう。

 受付で、精算をしてもらう。国保・3割負担で、5,710円であった。
 不安な方には、胃カメラ検査をぜひおすすめしたいが、決断はあなた次第。

 帰宅して、すぐに昼食をとる。食欲はいつもと変わらない。
 鎮静剤が効きすぎて?、少々、だるい。大事をとって、いつもの散歩は中止。昼寝を決め込む。
 そこで、“今日の一句”は、先日、観た光景を思い起こして……。


      ゆく河の舞ふを忘れし夏の蝶     季 己

かきつばた

2008年06月12日 21時39分26秒 | Weblog
 公園の八橋のわきに、高さ80センチほどの杜若(かきつばた)が咲いている。
 茎頂に紺色の花をつけ、縞が無く、基部は黄色なので、杜若に間違いなかろう。
 “八橋”・“杜若”とくれば、どうしても『伊勢物語』を思い出してしまう。

   むかし、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして、京にはあら
  じ、東のかたに住むべき国求めに、とてゆきけり。もとより友とする人、ひ
  とりふたりしていきけり。道知れる人もなくてまどひいきけり。三河の国、
  八橋といふところにいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河のくもで
  なれば、橋を八つわたせるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとり
  の木のかげに下り居て、かれいひ食ひけり。その沢にかきつばたいとおもし
  ろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を
  句のかみにすゑて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。
     唐衣(からごろも) きつつなれにし つましあれば
       はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
  とよめりければ、みな人かれいひの上に涙落してほとびにけり。

 文徳天皇の第一皇子、惟喬(これたか)親王を擁して、第二皇子をかつぐ藤原氏との皇位継承権争奪戦に敗れた在原業平は、遠く関東に根を張る帰化人の経済力に援助を求め、捲土重来を期して、京の都を脱出した。
 これを失恋の結果などと説明するのは、政治に無関心な日本人全般の今も変わらぬ欠点?であろう。

 東海道を東へ東へ、三河の国までやって来た。川と川とに挟まれた低湿の土地で、水流が幾筋にも蜘蛛手に分かれた、有名な八橋(今の愛知県知立市)の際に、杜若が美しく乱れ咲いていた。
 あまりの美しさに、橋の近くの木陰に腰を下ろして、乾飯(ほしいい)を食べ始めた。すると或る人が、「か・き・つ・ば・た、という五文字を句の上に据えて、旅の歌を詠んではいかがですか」と業平に申したので、即座に口をついて出たのが、「唐衣…」の歌である。

 「はるばる旅に出てきたが、着馴れた唐衣のように添い馴れた妻を都に残しているので、咲き乱れている杜若を見るにつけても、いまさらのように恋しく思われることだ」
 この歌を聞いて、一行の人々は、涙を誘われ、膝に広げた弁当の乾飯もふやけてしまったという話が、『伊勢物語』の上記の部分である。

 数あるアヤメ科の花々の中で、古来、日本人が最も喜んで鑑賞したのが、杜若であるといわれている。
 

      よるべなきこの身と紺のかきつばた     季 己

身ひとつ

2008年06月11日 21時12分19秒 | Weblog
 雨意を察して、雨蛙が鳴いている。
 声のわりには体が小さく、4センチほどであろうか。八つ手の葉の上で、貝殻を摺り合わせたような高い声で鳴いている。

 空気中の湿度が増してきたことを、いち早く感じ取って鳴き始めるので、雨乞い蛙とも梅雨蛙とも呼ばれている。
 また、四肢の指に吸盤があり、枝に止まれるので、枝蛙とも呼ばれる。
 後足が小さく、蟇蛙を小さくしたような、あまりバランスのよい格好ではないが、緑青のように冴えた青色をしている青蛙と共に、蛙の中ではむしろ器量良しといえるだろう。
 ただ、青蛙と違うところは、保護色で、葉の上では緑色だが、木の幹や地上では茶色になる。

 「雨蛙八つ手に乗りて吹かれけり」という光景であるが、
 芭蕉の高弟、其角には、
       雨蛙ばせをに乗りて吹かれけり
 という句がある。
 芭蕉や八つ手のように柔らかく広い葉に止まった雨蛙は、風の吹くたびに大きく揺られて、今にも落ちそうに見える。ところがどっこい、手足の吸盤がしっかり吸い付いていて、なかなか落とされるようなへまはしない。

 ネットサーフィンをしていたら、「市仙台地震」という語に出くわした。一瞬、何のことか分からなかったが、「地震」の語で、「四川大地震」と理解できた。
 おそらく「しせんだいじしん」と入力したのであろうとためしたら、正しく「四川大地震」と変換された。
 先日、「泰山木の花」について書いたが、あの時、「たいさんぼくのはな」と入力したら、「退散僕の鼻」と変換され、「たいざんぼくのはな」と入力したら、「泰山木の花」と正しく変換された。いったい、パソコンの頭脳はどうなっているのだろう。

 きのう、大変素晴らしい方、いや大変羨ましい方に出会った。
 「欲しいものは全くない」と言い切る、日展会員の某先生である。
 所有欲の塊である変人には、実に羨ましい限りの生き方である。変人の“憧れ”でもある。
 四川大地震の光景を見れば、所有することの如何に空しいかが、よくわかる。
 被害に遭われた方々は、何を持ち出せたのか、一人ひとりに聞いてみたい気がする。ほとんどの方は、身ひとつで逃げるのが精一杯だったと思われるが……。

 美術工芸品・書物・鞄・万年筆には目が無い変人は、心魅かれるとすぐに購入したくなる。なんとも困った癖だ。(当然、いや、いい癖ですよ、と言ってくれる人もいる)
 週刊誌では、四川大地震を的中させた予言者が、「8月、東京にM6.5の大地震が、9月、名古屋にM9の大地震が起こる」と警告をしている、と書き立てる。
 もし、東京に大地震がきたら、拙宅などは一溜まりもない。これまでのコレクションはすべて灰燼に帰してしまうこと必定。
 変人に所有されたがために、灰燼に帰す“作品”。他の立派な邸宅に所有されれば、明るい未来があるのに。そう考えると、作品たちに申し訳ない気がしてならない。
 「所有しない暮らし」「欲しがらない暮らし」……、憧れの暮らしだが、できそうにもない。この病気は、死んでも治らないかもしれない。


      身ひとつや八つ手の上の雨蛙     季 己

和歌の種類

2008年06月10日 20時52分03秒 | Weblog
 『萬葉集』二十巻は、約四千五百首の歌をおさめている。
 次の歌集である『古今和歌集』が、同じ二十巻でも約千首であることを考えると、その膨大さが知られる。オール古代の歌集といってもよいほどだ。

 さらにこの四千五百首は、後々の歌集とは比べものにならないほど、さまざまな歌体の歌である。片歌(かたうた)・短歌・長歌・反歌・旋頭歌(せどうか)・仏足石(ぶっそくせき)の歌などがある。
 つぎに、それらを簡単に説明しよう。

 [片歌] 五・七の音に、七音を重ねて一首をなす歌で、奈良朝以前に、多く問答に用いられた。
 (例)愛(は)しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も (日本武尊)

 [短歌] 五・七音を二個つらねて、さらに七音を加えたもの。つまり、三十一音からなる歌である。“みそひともじ”とも。
 (例)ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ (柿本人麻呂)

 [長歌] 五・七音の二句を単位として反復し、最後に五・七・七の句を加えて終わるもの。藤原朝から奈良朝の初め頃までが絶頂で、末期にはすでに行き詰まり、後々の勅撰集では、形式的に載せるに過ぎなかった。
 (例)あめつちの 分かれし時ゆ 神さびて 高く尊き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影もかくろひ 照る月の 光も見えず 白雲の いゆきはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 富士の高嶺は (山部赤人)

 [反歌] 長歌の後に添えて、長歌の意を縮めたり、長歌に言い残した事柄を補ったりする短歌のことで、“かえしうた”ともいう。
 (例)田子の浦ゆ うち出て見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (山部赤人)
 これは、前の長歌の反歌として添えられているものであるが、長歌と相まって、富士山の高さ、尊さ、美しさを称える意が完成されていることがわかるであろう。

 [旋頭歌] 上の句・下の句ともに五・七・七の三句からなるもの。すなわち、片歌を二度繰返したもの。これは、五・七・七の三句のつぎに、再び五音の句が来て、最初に戻るところから、「頭に施(かえ)す歌」というのである。必ず前半で切れて、後半と相応ずる点がその特色である。
 最初は、片歌の問答から発生したものであるが、後には自問自答の形となり、さらに後代に下っては、問答の形が失われて、短歌に近づいたものと思われる。
 (例)きみがため 手力つかれ 織りたる衣ぞ 春さらば いかなる色に 摺りてばよけむ

 [仏足石の歌] 奈良・薬師寺の仏足石碑(国宝)に刻まれた二十一首の歌で、五・七・五・七・七・七の六句よりなる。すなわち、短歌の形式にさらに七音の句を添えたものとなっている。この形式は、仏足石歌体と称せられている。
 仏足石とは、釈迦の足跡を石に刻んだもの。これを拝めば、無量の罪障を消滅し得るという。この石の傍に、仏足石歌碑というものが建っている。
 (例)これの世は うつり去るとも とことはに さのこりいませ 後の世のため またの世のため

 以上ながながと書いてきたが、覚える必要はない。
 『萬葉集』にかぎらず、好きな歌をすきなように読めばよい。もちろん、歌の一字一句を解釈する必要はない。どんな感じがするか、それがわかれば、それで十分だと思う。
 [宿題]を出しておくので、興味のある方はぜひチャレンジしてほしい。

 [宿題]つぎの五首の歌は、下の欄のどれか一つの項目と関係がある。最も適当と思われる項目の符号を(   )に書きましょう。(解答は一週間後に)

 ①うらうらに照れる春日にひばりあがり心がなしも独りし思へば (  )
 ②あしひきの山川の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲たちわたる (  )
 ③さくら散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける (  )
 ④なごの海の霞の間よりながむれば入日をあらふ沖つ白波 (  )
 ⑤夕されば野辺の秋風身にしみて鶉(うずら)鳴くなり深草の里 (  )

  ア、感傷  イ、絵画的  ウ、幽玄  エ、機知  オ、力動感


      きき耳を立て浅草の立葵     季 己

萬葉集・1250年

2008年06月09日 21時52分20秒 | Weblog
 『萬葉集』は、何と読めばいいのだろう。
 そんなの分かりきったことさ、「マンヨウシュウ」と読むに決まっているだろう、という声が聞こえてきそうである。
 ピンポン、ピンポン、大正解!

 『萬葉集』のできた当時の発音は、今日の発音と同じではない。けれども、類似の音をカナで示せば、「マニ・エフ・シフ」となる。これを今日的な発音でいえば、「マンヨウシュウ」となる。
 古く江戸時代には、「マンニョウシュウ」と読まれたことがあった。今でも、そう読む方がおられる、ことに、ご高齢の方に。
 もしかすると、「マンニョウシュウ」と読むと、“後期高齢者”と呼ばれるかもしれない?
 同じことなら、“光輝好齢者”と書けばいいのにと思うが、いかが?

 では、なぜ「マンニョウシュウ」と読まれたのだろうか。
 それは「萬」のn音が、つぎの「葉」の前に加音されたものとして、man-n-yoのごとく発音するからだ。
 こうした例は、天王(ten-o⇒ten-no)、観音(kan-on⇒kan-non)などに見られ、日本語として不自然なことではない。
 ただ、奈良時代に「萬」を、man と発音していたかどうかは疑わしい。当時の通例からすると、母音をつけて、mani と発音するので、加音現象は起こらなかったと、むかし中西進先生から教わった。

 『萬葉集』がいつ出来たかは、はっきりとわからない。
 ただ、『萬葉集』の歌の中で、明確に年代の知られる最後の歌は、巻末の一首であることは、わかっている。時に、天平宝字三年(759)。
 したがって、『萬葉集』の成立が、この年よりさかのぼることはないが、これがどこまでさがるかは、不明である。

 来年、2009年は、『萬葉集』最後の歌が出来てから、1250年。
 今年の「源氏物語千年紀」にあやかり、来年は、『萬葉集』に関する出版やイベントが、続出することだろう。
 この「壺中日月」においても、今後、『萬葉集』について書くことが多くなると思う。1250年記念ということもあるが、『萬葉集』は、日本人の心の古典であり、世界に比類なき民族詩であると思うからである。


      さみだるるミサ曲ひくく低くながれ     季 己

2008年06月08日 23時42分44秒 | Weblog
 昨日、今日とつづいた天王祭が終わった。
 今年は、三年に一度の本祭ということで、寄付は昨年の倍の割り当て?がきた。
 しかし、予想にたがわず、活気のない、つまらぬ祭であった。
 子どもの山車や神輿が町内を回るのは、一日一回きり。それも義理でまわっているような感じがする。
 どうして楽しくやれないのだろう。どうして子どもたちに、祭の楽しさを教えないのだろう。
 楽しくやれないのなら、祭を廃止すればいいのに……、とさえ思ってしまう。
 もちろん、本当にこんなことを言ったら、この町内に住めなくなるだろう。

 午後、他の町会の様子を見に散歩に出た。
 どこも申し合わせたように、4時ごろには片づけが終り、直会の酒宴が始まっていた。
 ただ、6時近くになるのに、二つの町会の大人神輿が競い合って、商店街を練ってゆく姿には感動を覚えた。
 祭礼役員とおぼしき長老に、「遅くまで大変ですね。ご苦労様です」とねぎらうと、「5時には終わる予定でしたが、6時半頃までかかるでしょう。皆さんがこんなに楽しんでいるのに、中途で止められませんよ」と言われ、ますます感動!

 来年は、町会役員の順番が回ってくる。順番では逃げるわけにもゆくまい。この長老の言葉を胸に、来年の祭の際には、少々、憎まれ口をたたき、子どもたちも喜ぶ楽しい祭にしようか、鬼に笑われても。

 平安のむかし、都で祭は、「葵祭」だけであった。
 四月の、中の酉の日に行なわれ、簾・衣装・牛車に葵の紋をつけ、冠にも葵を挿した行列が御所を発し、都大路を粛々と進んで、下鴨神社へ、ついで上賀茂神社へと向かう。
 今は五月十五日に行なわれるが、そのゆかりで、俳句では「祭」といえば、各地の神社の「夏祭」を指すことになっている。

 夏祭はとくに厄災、風水害などのないことを祈る都市型の祭で、春祭・秋祭は農事の安定や豊作祈願、感謝の農村型の祭である。
 人間から招かれて、神が、天からこの世に降りてくることが渡御である。その際に、依代(よりしろ)として神が宿るものが山車の中心にある鉾飾りで、祭の主役は、この山車の巡行であった。
 神は、夜の間に来臨すると信じられており、夜宮、宵祭といって前日の夜から祭が始まる。いまの祭につきものの神輿は、本来は地上に降りてきた神が乗る乗り物であった。だから、昨年の三社祭のように、神輿の上に乗るなどは、もってのほかのことなのである。


      CDを聴いてはさらふ祭笛     季 己 

泰山木の花

2008年06月07日 21時54分44秒 | Weblog
 風にのって甘い香りがただよってきた。
 見上げると、大輪の純白の花。泰山木の花だ。

 中国の名山「泰山」は、「太山」とも書くが、この名山の名を取ったこの泰山木は、中国が原産ではなく、アメリカのノースカロライナ州からテキサス州にかけてが原産地であるという。
 「太山は土壌を譲らず」という慣用句があるので、泰山木は、特に大好きな木である。
 「太山が小さな土くれをも包含して大きな山となっているように、大人物は度量が広く、人々の小さな意見もよくいれて、大事業を成し遂げる」という意味であるが、在職中は、大事業は成し遂げられなかったが、教職員や父母の皆さんの意見には耳を傾けてきたつもりだ。

 調べてみると、泰山木が日本へ伝来したのは、明治八、九年のこととある。その泰山木の名が、日本の書物に初めて記録されたのは、明治十四年(1881)発行の『小石川植物園草木図説』とのこと。
 東京・上野公園の、小松宮の銅像の傍らにある泰山木は、明治十二年に、合衆国のグラント将軍夫妻が、日本訪問の記念として植樹したものである。

        なが雨や泰山木は花堕ちず     久 女
 梅雨の長雨に打たれても、ぽったりとした純白の花びらを傷めることもなく、磨き上げたような緑の葉をゆるがせることもない。
 文字通り、泰山のやすきにも似た風格を保って、ゆったりと咲いているのが、泰山木の花である。
 久女の句の、“泰山木は”の、“は”がうまい。ここを“の”にしたら凡作。こういうところは、しっかり学びたい。


      嘆きみな受けて泰山木ひらく     季 己

光源氏

2008年06月06日 21時23分46秒 | Weblog
 「源氏物語千年紀」に似つかわしい?古典俳句を見つけた。

       篝火も蛍もひかる源氏かな     立 圃
 である。
 「篝火」、「蛍」は、普通名詞であるが、どこかで見覚えがないだろうか。
 そう、『源氏物語』の第二十七帖「篝火」、第二十五帖「蛍」の巻名でもある。
 「ひかる」は、「光る」と「光源氏」にかかる掛詞。掛詞というのは、おもに韻文に用いられる修辞法の一つで、同音異義語を利用して、一語に二つ以上の意味を持たせたもの。たとえば「待つ」と「松」、「眺め」と「長雨(ながめ)」のようなものをいう。
 「篝火」、「蛍」と「ひかる」は縁語。

 「蛍」、「篝火」の巻は、ともに玉鬘(たまかずら=頭中将と夕顔との間に生れ、源氏の君に育てられた)を中心とする物語である。
 「蛍」の巻には、兵部卿(ひょうぶのきょう)が、玉鬘のところに忍んできたとき、源氏の君が、几帳のかげから、たくさんの蛍を玉鬘の顔のあたりに放ち、その光の中の玉鬘の美しさに、兵部卿は恋心をつのらせるという印象的な場面がある。

 また「篝火」の巻には、初秋の夜、玉鬘のもとを訪れた源氏の君が、庭の篝火が消えかかっているのを見て、右近の大夫を召してつけさせるという場面がある。

 ともに、“光り”に関連する美しい場面で、物語の主人公、源氏の君にいずれも関係するところから、この句は作られたものと思う。

 この句の作者、立圃(りゅうほ)は、『源氏物語』の梗概書『十帖源氏』や『おさな源氏』の著もあり、“源氏”には深い関心を寄せていたと思われ、他にも
        源氏ならで上下に祝ふ若菜かな     立 圃
 の名吟がある。
 「篝火も」の句は、掛詞による技法が用いられているが、漢語や俗語を使うことなく、きわめて上品な和歌的世界のものであると言えよう。

 「源氏物語千年紀」を機に、『源氏物語』を口語訳で読んでみたいと思われている方のために、「円地・源氏」と「寂聴・源氏」の上記の部分を、掲げておく。読み比べてみるのも一興かと思う。

 何やかやと宮のお話が長くつづくのに、御返事することもなく、思いためらっていらっしゃると、殿が近寄っておいでになり、御几帳の帷を一ひらお上げになると一緒に、さっと光るものが闇を散らして、一瞬、紙燭をさし出したのかと驚かせた。この夕方たくさんの蛍を薄衣に包んで、光が洩れないように隠してお置きになったのを、何げなく直衣の袖を引きつくろうようなふりをして、いきなりぱっと放たれたのであった。姫君は呆れて、扇を顔にさしかざしたものの、その瞬間青白い光りに照らし出された横顔は何とも言えず美しかった。(円地文子 訳 『源氏物語』 新潮社刊)

 何やかやと宮のお話が長くつづくのに、お返事もなさらないで、姫君は思いためらっていらっしゃいます。そこへ源氏の君が近寄ってこられるなり、御几帳の帷子を一枚、いきなりお上げになります。と、同時に、さっと光るものがあたりに散乱して、紙燭をさし出したのかと、姫君はびっくりなさいます。
 この夕方、源氏の君は蛍をたくさん薄い布に包んでおいて、光が洩れないように隠してお置きになったものを、さりげなく、姫君のお世話をなさるふりをよそおって、いきなり、さっと放し撒かれたのでした。突然のきらめく光に、姫君がはっと驚き、あわてて扇をかざしてお隠しになった横顔は、息を呑むほど妖しく美しく心をそそられました。(瀬戸内寂聴 訳 『源氏物語』 講談社刊)
 
 秋になった。初風が涼しく吹き始め、そうでなくても人恋しいこの頃なので、殿は耐えかねて、西の対に始終お渡りになり、和琴などをお教えになって、一日中お過しになる。五日六日頃の夕月が早く沈んで、うす曇っている空の模様、風にそよぐ荻の葉音も次第にあわれ深く聞かれる季節になった。お琴を枕にして、殿は姫君と一緒に仮寝していらっしゃる。ここまでうち解けながら、何事もなしに過すということがまたとあるものだろうかと、溜息を洩らしがちに夜の更けるまでおいでになったが、女房たちがお疑い申しはせぬかと気になさって、お帰りになろうとしながら、お庭の篝火の少し下火になって消えかかっているのを、お供の右近の大夫を召して明るくお焚かせになる。(円地文子 訳 『源氏物語』 新潮社刊)

 秋になりました。季節の初風が涼しく吹き始めて、古歌にも<わが背子が衣の裾の裏>も、秋風に吹かれて淋しいと歌われている季節なので、源氏の君はうら淋しさのつのるお心をこらえきれなくなられます。しきりに西の対にお出かけになり、終日を過されて、姫君に和琴などをお教えになっていらっしゃいます。
 五、六日頃の夕月が早くから西の山に沈み、うす曇っている空の風情や、風に鳴る荻の葉ずれの音も、次第に身にしみる頃になっていました。源氏の君は、お琴を枕にして、玉鬘の姫君とご一緒に寄り添って横になっていらっしゃいます。こうまで馴れ睦んで、なお清らかな仲という、不思議な男女の関係がまたとあろうかと、ともすれば溜め息も洩れがちに、悩ましく夜を更かしていらっしゃいました。それでも女房がおかしいと疑うかもしれないと気になりますので、お帰りになろうとなさいます。
 お庭前の篝火が少し消えかかっていましたので、お供の右近の大夫をお呼びになって、篝火を明るく焚くようにお命じになります。(瀬戸内寂聴 訳 『源氏物語』 講談社刊)


      草笛の「異国の丘」に 水光る     季 己

河骨

2008年06月05日 21時53分21秒 | Weblog
 「は~るの おがわは……」と、突然、うしろで歌声がした。
 振返ると、5~6人のオバさまグループが、公共広告機構の壁面広告“「春の小川」歌碑”の、歌詞を見て歌いだしたのだった。
 きょうの、都営地下鉄・浅草線「浅草駅」ホームでのことである。

 童謡「春の小川」は、この広告にもあるように、現在の渋谷区代々木5丁目付近を流れていた、河骨川の情景を歌ったものである。
 水生植物の河骨(コウホネ)が群生していたことから、河骨川の名がついたという。
 かつての清流は、いまや暗渠化され、スミレやレンゲが咲き競い、メダカが群れ泳いだという、その姿は、今は偲ぶ術さえない。

 「ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい“こうほね”が咲いていたので、河骨川と呼ばれていました。……」
 と、「春の小川」歌碑の脇の説明板にはある。

 「春の小川」歌碑は、石碑で、代々木5丁目65番に建てられている。
 「春の小川」の歌詞は、当時の文部省により、2度、改編されており、この歌碑の碑面には、作詞者・高野辰之の原歌詞(一番のみ)が彫られている。

     「 春の小川は さらさら流る
       岸のすみれや れんげの花に
       にほひめでたく 色うつくしく
       咲けよ咲けよと ささやく如く

            高野辰之 作詞
            岡野貞一 作曲 」

 参考までに、1942年改編版は、
       春の小川は さらさら行くよ
       岸のすみれや れんげの花に
       すがたやさしく 色うつくしく
       咲いてゐるねと ささやきながら

 1947年改編版は、
       春の小川は さらさら行くよ
       岸のすみれや れんげの花に
       すがたやさしく 色うつくしく
       咲けよ咲けよと ささやきながら
 となっている。


       河骨の二もと咲くや雨の中     蕪 村

 降り続く五月雨に、水かさの増した沼や川は、河骨の花の鮮やかな黄色が、いささかの曇りもなく輝いて見える。
 満々と岸を洗って流れてゆく川の濁り水は、すっかり河骨の茎を隠す。わずかにとがった葉先と黄色い花だけが、濁流の上に顔をのぞかせている。
 先年、山梨で目にした光景である。

 五月雨が止み、流れに衰えが来る頃、河骨は、長く太い地下茎を、水底の泥の中にしっかり張って、その先端から葉を出し、花茎をひきだす。
 花の大きさにくらべて、花をつける茎の太くたくましく、しなやかなことが、河骨の特徴のように思われる。

 河骨が、その太くたくましい茎の上に、まん丸い蕾をつけて、ニュッと水面から突き出したところは、太鼓の撥にそっくりで、河骨のことを、タイコノバチと呼んでいる地方もある。


      河骨に刃のやうに水が澄み     季 己

淡海の海

2008年06月04日 21時53分08秒 | Weblog
       淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
         心もしのに いにしへ思ほゆ      柿本人麻呂

 「あふみ」は、「あはうみ」のつづまったもので、淡水の海、すなわち湖。
 和歌ではよく、「逢ふ身」と掛詞で用いられる。「藍染川」が「逢ひ初め川」と掛けられるように。
 大和から見て、近いところにある琵琶湖が「近つ淡海」。遠いところにある浜名湖が「遠つ淡海」。そして、その湖のある国がそれぞれ近江・遠江(とほたふみ)となった。

 「心もしのに」は、「心しのにも」のことで、「しのに」は、力がなくなってしまった状態のこと。つまり、昔のことを思って、気が滅入りこんでしまうこと。

 近江の湖に、夕方、浮いている千鳥の声が、作者の心を刺激して、昔のことを思い出させ、思い出すにつけて、心がくたくたになってしまう、というのは、近江の国について、この作者の持っている知識と、宮廷歌人としての作歌の履歴とからきている。

 近江の国は、そこの大津の宮に天智天皇が都を移したのだが、たちまちに、また都は大和へかえり、近江の大津の宮のあとは、単に「旧き京(ふるきみやこ)」の名をとどめることになってしまった。
 そうした荒廃した都の跡について、天武以後の宮廷歌人は、宗教的畏怖の心をとりわけて歌い上げている。

 藤原朝から奈良朝を通じて、皇統の推移を見ると、結局、天智の系統と天武の系統との争いであり、それがついに天智の系統の勝利となって、天智の系統の光仁・桓武とついで、平安朝に移って行く。
 『萬葉集』の歌のあるものは、そうした背景を考えさせるのだが、人麻呂の近江の歌の根底には、大和の宮廷歌人として、近江の国の国魂(くにたま)の荒びるのを、慰撫しなければならなかった作歌の履歴を考えねば、わからぬものがある。

 「夕波千鳥」は、美しい造語である。「淡海の海」「夕波千鳥」と名詞をたたみかけ、小休止を置き、「汝が鳴けば」と千鳥に呼びかける形。この悠々とした呼吸がよい。
 さらに「心もしのに」と、振り返って自分の心のうちしおれた状態を言い、冒頭の句の字余りと呼応して、結句も四四の字余りで、ゆったりと歌い収めている。
 緩急自在で、きわめて流動的・曲線的で、柔らかく鷹揚な抒情ながら、切実な主観が徹っている。

 「おうの海の河原の千鳥汝が鳴けば吾が佐保河の念ほゆらくに」・門部王
 「足引の山ほととぎす汝が鳴けば家なる妹し常におもほゆ」・沙弥
 「ほととぎす間しまし置け汝が鳴けば吾が思ふこころ甚も術なし」・宅守
 などが、それぞれ巻三、巻八、巻十五にあるが、みな、人麻呂のこの歌には及ばないのみならず、人麻呂のこの歌を学んだものかも知れない。


      梅雨空になじむ近江の名所図会     季 己      

梅雨に入る

2008年06月03日 20時51分08秒 | Weblog
 関東地方は昨日、梅雨入りした。平年より6日早く、昨年より20日早いという。

 立春から数えておよそ135日目、陽暦では六月十一日前後が「入梅」となる。同様の季語に、「梅雨に入(い)る」「梅雨兆す」「梅雨の入(いり)」「梅雨入(ついり)」などがある。

 最近は、日本の太平洋沿岸にはっきりした前線が現われたとき、気象庁から梅雨入りが宣言される。
 したがって、時候としての入梅は全国一斉であるが、雨期開始の梅雨入りは全国まちまちで、沖縄⇒西日本⇒東日本⇒東北、と順次、梅雨に入ってゆくのである。
 最初は、梅雨に入った実感があまりしないが、細かな雨降ったり、薄日が差したりしているうちに、いつしか梅雨も本格的になってくるのである。

 台風5号の接近もあり、梅雨入りを実感できた一日であった。
 日課の散歩?も、近間を歩くことにした。
 尾竹橋通りと京成線の交差する、花の木橋交差点に出た。
 「花の木橋」は、かつて藍染川に架かっていた橋で、今は交差点名として残っているだけだ。
 京成線は高架であるが、その脇の道路(暗渠)が、いにしえの藍染川なのである。

 西ヶ原4丁目付近から流れ出たものと推定される谷田川は、不忍池に注いでいた川で、根津付近で藍染川とも呼ばれていた。
 この川に沿って、詩人の萩原朔太郎、画家の小杉放庵、美術史家の岡倉天心、文芸評論家の小林秀雄などが住んでいた。
 日暮里の高台の、文京区側を流れていた、この谷田川の氾濫防止のために、大正七年、西日暮里の京成高架橋付近まで暗渠(トンネル)にして分水した。
 それより下流は、京成線に沿って隅田川に合流するまで、開渠の川として存在した。それが藍染川である。藍染川という名は、本流・谷田川の別称からとったものと思われる。
 昭和七年から、新三河島駅より上流の暗渠工事が行なわれたが、満州事変後中断された。
 昭和三十五年、洪水や保健衛生上の理由などにより、全面、暗渠化され、現在は道路となっている。 この暗渠の部分、京成線に沿って明治通りから、町屋駅前、サンパール通りに至る区道に、近頃、「藍染川通り」と愛称がつけられた。
 「花の木橋」などは、藍染川があったその痕跡である。今も、「花之木橋」と刻まれた石の欄干が残っている。

 全面、暗渠化される前には、花の木橋、子の神橋(新三河島駅付近)、子育て橋(町屋斎場前)のほか、一号橋から八号橋が架橋していた。
 変人、中学生の頃の話である。


      梅雨に入る まぶたの川の音がして     季 己

藍染の浴衣

2008年06月02日 21時34分39秒 | Weblog
 団塊の世代が、まだ幼かった頃には、綿入れの冬着から袷にうつり、単衣のセルを着た後に、浴衣に変わるというのが、衣替えの順序だったと思う。
 その頃の母は、和服の仕立てをしていたので、かなり強く印象に残っている。

 近頃のように、洋服やTシャツ姿になっても、暑い夏の、ことに夕方に、浴衣姿を見るのは、男女問わずいいものである。
 その浴衣にも、ちりめん浴衣や縮み浴衣、呂の浴衣など、絹の浴衣もあったが、今ではほとんど藍染の木綿浴衣一色となったようだ。
 ところが、本藍染の浴衣はウン万円、機械染めのプリントはウン千円と、一ケタ違う、なかなか高価なぜいたく品である。

 値段はともかく、浴衣の好さは、いつまでも変わらぬさっぱりとした木綿の肌触り、新鮮な本藍の香り、白地に大柄な模様。青葉薫る初夏の感じそのものである。
 浴衣の模様は、年齢もかまわない。季節もかまわない。絞りであろうと捺染であろうと、いっこうにお構いのない庶民性そのものが、浴衣の味わいなのである。

 ところで、この浴衣というのは、もともと「湯帷子(ゆかたびら)」と呼ばれた湯浴みするときの着衣であった。
 身分のある人が、風呂場で着ていて、お付の者がその上から湯をかけて、汗を流し奉る、というテレビでよく見るシーンの、あれである。
 そのために、ジャブジャブ濯げるように晒し木綿を使い、洗えば洗うほど色が冴える本藍染を喜んで使ったものである。
 したがって、洗い晒し大いに結構。浴衣は仕立て下ろしに限る、などというのは、浴衣の歴史を知らぬ野暮天、とんだ「目黒の秋刀魚」である。

 浴衣姿を見るのは好きだが、個人的には、藍染の作務衣を愛用している。徳島の本藍染の作務衣は、香り、肌触りといい、値段だけのことはある。
 ふだんは、安物の作務衣を着ているが、中国製なので、藍染と表示してあるが、おそらく違うであろう。
 関東地方も今日、梅雨入りしたという。


      浅草の昼の句会の藍浴衣     季 己

紫陽花

2008年06月01日 21時57分14秒 | Weblog
 今日から六月。それに合わせ、玄関の絵を『青陽』に掛け換えた。
 鎌倉在住の日本画家、藤田時彦先生の作品だ。プラチナ箔に地に、額紫陽花を描いた、品格のある絵である。

 東京の梅雨入りも、もう間もなく。
 降りみ降らずみの曇りがちな植込みの蔭に、ぼうっと浮かび立つように咲いている紫陽花(あじさい)。葉の緑と変わらぬ色で、早くから開きたがっていた蕾が、間もなく真白に冴えてきて、やがて、青磁色の青さから、藍・紫と変わり、中には、うす紅になるまで、花の寿命はきわめて長い。
 いつとはなしに色の変わってゆく紫陽花を、「七変化」と呼ぶのもそのためであろう。
 また、花弁に見えている四枚のガクが目立つので、「四ひら」とも呼ばれる。もともとは、日本の山野の額紫陽花から生まれた、という。

 紫陽花は、日陰のよく似合う花である。
 青く澄み渡った夏空の、強烈な日差しの下で見るよりは、どんよりと曇った鈍い日の光に、花だけが何か燐光にも似た淡い光の輪に包まれて、浮き上がって見えるときにこそ、紫陽花の花は言い知れない魅力を発揮する。
 藤田先生の『青陽』のプラチナ箔は、どんより曇った鈍い日の光を表しているのに違いない。

 「夜目遠目笠の内」とは、「夜見たのと、遠方から見たのと、笠をかぶっているのをのぞき見たのとは、女の容貌が実際よりも美しく見えるものである」という意味の諺である。
 この諺が、古典的な日本女性の美しさを言い表しているのと同じく、妖しく美しく神秘的な紫陽花の花の魅力が、それであろう。

      あぢさゐの 花の四ひらに 洩る月を
        影もさながら 寝る身ともがな     源 俊頼
 この歌の“あぢさゐ”は、額紫陽花のような気がする。

 紫陽花の仲間には、ただのアジサイのほかに、ガクアジサイ・ベニガク・ヒメアジサイ・ヤマアジサイ・ホソバコガクなどが知られている。

 きょう母を連れて『薬師寺展』へ行ってきた。
 変人は五回目であるが、母は初めてだ。米寿の母は、足元がおぼつかないのだが、聖観音と日光月光両菩薩をどうしても拝みたい、と言うので連れてきたのだ。
 行列を覚悟の来場であったが、「80分待ち」にはビックリ。というより、母が立って待っていられるか心配になった。
 会場入口近くに、老人用?の椅子が並んでいたので、そこで待つように言ったのだが、みごとに並びきった。よほど拝みたかったに違いない。
 無事に入場できたのは、並んでから90分近くたってからだった。

 帰宅してからも、疲れたとは一言も言わず、ただただ感動に浸っていた。
 何を拝んだのかと思っていたら、『拝ませていただき、ありがとうございます』と、拝んだと言う。

 東京国立博物館の庭の紫陽花は、ふつうのアジサイであった。


      紫陽花の日暮れ 観音ひとりかな     季 己