関東地方は昨日、梅雨入りした。平年より6日早く、昨年より20日早いという。
立春から数えておよそ135日目、陽暦では六月十一日前後が「入梅」となる。同様の季語に、「梅雨に入(い)る」「梅雨兆す」「梅雨の入(いり)」「梅雨入(ついり)」などがある。
最近は、日本の太平洋沿岸にはっきりした前線が現われたとき、気象庁から梅雨入りが宣言される。
したがって、時候としての入梅は全国一斉であるが、雨期開始の梅雨入りは全国まちまちで、沖縄⇒西日本⇒東日本⇒東北、と順次、梅雨に入ってゆくのである。
最初は、梅雨に入った実感があまりしないが、細かな雨降ったり、薄日が差したりしているうちに、いつしか梅雨も本格的になってくるのである。
台風5号の接近もあり、梅雨入りを実感できた一日であった。
日課の散歩?も、近間を歩くことにした。
尾竹橋通りと京成線の交差する、花の木橋交差点に出た。
「花の木橋」は、かつて藍染川に架かっていた橋で、今は交差点名として残っているだけだ。
京成線は高架であるが、その脇の道路(暗渠)が、いにしえの藍染川なのである。
西ヶ原4丁目付近から流れ出たものと推定される谷田川は、不忍池に注いでいた川で、根津付近で藍染川とも呼ばれていた。
この川に沿って、詩人の萩原朔太郎、画家の小杉放庵、美術史家の岡倉天心、文芸評論家の小林秀雄などが住んでいた。
日暮里の高台の、文京区側を流れていた、この谷田川の氾濫防止のために、大正七年、西日暮里の京成高架橋付近まで暗渠(トンネル)にして分水した。
それより下流は、京成線に沿って隅田川に合流するまで、開渠の川として存在した。それが藍染川である。藍染川という名は、本流・谷田川の別称からとったものと思われる。
昭和七年から、新三河島駅より上流の暗渠工事が行なわれたが、満州事変後中断された。
昭和三十五年、洪水や保健衛生上の理由などにより、全面、暗渠化され、現在は道路となっている。 この暗渠の部分、京成線に沿って明治通りから、町屋駅前、サンパール通りに至る区道に、近頃、「藍染川通り」と愛称がつけられた。
「花の木橋」などは、藍染川があったその痕跡である。今も、「花之木橋」と刻まれた石の欄干が残っている。
全面、暗渠化される前には、花の木橋、子の神橋(新三河島駅付近)、子育て橋(町屋斎場前)のほか、一号橋から八号橋が架橋していた。
変人、中学生の頃の話である。
梅雨に入る まぶたの川の音がして 季 己
立春から数えておよそ135日目、陽暦では六月十一日前後が「入梅」となる。同様の季語に、「梅雨に入(い)る」「梅雨兆す」「梅雨の入(いり)」「梅雨入(ついり)」などがある。
最近は、日本の太平洋沿岸にはっきりした前線が現われたとき、気象庁から梅雨入りが宣言される。
したがって、時候としての入梅は全国一斉であるが、雨期開始の梅雨入りは全国まちまちで、沖縄⇒西日本⇒東日本⇒東北、と順次、梅雨に入ってゆくのである。
最初は、梅雨に入った実感があまりしないが、細かな雨降ったり、薄日が差したりしているうちに、いつしか梅雨も本格的になってくるのである。
台風5号の接近もあり、梅雨入りを実感できた一日であった。
日課の散歩?も、近間を歩くことにした。
尾竹橋通りと京成線の交差する、花の木橋交差点に出た。
「花の木橋」は、かつて藍染川に架かっていた橋で、今は交差点名として残っているだけだ。
京成線は高架であるが、その脇の道路(暗渠)が、いにしえの藍染川なのである。
西ヶ原4丁目付近から流れ出たものと推定される谷田川は、不忍池に注いでいた川で、根津付近で藍染川とも呼ばれていた。
この川に沿って、詩人の萩原朔太郎、画家の小杉放庵、美術史家の岡倉天心、文芸評論家の小林秀雄などが住んでいた。
日暮里の高台の、文京区側を流れていた、この谷田川の氾濫防止のために、大正七年、西日暮里の京成高架橋付近まで暗渠(トンネル)にして分水した。
それより下流は、京成線に沿って隅田川に合流するまで、開渠の川として存在した。それが藍染川である。藍染川という名は、本流・谷田川の別称からとったものと思われる。
昭和七年から、新三河島駅より上流の暗渠工事が行なわれたが、満州事変後中断された。
昭和三十五年、洪水や保健衛生上の理由などにより、全面、暗渠化され、現在は道路となっている。 この暗渠の部分、京成線に沿って明治通りから、町屋駅前、サンパール通りに至る区道に、近頃、「藍染川通り」と愛称がつけられた。
「花の木橋」などは、藍染川があったその痕跡である。今も、「花之木橋」と刻まれた石の欄干が残っている。
全面、暗渠化される前には、花の木橋、子の神橋(新三河島駅付近)、子育て橋(町屋斎場前)のほか、一号橋から八号橋が架橋していた。
変人、中学生の頃の話である。
梅雨に入る まぶたの川の音がして 季 己