壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

物に語らせる

2008年06月29日 21時31分00秒 | Weblog
 捨てないでよかった。
 新しく買い換えたので、処分しようとしたのだが、そのままにしておいた。
 パソコンのことである。
 昨晩、ブログを送信したあと、入浴のため一時電源を切った。
 そして入浴後、電源を入れたら、インターネットに接続できなくなっていたのだ。
 今朝も午前中、いろいろ試みたが、全く接続できない。
 「ユーザID、パスワードが違う」の一点張りなのだ。
 この元日から、一日も欠かさず続けてきたブログが、中断してしまう。半年に2日余して。
 そこで、99年秋に購入し、引退していた“ウインドウズ・ミレニアム”に再登板してもらい、今、これを書いている次第。


 芭蕉の弟子、凡兆にこんな句がある。

        すずしさや朝草門に荷ひ込む     凡 兆

 「朝草」は、夏の早朝、草を刈ること、またはその草のことで、まだ露を帯びている青草である。
 一句は、夏の朝早く草刈に出かけてゆき、露に濡れたままの青草を、門内に荷い込んできた、それがいかにも涼しそうだ、という情景である。
 夏の早朝、および、荷い込む人の爽やかな感じが、「涼しさや」に現われている。
 この句は、「朝草門に荷ひ込む」という日常生活に詩情を見つけて、しかもそれを具体的・即物的に表現している。この点をしっかり学びたい。
 俳句は、美辞麗句を並べたり、洒落た文句で飾るものではない。
 日常生活において、「おや」「まあ」「あら」などという驚きや感動あるいは発見を、自分の胸中で再構成して、具体的に、物に語らせるものなのだ。

 具体的・即物的表現は、凡兆の特色の一つであるが、これは芭蕉の「軽み」に相応する。凡兆が、『猿蓑』に芭蕉より多い四十四句も入集しているのは、当時の芭蕉の新しい考え方、「軽み」の方向に適合していたからだと思う。
 「荷ひ込む」という言い方には勢いがあり、若さがあっていっそう爽涼の気を感じさせる。

 俳句大会に入賞しなかったといって、がっかりすることはない。
 その選者の方向に適合しなかっただけかもしれないのだから。
 俳句力を伸ばしたい方は、結社に所属しているならその主宰の、無所属なら芭蕉の句を学ぶのがいい。
 尾瀬、いや、失言の多い変人は、心敬を目指しているのだが……。


     失言は水に流せず水芭蕉     季 己