壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

見物

2008年06月17日 23時48分33秒 | Weblog
 「国宝 薬師寺展」が終り、東京国立博物館は、閑散としていた。
 それでも、入口付近に5~6人の人だかりがしていた。例の超高値の大日如来のレントゲン写真の説明を読んでいるのだ。
 日本の宗教団体が落札したが、何年かここに寄託し、調査・研究をしてもらうらしい。
 落札後の初公開としては、話題になったわりには、閑散としすぎている。
 入室して、大日如来さんと久々のご対面。あまりの高値に、照れておられる。
 360度方向から拝観できるように展示されているが、拝観しているのは変人のほかに5名だけ。熱心に観ているのは、70近い紳士のみ、あとの4人は、四方から一通り眺めて、すぐに他の仏像へ。
 あんなに騒がれ、話題にもなったのに、ナゼだ?

 しばらく、離れたところから、入場者の様子を観察する。
 「薬師寺展」のときには、合掌する人が結構いた。年配者だけでなく、若者、それも男性が多かった。
 30分程いたが、合掌した人はまったくいなかった。ほとんどが、「ああ、これが例の仏像か」といった程度で、そそくさとその場を去ってゆく。
 “拝観”ではなく、“見物”なのだ。“仏さま”ではなく、“見世物”なのだ。
 こんなバカな事をしなければよかった、と後悔したが、あとの祭。

 たしかに仏像の“でき”はいい。腕のよい仏師、いや運慶作といってもよいが、少なくとも何らかの形で絡んでいると思われる。
 印を結ぶ両腕の量感、質感のすばらしさ。比較しては失礼だが、円成寺の大日如来よりは、お顔の“つくり”がずっと劣るけれども。
 いま流行りの言葉で言えば、“オーラ”が感じられないのが残念。
 円成寺の大日如来さんの前に立つと、自然と手を合わせ、拝んでしまう。
 そうして、何とも言えぬ、あたたかい気に包まれて、その場から離れられなくなってしまう。初めてのときには、4~5時間、ボケーっとしていた記憶がある。

 真如苑蔵となった大日如来は、明治初年の廃仏毀釈の際か、終戦のどさくさに持ち出され、どこかに隠されていたのではないか。
 すべて推察に過ぎないので、これ以上、推察するのはやめよう。他人を中傷することになってはいけないので……。
 結論としては、この大日如来さんは、数奇な運命をたどり、どういうわけか人々の“祈り”が、あまり込められておらず、大切に扱われてこなかった、ということだけは言える。
 これから多くの人々が、真剣に祈りを捧げれば、百年後には、オーラにつつまれたすばらしい仏像になるに違いない。
 この部屋の他の“仏さま”も拝んだだけで、東博を出る。

 科学博物館を通り過ぎ、国立西洋美術館の「コロー展」を観る。
 自然をいとおしみ、敬愛したコローの風景画に、まず魅了されてしまう。特に樹木を大きく描いた作品には、釘づけにされてしまう。
 コローの名作をこれほど多く観られる幸せ。(岩手・宮城の被災者の方には、誠に申し訳ないが、お許しください)
 
 その幸せな時を破るように、小学生の集団がドカドカとやってきた。社会科見学の一環だろうか。みな手に手に資料らしきものを持っている。
 作品を見ると思いきや、展示室を最短距離で小走りに横切ってゆく。一団去ってまた一団。これまた小走りに、時間にして20秒ほど。
 しつけの行き届いた学校とみえ、私語が一切なかったのには感心したが、何のために「コロー展」に来たのか、“見物”ともいえず、実に不思議である。
 すっかり気分が壊れ、こちらも早々に退散。日曜日にまた来ることにする。


      紫陽花の朝 みそ汁にやげん堀     季 己


 ☆先週の「宿題」の解答 (簡単な解説は、明日)

 ① ア   ② オ   ③ エ   ④ イ   ⑤ ウ