「国宝 薬師寺展」が終り、東京国立博物館は、閑散としていた。
それでも、入口付近に5~6人の人だかりがしていた。例の超高値の大日如来のレントゲン写真の説明を読んでいるのだ。
日本の宗教団体が落札したが、何年かここに寄託し、調査・研究をしてもらうらしい。
落札後の初公開としては、話題になったわりには、閑散としすぎている。
入室して、大日如来さんと久々のご対面。あまりの高値に、照れておられる。
360度方向から拝観できるように展示されているが、拝観しているのは変人のほかに5名だけ。熱心に観ているのは、70近い紳士のみ、あとの4人は、四方から一通り眺めて、すぐに他の仏像へ。
あんなに騒がれ、話題にもなったのに、ナゼだ?
しばらく、離れたところから、入場者の様子を観察する。
「薬師寺展」のときには、合掌する人が結構いた。年配者だけでなく、若者、それも男性が多かった。
30分程いたが、合掌した人はまったくいなかった。ほとんどが、「ああ、これが例の仏像か」といった程度で、そそくさとその場を去ってゆく。
“拝観”ではなく、“見物”なのだ。“仏さま”ではなく、“見世物”なのだ。
こんなバカな事をしなければよかった、と後悔したが、あとの祭。
たしかに仏像の“でき”はいい。腕のよい仏師、いや運慶作といってもよいが、少なくとも何らかの形で絡んでいると思われる。
印を結ぶ両腕の量感、質感のすばらしさ。比較しては失礼だが、円成寺の大日如来よりは、お顔の“つくり”がずっと劣るけれども。
いま流行りの言葉で言えば、“オーラ”が感じられないのが残念。
円成寺の大日如来さんの前に立つと、自然と手を合わせ、拝んでしまう。
そうして、何とも言えぬ、あたたかい気に包まれて、その場から離れられなくなってしまう。初めてのときには、4~5時間、ボケーっとしていた記憶がある。
真如苑蔵となった大日如来は、明治初年の廃仏毀釈の際か、終戦のどさくさに持ち出され、どこかに隠されていたのではないか。
すべて推察に過ぎないので、これ以上、推察するのはやめよう。他人を中傷することになってはいけないので……。
結論としては、この大日如来さんは、数奇な運命をたどり、どういうわけか人々の“祈り”が、あまり込められておらず、大切に扱われてこなかった、ということだけは言える。
これから多くの人々が、真剣に祈りを捧げれば、百年後には、オーラにつつまれたすばらしい仏像になるに違いない。
この部屋の他の“仏さま”も拝んだだけで、東博を出る。
科学博物館を通り過ぎ、国立西洋美術館の「コロー展」を観る。
自然をいとおしみ、敬愛したコローの風景画に、まず魅了されてしまう。特に樹木を大きく描いた作品には、釘づけにされてしまう。
コローの名作をこれほど多く観られる幸せ。(岩手・宮城の被災者の方には、誠に申し訳ないが、お許しください)
その幸せな時を破るように、小学生の集団がドカドカとやってきた。社会科見学の一環だろうか。みな手に手に資料らしきものを持っている。
作品を見ると思いきや、展示室を最短距離で小走りに横切ってゆく。一団去ってまた一団。これまた小走りに、時間にして20秒ほど。
しつけの行き届いた学校とみえ、私語が一切なかったのには感心したが、何のために「コロー展」に来たのか、“見物”ともいえず、実に不思議である。
すっかり気分が壊れ、こちらも早々に退散。日曜日にまた来ることにする。
紫陽花の朝 みそ汁にやげん堀 季 己
☆先週の「宿題」の解答 (簡単な解説は、明日)
① ア ② オ ③ エ ④ イ ⑤ ウ
それでも、入口付近に5~6人の人だかりがしていた。例の超高値の大日如来のレントゲン写真の説明を読んでいるのだ。
日本の宗教団体が落札したが、何年かここに寄託し、調査・研究をしてもらうらしい。
落札後の初公開としては、話題になったわりには、閑散としすぎている。
入室して、大日如来さんと久々のご対面。あまりの高値に、照れておられる。
360度方向から拝観できるように展示されているが、拝観しているのは変人のほかに5名だけ。熱心に観ているのは、70近い紳士のみ、あとの4人は、四方から一通り眺めて、すぐに他の仏像へ。
あんなに騒がれ、話題にもなったのに、ナゼだ?
しばらく、離れたところから、入場者の様子を観察する。
「薬師寺展」のときには、合掌する人が結構いた。年配者だけでなく、若者、それも男性が多かった。
30分程いたが、合掌した人はまったくいなかった。ほとんどが、「ああ、これが例の仏像か」といった程度で、そそくさとその場を去ってゆく。
“拝観”ではなく、“見物”なのだ。“仏さま”ではなく、“見世物”なのだ。
こんなバカな事をしなければよかった、と後悔したが、あとの祭。
たしかに仏像の“でき”はいい。腕のよい仏師、いや運慶作といってもよいが、少なくとも何らかの形で絡んでいると思われる。
印を結ぶ両腕の量感、質感のすばらしさ。比較しては失礼だが、円成寺の大日如来よりは、お顔の“つくり”がずっと劣るけれども。
いま流行りの言葉で言えば、“オーラ”が感じられないのが残念。
円成寺の大日如来さんの前に立つと、自然と手を合わせ、拝んでしまう。
そうして、何とも言えぬ、あたたかい気に包まれて、その場から離れられなくなってしまう。初めてのときには、4~5時間、ボケーっとしていた記憶がある。
真如苑蔵となった大日如来は、明治初年の廃仏毀釈の際か、終戦のどさくさに持ち出され、どこかに隠されていたのではないか。
すべて推察に過ぎないので、これ以上、推察するのはやめよう。他人を中傷することになってはいけないので……。
結論としては、この大日如来さんは、数奇な運命をたどり、どういうわけか人々の“祈り”が、あまり込められておらず、大切に扱われてこなかった、ということだけは言える。
これから多くの人々が、真剣に祈りを捧げれば、百年後には、オーラにつつまれたすばらしい仏像になるに違いない。
この部屋の他の“仏さま”も拝んだだけで、東博を出る。
科学博物館を通り過ぎ、国立西洋美術館の「コロー展」を観る。
自然をいとおしみ、敬愛したコローの風景画に、まず魅了されてしまう。特に樹木を大きく描いた作品には、釘づけにされてしまう。
コローの名作をこれほど多く観られる幸せ。(岩手・宮城の被災者の方には、誠に申し訳ないが、お許しください)
その幸せな時を破るように、小学生の集団がドカドカとやってきた。社会科見学の一環だろうか。みな手に手に資料らしきものを持っている。
作品を見ると思いきや、展示室を最短距離で小走りに横切ってゆく。一団去ってまた一団。これまた小走りに、時間にして20秒ほど。
しつけの行き届いた学校とみえ、私語が一切なかったのには感心したが、何のために「コロー展」に来たのか、“見物”ともいえず、実に不思議である。
すっかり気分が壊れ、こちらも早々に退散。日曜日にまた来ることにする。
紫陽花の朝 みそ汁にやげん堀 季 己
☆先週の「宿題」の解答 (簡単な解説は、明日)
① ア ② オ ③ エ ④ イ ⑤ ウ