壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

蓮池翁

2008年06月26日 21時52分27秒 | Weblog
 「新しい出発を考えねばなるまい」
 芭蕉は、そう思い定め、荘子や杜甫をはじめ、中国の詩人・文人たちの作品を読んだ。延宝八年(1680)、芭蕉37歳のことである。
 もちろん、これらは今初めて読むわけではないが、改めて読めばまた心に沁みるものがある。
 それは、ことばの遊戯ではなく、作者の実感をうたっている。貞門俳諧も、談林俳諧も、人間不在の文学だった。
 自分の心を詠まなければならない。中国の詩人たちによって芭蕉はこのことを学んだ。
 さらにまた、荘子を読むことによって、実利を去って人間性の純粋に従うことを学んだ。
 芭蕉が、富や栄誉を求める現実世界の確執から身を引く決意に至った背景には、このような荘子の影響を無視することはできない。


      浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらん     素 堂
 この句、「うきはまきばこのれんふぜいすぎたらん」と読むのであろう。
 作者の素堂は、甲斐の国、今の北杜市の人で、寛文初期に江戸に来り、延宝七年(1679)上野に隠棲、のち葛飾に移り隠士と称した。
 漢学・和歌・書道・茶道・能楽など多方面に通じ、芭蕉の二つ年上の親友であり、のちに葛飾蕉門の祖とされる。

 芭蕉は門人に、「この句は此蓮(このれん)と声にとなへたる、よし」と教えたという。「声にとなへたる」とは、音よみにすることをいう。
 たしかに、この句の声調の固さは漢詩を思わせる。

 丸い大きな葉、開きかけた葉、まだ固い巻葉、そのさまざまな葉のみずみずしさは、さわやかでありながらも艶でもある。
 「此蓮風情過ぎたらん」という嘆息は、清らかなるものの持つ、思いがけない一面への驚きであろう。その驚きが、こう固く出るところに漢詩好みの素堂の特色がある。

 早くも低迷しかけた談林の形骸から脱すべく、芭蕉は活路を漢詩に求めていた。
 その傾向は、かならずしも蕉門だけではなかったが、漢詩理解の鋭さと深さにおいて群を抜いていた。
 『三冊子』に、「詩の事は隠士素堂といふもの、此道にふかき好きものにて、人も名をしれる也」と、芭蕉は述べている。
 しかもその芭蕉は、吉川幸次郎氏の説によると、「日本で杜甫を最初にしかも最もよく理解した人」である。

 天和の誹風は、素堂の持ち前を生かし、その絶頂期を作った。この人には、およそ異質とも言える風格の高さがある。
 素堂は後年まで、牡丹の艶を嫌い蓮の清を愛し、その隠宅には池を作り蓮を植え、蓮池翁と呼ばれてもいる。しかし、それが素堂の限界であった。


      青葉冷えリュックに結ぶ魔除鈴     季 己