壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

紫陽花

2008年06月01日 21時57分14秒 | Weblog
 今日から六月。それに合わせ、玄関の絵を『青陽』に掛け換えた。
 鎌倉在住の日本画家、藤田時彦先生の作品だ。プラチナ箔に地に、額紫陽花を描いた、品格のある絵である。

 東京の梅雨入りも、もう間もなく。
 降りみ降らずみの曇りがちな植込みの蔭に、ぼうっと浮かび立つように咲いている紫陽花(あじさい)。葉の緑と変わらぬ色で、早くから開きたがっていた蕾が、間もなく真白に冴えてきて、やがて、青磁色の青さから、藍・紫と変わり、中には、うす紅になるまで、花の寿命はきわめて長い。
 いつとはなしに色の変わってゆく紫陽花を、「七変化」と呼ぶのもそのためであろう。
 また、花弁に見えている四枚のガクが目立つので、「四ひら」とも呼ばれる。もともとは、日本の山野の額紫陽花から生まれた、という。

 紫陽花は、日陰のよく似合う花である。
 青く澄み渡った夏空の、強烈な日差しの下で見るよりは、どんよりと曇った鈍い日の光に、花だけが何か燐光にも似た淡い光の輪に包まれて、浮き上がって見えるときにこそ、紫陽花の花は言い知れない魅力を発揮する。
 藤田先生の『青陽』のプラチナ箔は、どんより曇った鈍い日の光を表しているのに違いない。

 「夜目遠目笠の内」とは、「夜見たのと、遠方から見たのと、笠をかぶっているのをのぞき見たのとは、女の容貌が実際よりも美しく見えるものである」という意味の諺である。
 この諺が、古典的な日本女性の美しさを言い表しているのと同じく、妖しく美しく神秘的な紫陽花の花の魅力が、それであろう。

      あぢさゐの 花の四ひらに 洩る月を
        影もさながら 寝る身ともがな     源 俊頼
 この歌の“あぢさゐ”は、額紫陽花のような気がする。

 紫陽花の仲間には、ただのアジサイのほかに、ガクアジサイ・ベニガク・ヒメアジサイ・ヤマアジサイ・ホソバコガクなどが知られている。

 きょう母を連れて『薬師寺展』へ行ってきた。
 変人は五回目であるが、母は初めてだ。米寿の母は、足元がおぼつかないのだが、聖観音と日光月光両菩薩をどうしても拝みたい、と言うので連れてきたのだ。
 行列を覚悟の来場であったが、「80分待ち」にはビックリ。というより、母が立って待っていられるか心配になった。
 会場入口近くに、老人用?の椅子が並んでいたので、そこで待つように言ったのだが、みごとに並びきった。よほど拝みたかったに違いない。
 無事に入場できたのは、並んでから90分近くたってからだった。

 帰宅してからも、疲れたとは一言も言わず、ただただ感動に浸っていた。
 何を拝んだのかと思っていたら、『拝ませていただき、ありがとうございます』と、拝んだと言う。

 東京国立博物館の庭の紫陽花は、ふつうのアジサイであった。


      紫陽花の日暮れ 観音ひとりかな     季 己