“ひぐらしのさと”養福寺に、『姸斎落歯塚』という珍しい碑がある。
荒川区登録有形文化財になっていないせいか、これを説明した文献が見当たらない。
碑の正面には、
姸斎落歯塚
左側面には、
寛政九年丁巳十月
門人 方円庵得器
建之
と刻してある。
つまり、寛政九年(1797)十月に、師匠である姸斎の落歯塚を、門人の方円庵得器が建てた、ということであろう。
縄文・弥生時代から、多く成年式など、社会儀礼の一つとして、特定の歯を人為的に抜く風習があった。
おそらく、この影響で後代、歯を自分の分骨として崇め、抜け落ちた際には、それらを拾い集め、小壺に入れ、丁重に土中に埋めたものと思われる。そうしてその上に塚を作り、碑を建て、供養されたものが、落歯塚である。
では、建碑者の方円庵得器とは、どのような人物なのであろうか。
葛飾北斎が、文化二年頃に描いた肉筆画『鏡面美人図』(ボストン美術館所蔵)の画賛に、
待人の たよりや夏の 夜みせ前 得器
とあり、また、文化十一年(1814)に刊行された見聞録『耳嚢』に、「廻文発句之事」と題して、
文化の頃、俳諧点者に得器といひて滑稽の頓才なる有しが、田舎わたりせし
頃、奉納の額に梅を書て、お徳女の面かきしを出して、「是へ賛せよ」と申け
る故、「一通にては面白からず」と、即興に廻文の発句せし。
めむのみかしろしにしろしかみの梅
達才の取廻しともいふべきか。
(根岸鎮衛『耳嚢』巻八=岩波文庫)
とあることから、建碑者の方円庵得器は、神田お玉ヶ池在住の、江戸座俳諧の宗匠、方円庵・島得器とみて間違いない。
碑の右側面には、発句と前書きが書いてあるらしいのだが、前書きの部分が判読できない。つぎに発句の部分だけを記す。
ひろひよせて埋むおちはや風の売 津富
最後の二文字「津富」は作者名で、句は、「拾ひ寄せて埋むおちばや風の売」となる。「おちば」は、「落葉」に「落歯」が掛けてあることは、言うまでもない。
風に付き物である落ち葉を拾い寄せて、土に埋めるように、風邪(病気)
のために抜け落ちた歯を拾い寄せ、わが分骨として土に埋めている。その
私自身も、もう間もなく土に返ることであろう。
といった、句意であろうか。
さて、塚の主「姸斎津富」とは、一体どんな人物なのか。
文学、国語、歴史、人物など各種大辞典を引いても、その名は出てこない。
しかし、北斎の肉筆画に賛を書く、江戸座俳諧の宗匠、得器の師匠であるから、かなりの俳諧宗匠に違いない。
落歯塚をなぜ、養福寺に建てたのか。
ひらめくものがあり、養福寺の談林派歴代句碑をつぶさに調べた。「灯台下暗し」とはこのこと。「月の碑」に、
夜すすぎや名月に戸をたゝく音 姸斎津富
と、あるではないか。
月の碑というのは、当時の談林派の長老四名の名月の句と俳号を、正面に刻したものである。
月の碑の左側面から裏側にかけては、梅翁・西山宗因の略伝、および建碑の理由が書かれている。そして、右側面には四長老の忌日が、
寛政十年戊午二月十九日 後五千堂
文政六年癸未二月八日 一陽井
寛政九年丁巳十二月二十一日 師没後素外属 姸斎
寛政五年癸丑五月二十一日 仝 幽雲斎
と刻されている。
この碑が建てられたのは、寛政四年八月ということなので、右側面の忌日は、もちろん後に刻されたものである。
この碑から、姸斎津富は、師の六世、五千堂蒼狐が亡くなった後、後事を托された一陽井素外(谷素外)の門に属し、寛政九年十二月二十一日に死去した、ということが知れる。今からちょうど二百十年前のことである。
『姸斎落歯塚』は、姸斎の亡くなるわずか二ヶ月前に、談林派歴代の句碑が見通せるこの場所に建てられたのである。
江戸時代後期の、雑俳作者の逸話秘聞を伝える『寝ものがたり』(鼠渓著)によると、津富は、姓を島といい、談林派六世・五千堂蒼狐の門人で、素外とは同門であった。独り者で変人の津富は、素外宅に同居していたという。
素外は、得器と同じく、神田お玉ヶ池に住んでいたので、津富も居候ではあるが、神田お玉ヶ池に住んでいたことになる。
また、素外は、小林一茶とも親交があり、一茶の句集の中に、
素外賀新庭
出来たての山にさつそく時鳥
とある。
おそらく、同居の無欲恬淡な津富とも、一茶は親交があったに違いない。
安永四年(1775)刊の、俳諧選集『名所方角集』には、編は素外で、跋文は津富、とある。
『姸斎落歯塚』が、いつの日か、荒川区登録文化財として、談林派歴代の句碑とともに、末永く保護、保存されることを、切に祈るしだいである。
※ 本稿の発表については、養福寺ご住職の快諾を得ております。
◎ 養福寺=荒川区西日暮里3-3-8
荒川区登録有形文化財になっていないせいか、これを説明した文献が見当たらない。
碑の正面には、
姸斎落歯塚
左側面には、
寛政九年丁巳十月
門人 方円庵得器
建之
と刻してある。
つまり、寛政九年(1797)十月に、師匠である姸斎の落歯塚を、門人の方円庵得器が建てた、ということであろう。
縄文・弥生時代から、多く成年式など、社会儀礼の一つとして、特定の歯を人為的に抜く風習があった。
おそらく、この影響で後代、歯を自分の分骨として崇め、抜け落ちた際には、それらを拾い集め、小壺に入れ、丁重に土中に埋めたものと思われる。そうしてその上に塚を作り、碑を建て、供養されたものが、落歯塚である。
では、建碑者の方円庵得器とは、どのような人物なのであろうか。
葛飾北斎が、文化二年頃に描いた肉筆画『鏡面美人図』(ボストン美術館所蔵)の画賛に、
待人の たよりや夏の 夜みせ前 得器
とあり、また、文化十一年(1814)に刊行された見聞録『耳嚢』に、「廻文発句之事」と題して、
文化の頃、俳諧点者に得器といひて滑稽の頓才なる有しが、田舎わたりせし
頃、奉納の額に梅を書て、お徳女の面かきしを出して、「是へ賛せよ」と申け
る故、「一通にては面白からず」と、即興に廻文の発句せし。
めむのみかしろしにしろしかみの梅
達才の取廻しともいふべきか。
(根岸鎮衛『耳嚢』巻八=岩波文庫)
とあることから、建碑者の方円庵得器は、神田お玉ヶ池在住の、江戸座俳諧の宗匠、方円庵・島得器とみて間違いない。
碑の右側面には、発句と前書きが書いてあるらしいのだが、前書きの部分が判読できない。つぎに発句の部分だけを記す。
ひろひよせて埋むおちはや風の売 津富
最後の二文字「津富」は作者名で、句は、「拾ひ寄せて埋むおちばや風の売」となる。「おちば」は、「落葉」に「落歯」が掛けてあることは、言うまでもない。
風に付き物である落ち葉を拾い寄せて、土に埋めるように、風邪(病気)
のために抜け落ちた歯を拾い寄せ、わが分骨として土に埋めている。その
私自身も、もう間もなく土に返ることであろう。
といった、句意であろうか。
さて、塚の主「姸斎津富」とは、一体どんな人物なのか。
文学、国語、歴史、人物など各種大辞典を引いても、その名は出てこない。
しかし、北斎の肉筆画に賛を書く、江戸座俳諧の宗匠、得器の師匠であるから、かなりの俳諧宗匠に違いない。
落歯塚をなぜ、養福寺に建てたのか。
ひらめくものがあり、養福寺の談林派歴代句碑をつぶさに調べた。「灯台下暗し」とはこのこと。「月の碑」に、
夜すすぎや名月に戸をたゝく音 姸斎津富
と、あるではないか。
月の碑というのは、当時の談林派の長老四名の名月の句と俳号を、正面に刻したものである。
月の碑の左側面から裏側にかけては、梅翁・西山宗因の略伝、および建碑の理由が書かれている。そして、右側面には四長老の忌日が、
寛政十年戊午二月十九日 後五千堂
文政六年癸未二月八日 一陽井
寛政九年丁巳十二月二十一日 師没後素外属 姸斎
寛政五年癸丑五月二十一日 仝 幽雲斎
と刻されている。
この碑が建てられたのは、寛政四年八月ということなので、右側面の忌日は、もちろん後に刻されたものである。
この碑から、姸斎津富は、師の六世、五千堂蒼狐が亡くなった後、後事を托された一陽井素外(谷素外)の門に属し、寛政九年十二月二十一日に死去した、ということが知れる。今からちょうど二百十年前のことである。
『姸斎落歯塚』は、姸斎の亡くなるわずか二ヶ月前に、談林派歴代の句碑が見通せるこの場所に建てられたのである。
江戸時代後期の、雑俳作者の逸話秘聞を伝える『寝ものがたり』(鼠渓著)によると、津富は、姓を島といい、談林派六世・五千堂蒼狐の門人で、素外とは同門であった。独り者で変人の津富は、素外宅に同居していたという。
素外は、得器と同じく、神田お玉ヶ池に住んでいたので、津富も居候ではあるが、神田お玉ヶ池に住んでいたことになる。
また、素外は、小林一茶とも親交があり、一茶の句集の中に、
素外賀新庭
出来たての山にさつそく時鳥
とある。
おそらく、同居の無欲恬淡な津富とも、一茶は親交があったに違いない。
安永四年(1775)刊の、俳諧選集『名所方角集』には、編は素外で、跋文は津富、とある。
『姸斎落歯塚』が、いつの日か、荒川区登録文化財として、談林派歴代の句碑とともに、末永く保護、保存されることを、切に祈るしだいである。
※ 本稿の発表については、養福寺ご住職の快諾を得ております。
◎ 養福寺=荒川区西日暮里3-3-8