江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

世田谷区 次大夫堀公園・民家園

2016年05月21日 20時42分58秒 | Weblog

今日21日は成城学園前で俳句の句会。今日は吟行を兼ねて句会という、若干熱心でない句会であった。吟行も当初は横浜の港の見える公園とか案があったが、多分天気が悪かろうということで、本拠地の成城学園駅近くの飲み屋の近くを歩こうとなった。で、どこへ行くのかと聞いたら、「次大夫堀公園」という。私も知らないから、何ですか、それは?ですがな。でもいいお天気だ、散歩も良し。行きましたよ。

次大夫堀とは、稲毛・川崎の代官であった小泉次大夫(じだゆう)の指揮により慶長2年(1597)から15年の歳月をかけて開発された農業用水で、正式には六郷用水といい、玉川の水を取り入れ、世田谷領14ヶ村の水田利用灌漑用水として、23.2km、世田谷領と六郷領(現大田区)との間で、350年間利用されてきた。

小泉次大夫は、徳川家康に従って、武田勝頼と合戦。武功により、750石を与えられた直参であり、普請奉行として多摩川改修事業に従事していた、能吏でもあったようだ。職責上立場から多摩川沿いの新田開発を建議、それが認められ、、多摩川東岸の六郷用水、多摩川西岸の二ヶ領用水の普請を命じられたとか。

さて、次大夫堀公園だが、江戸の昔から四〇〇年を越えた現在の変貌は極めて大きい。特に、高度成長経済以降の変貌は大変なもので、いわゆる「三丁目の夕日」以前の記憶を持っている世代が、世田谷区や、区役所その他公的機関に多くいるから、昔の実態を残すべきだと考え、実践している要素が多いと、吾輩は思っている。

次大夫堀は、六郷用水で多摩川東側、多摩川西側は、二ヶ領用水として、ともに新田灌漑用水として、同一責任者のもとで、同時に開発がすすめられ、同じように多摩川沿線の水田開発に効果を上げた。が、六郷用水=次大夫用水は人口に膾炙しながら、時代とともに、徐々に消滅していって、いつの間にやら、「野川」の一部となって消えていったようだが、世田谷区がその豊富な財政事情から、次大夫堀公園をとともに、世田谷区の旧家を民家園として、再開発した地域が、今日21日の吟行会の目的地であったのだ。

以前「二ヶ領用水」分水器を見に行ったことがあるが、あれは多摩川左岸の現在神奈川県側の、二ヶ領用水の一部に、太平洋戦争直前の頃の、優秀な土木工学者の傑作であり、あのサイフォンを利用した完璧な構造物は素晴らしい遺跡だ。「二ヶ領用水」に比べ、当時の社会に与えた影響力はもっと大きかったと推測される「六郷用水=次大夫用水」があっても、多摩川右岸の世田谷側には、これといった「玉」がなかったから、あまり名前を知られず、消えていったのだろう。

 岡本民家園

ちなみに、江戸時代から、次大夫堀=六郷用水を利用していた14ヶ村は 上流から

和泉  猪方  岩戸  喜多見  鎌田  大蔵  岡本

瀬田  上野毛  下野毛  等々力  尾山  上沼部  下沼部 の各村である。

現在の狛江市や世田谷区、大田区まで至る。 これらの地名が現在も残って使われているのが多い。

 追記  以前の   二ケ領用水久地円筒分水  2015,12,17掲載   を参考にして下さい。

 

 

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