江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

将門塚  平将門の乱(天慶の乱)

2012年06月29日 09時19分49秒 | 歴史を旅する
将門塚  平将門の乱 (天慶の乱)   千代田区大手町1-1-1 

平将門の父、平良将は下総国佐倉に所領を有し、その子の平将門は京に上って中級官人として出仕し、摂政藤原忠平の従者となっていた。
良将の死亡により将門は帰郷。すると父の所領が伯父の平国香や叔父の平良兼に横領されていたといわれる。
将門は下総国豊田郡、猿島郡を本拠にして勢力を培った。
935年(承平5年) 前 常陸大掾 源護の娘をめぐる争いで、源護の三人の息子と紛争。将門は源三兄弟を討ち破り、源護の館真壁に攻め入り、更に将門は伯父の常陸大掾平国香をも討ち取る。
この間、平将門は関東で軍事力伸長。
源護の訴えにより朝廷からの召喚命令があり将門は上京し検非違使庁で尋問を受ける。朝廷はこれを微罪とし放免。将門は東国へ帰る。
逆に、平将門は元主人の藤原忠平に平良兼の暴状を訴え、朝廷から良兼らの追捕の官符が発せられる。これにより、以後、平良兼の勢力は衰える。
937年(承平7年) 平良兼の息子平貞盛は上京し将門の暴状を朝廷に訴える。貞盛は東国へ帰国し、常陸介藤原維幾に平将門追捕召喚状を渡すが、将門はこれに応じなかった。
この間、平貞盛は平将門側に追われ、東国各地を流浪することとなる。
このころ、関東各地では、新任の国司や介などの間の紛争、現地勢力等との紛争が頻発。軍事実力者としての平将門はこれら現地紛争に巻き込まれていく。
常陸国の藤原玄明が受領と対立して租税を納めず、乱暴をはたらき、更に官物を強奪したとして国衙から追捕令が出されていた。平将門は玄明を保護し、常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は応じなかった。
939年(天慶2年)、この対立が高じて合戦になり、常陸介藤原維幾は3000人の兵を動員したが、将門に撃破され、国府に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、藤原維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくしたといわれる。
将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との間の「私闘」であったが、この事件により朝廷に対して反旗を翻す形になってしまう。
将門は戦勝によりおごり高ぶり、周辺にあおられ血気盛ん。軍を進め、同年、下野国、上野国の国府を占領、「新皇」と称して、朝廷とは独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。将門の軍事力の勢いに諸国の受領や国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国など、関東全域を手中に収めた。
  (これが、人間の性・さがなるものかもしれない。動きがついて動き始めると、行きつくところまでいかないと止まらない。個人レベルでもグループレベルでも同じ。アドレナリンが分泌し精神が高揚すると、天にも昇る気になり、それは止まることを知らない。大成功に終わるか破滅かまで突き進んでしまうかだ。その時の政治・軍事が往々にしてかような偶然性によって動き、また偶然にも左右される。その結果が歴史となることもある。世の中にはそんな例がごろごろしている。平将門の場合もその一例のようにも見える。)

この時、関東8カ国を平らげた将門が任命した関東諸国の国司は、下野守、上野守、常陸介、上総介、安房守、相模守、伊豆守、下総守など。軍事的実力を背景に、国司任命など人事権を行使するなど、まさに独立王国と言わざるを得ない。これを英雄視する立場からは当然将門伝説が生まれる。

940年(天慶3年)、将門謀反の報と、同時期に西国では藤原純友の乱の報もあり、朝廷は驚愕。関東には参議藤原忠文が征討大将軍に任じられ、追討軍が発出。これに対し、将門側は兵5000人を率いて常陸国へ出陣して、実質的な敵対勢力平貞盛と藤原維幾の子為憲を捜索するも貞盛等の行方は知れなかった。
しかしこのとき、将門は一時武装を解いて、下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。(結果的にはこれが平将門の命取りとなる最大の判断ミスといえよう。)
間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と連合して兵4000人を集めているとの報告が入った。このとき将門の手許には兵1000人足らずしか残っていなかったというが、そのまま出陣する。
  (ここでも無理して戦うという大きな判断ミスを犯している。負け戦とはそういうもので、途中での致命的なミスを何度も指摘できるが、勝ち戦ではかような判断ミスは結果オーライで消えてしまう。)
貞盛と秀郷は将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃する。合戦になっても、将門の軍勢いはふるわず、退却。
貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠地に攻め寄せた。将門は兵を召集するが形勢が悪く集まらず。やむを得ず、兵400人を率いて対陣。貞盛と秀郷の軍に為憲も加わり、将門勢力と合戦がはじまった。
最初、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし急に風向きが変わり、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じる。将門は自ら先頭に立ち奮戦するが、飛んできた矢が将門の額に命中し、あっけなく討死した。享年38歳。

将門の死により、その関東独立王国は僅か2ヶ月で瓦解。残党が掃討され、関係者は誅殺。将門の首は京にもたらされ梟首された。将門を討った藤原秀郷には従四位下、平貞盛には従五位下がそれぞれ授けられ、関東は昔の律令制が緩んだ地方秩序が回復。

将門伝説
 将門の首は京に送られ、梟首獄門にかけられた。  しかしこの首は、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵の国豊島郡柴崎の地に落ちた。この際、大地鳴動し太陽も光を失ったという。村人は恐れてここを将門の首塚としたと。
この地は、現在東京都千代田区大手町1-1-1、三菱UFJ銀行の向かい側、三井物産の東隣の文句なしの1等地である。この地は神田明神の故地であり、ここに、1307年徳治2年、真教上人が将門の霊を供養した供養碑があり、その後焼損の度に復刻し、現在に至ると。なお、この地は明治2年から第2次大戦まで大蔵省があり、大蔵大臣阪谷芳治が後人のため、古跡保存碑を作ったと。
更になお、この地は、江戸時代の寛文年間、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、ここで、歌舞伎「先代萩」、山本周五郎「樅の木は残った」の伊達安芸・原田甲斐が殺害された場所でもある。



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季節の花

2012年06月26日 20時29分42秒 | 歳時記
紫陽花の うすむらさきに 透ける日々

覚悟あり 薄紫の 七変化





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日曜日 お疲れ

2012年06月25日 09時00分34秒 | Weblog

梅雨の晴れ間にテニス

スカイツリーをバックに、錦糸町の猿江公園







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江戸城2の丸庭園 アヤメが満開

2012年06月23日 22時47分24秒 | タウンウォッチング




















散歩に行って写真を撮ってきましたよ。
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立川基地跡  国文学資料館 鴨長明・方丈記展示会

2012年06月20日 20時24分14秒 | Weblog
立川基地返還後、国文学研究資料館なる文科省の監督下の組織がある。
ここの仕事は、国文学に関する各種文献を収集、保存、展示、そして研究者等に対する資料提供のようだ。
 ここには、たくさんの歴史的かな文書を写真にとり、これを研究する体制を整えている。
文学面と、歴史面と、その他各種文字資料などを集めている、その姿勢は頭が下がるネ。
今度,国会図書館の大滝館長に、老婆心ながらお知らせしてあげようっと。彼は図書館学の第一人者なのだ。

今回、鴨長明の方丈記から800年、これを期して、当時と同じような末世の混乱と大飢饉、大地震の後の社会風俗を書いた鴨長明を、書肆学の立場からアプローチしようとする展示会のようだ。
鴨長明の生きざまを見せてもらったヨ。何しろ、下賀茂神社の入り口の左に、鴨長明の庵、「方丈」が展示してあるのだから、興味深々。








立川駅はものすごく近代化しており、それにモノレールが延伸して、東京西部の中心都市と位置づけられ、そこへ立川基地跡地返還の地の利を生かしているみたい。おれ立川に縁がなかったからな。

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あとは、疲れた。立川駅で飲屋を探したが、ここは近代都市で、憩いのうるおいがないね。

そこで吉祥寺まで行き、久しぶりに、北口の焼き鳥や「いせや」に行きましたよ。
ここは昔からの店で、我輩が学生時代、井の頭4丁目に住んでいて井の頭公園を横切って吉祥寺駅に通っていた時代からの店。

まずはビール。ついで煮込み&焼き鳥。懐かしいネ。
昔は明るいうちに飲んでるオヤジはなんぞや!と思ったが、いまは全くそのオジサン。恥ずかしいね。
意地汚く明るいうちに酒を飲む、いやだね。。。。。でもいいよ。





。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

夏至の日の 日の入り7時 中央線
                   むとつ
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月島 散歩の続

2012年06月18日 21時24分42秒 | タウンウォッチング





月島には、一返舎一九の墓と顕彰碑があった。浅草にあったものが、関東大震災で当地に移転したらしい。
なにはともあれ、野次さん喜多さんにちなんで楽しもうでないか。
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本郷も かねやす までは江戸の内

2012年06月17日 19時31分36秒 | タウンウォッチング







本郷3丁目、春日通り と 中山道17号線 の交差点。

ここまでが 江戸町内で 郊外との境目と 川柳?で言われたとか。


タウンウォッチング という楽しみもあるよ。
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横須賀米軍基地内の 空母ジョージ・ワシントン

2012年06月16日 10時45分53秒 | 歴史を旅する







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2012年06月16日 02時18分14秒 | Weblog
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石川島散歩

2012年06月14日 20時14分18秒 | 歴史を旅する
石川島、現在の月島を散歩。中央区の「月島百景」展示会を見に行ったついでに月島、晴海埠頭を自転車で散歩。

今でこそ、中央区内の 佃、月島、勝どき、豊海、晴海、の名称の区割りがあるが、そこにはそれなりの歴史がある。

徳川家康と上方で関係のあった、摂津の国西成群佃村・大和田村の漁民33名が江戸に下った。幕府に魚や野菜を提供することを認められ、石川氏が拝領の石川島の南続きの干潟を築立し、ここを出身地の名をとって佃島とした。ちなみに1649年慶安2年には、戸数80件、160余名の漁民がいたと。

隅田川河口の浅瀬の島は、明治5年に佃島と改名されるまでは、石川島であった。これは、1626年2代将軍秀忠の時代、旗本石川正次が御船奉行として、水主同心130人程度を統括し、幕府水軍として江戸湊を防衛する役目であった所からの命名と思われる。この役職は1590年の家康関東入国時から存在していたもので隅田川河口や品川沖の航行を司る役目であろう。

 それから約160年、徳川幕府も安定期をすぎると、内政上の各種問題を抱える時代変化の矛盾が生じて居た。当時の、火つけ盗賊改め・長谷川平蔵の建議により、隣接地の寄洲に人足寄場が設けられた。石川氏は永田町へ移転。

人足寄場とは、離村した者や、放浪者、人別帳に記載のない無宿者、以前刑罰を受け引き取り人のない者たちを収容した施設で、1790年寛政2年老中松平定信が長谷川平蔵の建議を受けて石川島に設置したものである。

鬼平犯科帳の時代は、無宿者や経犯罪者に対し仕事を教え出所後に自立させる授産・更生の機能を果たしていた。従来は無宿者対策と言えば、佐渡金山に送り強制労働をさせるのが中心であった。
 石川島人足寄場入所した無宿者は、まじめに作業し改心の様子が見られれば月日を問わず放免、農村出身者には相応の地所を与えられたり、江戸出身者には、店を営めるように取り計らわられることもあった。作業に対し賃金が支払われ、その1/3を強制貯蓄させ、出所の際にそれを与えた。また月3度の休業日には心学者による訓話もあったとか。
 人足寄場での作業は、藁細工、精米、堀の浚渫、炭団の製造、古紙の再生、牡蠣殻灰の製造など。特に1841年天保12年から、油絞りが加わり、これは人足寄場の大きな収入源となり、年間800両の収益となったとか。
 
しかし、1836年の天保の大飢饉による無宿人の増加、社会不安から、人足寄場は懲役的性格を強めていった。以後そして明治以降は、懲役場、監獄所と改称し、1895年明治28年、施設の老朽化などで、これら機能は、巣鴨へ移転し、石川島の役目は終わった。

隅田川河口や石川島あたりは本来自然堆積で水深が浅かった。明治になると大型船の航行の必要から、東京湾の浚渫工事とその付帯事業として浚渫の揚げ土を用いて、月島・新佃島の埋め立て工事がおこなわれることとなった。これはのちの大倉組、日本土木会社が行うこととなった。

明治政府の大計画は明治16年に計画され、月島第1号埋立地は明治25年竣工。つぎは月島第2号埋立地が明治27年竣工。新佃島が明治29年竣工。月島第3号埋立地が大正2年竣工。月島第4号埋立地が昭和6年竣工。そして最後の月島漁業基地が昭和37年竣工した。これを見ると、歴代政府、東京府のすごい執念が感じられる。一言で言うと、東京は隅田川河口&東京湾へ埋め立てしつつ、新領土拡大を行ってきたのだ。
 そして、月島は明治25年の埋め立て時期に、築島から月島に代わって現在に至る。

東京は日清・日露戦争を契機に産業が発達。月島はその適地であった。幕末の西欧軍艦の来航等もあり、石川島において、幕府や明治政府の造船対応があったが、それは官営の艦船事業。明治9年に平野富二が石川島平野造船所を設立し、民間部門の汽船需要を開拓していった。明治44年には芝浦製作所と提携し、造機、鉄道旅客用車両、大型橋梁建設等へも進出する大企業となっていく。

 しかし、時代は変わる。高度経済成長の時代が過ぎ、多くの産業が構造改革していく中で、石川島造船の跡地は現在、高層マンションにとって代わられている。
月島の向こう側の石川島播磨跡地でも、都市再開発され、豊洲高層住宅街となり急激な変化を遂げている。そして月島はいま「もんじゃ焼」のブランド地となっている。












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スカイツリーの下に凸面鏡

2012年06月13日 09時51分33秒 | タウンウォッチング
スカイツリーの下に、通行人の顔とツリーの高さの2つを映す凸面鏡があり、
これにカメラを向けると、我輩と634mのツリーが一緒に写る。

進んでいる―!!

        
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分倍河原の戦い

2012年06月09日 23時44分46秒 | 歴史を旅する









分倍河原の合戦             JR南武線・京王線分倍河原駅から歩20分


1333年元弘3年、新田義貞は上野国生品神社で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。鎌倉街道を利根川に沿って南下。挙兵時百五十騎余だったが、途中、甲斐源氏、足利高氏の嫡男千寿王(のちの義詮)らが続々合流し、20万余りもの大軍勢となった。
新田軍は鎌倉幕府方の長崎高重、桜田貞国らと、小手指原の戦い、久米川の戦いで撃破して進軍。幕府軍も態勢を立て直し、鎌倉からは執権北条高時の弟北条泰家を総大将とする10万の軍勢も合流して、この分倍河原で陣を敷いたという。
新田軍は分倍河原に向かって、正面から激突。まずは幕府軍が奮戦して新田軍を撃破し、新田軍は狭山市堀兼まで敗走。しかし、翌未明には態勢を立て直し、幕府軍を奇襲。これにより北条軍は壊滅状態となり、鎌倉を直接守るべく敗走した。それを追走して、鎌倉での包囲戦の後、東勝寺に立てこもった執権北条高時ら一族600名は東勝寺にて、自害。鎌倉幕府が滅亡する。

 なぜ鎌倉幕府があっけなく滅亡したのか、いろいろ疑問がある。関東各地の大小の武士団が、自己の存立と繁栄をかけて新田軍に雪崩を打って参加したのだろうが、その動機と理由は何だろうか。後醍醐天皇等の綸旨等での要請・教唆は当然あっただろうが、関東の個々独立の武士団を突き動かしたものが何であったか、どうもよくわからない。
 北条得宗家の横暴・富・地位・権力集中は多分その通りだろうが、それなりに長年の秩序が維持されてきたのだろう。執権北条高時が犬追物にふけって政務放棄していたとかいうのは理由にならない。
 京都では、後醍醐天皇など朝廷方謀反=幕府転覆活動を鎮圧するために派遣されたはずの鎌倉幕府軍最高実力者足利高氏が、何らかの理由で、寝返った。そして鎌倉幕府の京都支配の根拠地南北京都探題を急襲、これを滅ぼした。これが最大の要因か思うが、北探題の責任者、北条仲時は破れて鎌倉へ帰還のを図るが、近江番場宿の蓮花寺で333名全員が腹を切って自害。本来の京都治安防衛勢力が、自らそのプレゼンスを消滅させてしまうなんて、現代的感覚では理解ができない。

 いずれにせよ、歴史の代わり目を作るものとは、何と何と何と がその原因なのだ、と言えるものがほしい。
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1455年享徳4年1月、足利成氏鎌倉公方勢と上杉関東管領勢が、同じこの分倍河原の地で戦っている。享徳の乱といわれ、関東の応仁の乱に相当するような騒乱=戦国時代の開始=は、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことに始まる足利氏と上杉氏が対立。
足利グル―プは500騎でここ分倍河原で上杉グループに奇襲、一進一退のところ、扇谷上杉家当主上杉顕房が戦死。
以後、鎌倉公方グループが優勢に上杉関東管領グループを追撃するが、室町幕府の援軍や上杉一族の援軍等で盛り返し、戦線は膠着状態となる。

そうすると上杉関東管領グループに押さえられている鎌倉には、鎌倉公方足利成氏が帰還することはできず、利根川の東、下総の国の北部の古河に住み着いて、以後130年近く古河公方と称する地方政権となる。
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鎌倉幕府の終焉、関東での長期間の戦国混乱の時代の開始という、日本史上の二大合戦の舞台で極めて有名な分倍河原だが、今は現代化した都市の街並みにうずもれ、往時を想像するものは何もない。分倍河原駅前に、新田義貞の騎馬像があり、旧鎌倉街道沿いに、「分倍河原古戦場碑」があるのみだが、周辺は分梅町として名を残している。
室町時代の享徳の乱はその後、多くの地で、大小多くの戦があり、分倍河原の戦いはあまり印象が強くなさそうで、分倍河原と言えば、新田義貞が独占しているようだ。
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AKB48総選挙 in 武道館

2012年06月06日 20時08分09秒 | Weblog
今日、台風で雨が降ったから早い時間に日比谷テニスを中止。
代わりに、午後散歩がてら、いつもの北の丸公園を通る。今日の武道館は、なんと
「AKB48総選挙」開票だって。

 名前は聞いたことがあるが、なんじゃこれは? 若い男女のほか年代の分らないファンがいる。武道館で、何時もやっているほかのライブと、なんか客層が違うような、雰囲気が違う。どんなことをするのかな。

我輩は体育館で汗を流した後、家でTVを見ていると、ATB48総選挙開票だって。
オイオイオイ、こんなことしてもいいのかね?
TVは公共放送=公共財産でないのかね?カネもうけ・単なるエンターテインメントの手段かね?
いやいや、現代文化をAll Japan から World Wideへの文化発信=国益か。
そんな馬鹿な屁理屈こくのは、老人病かも。  黙って、楽しめ!っと。

よう分らんが、若い女の子が次から次へと出てくるなんてすごいね。
宮澤佐江ちゃんとか、板野友美ちゃんとか、つぎつぎに可愛いね。

武道館にこれだけの人を集めるAKB48ってすごい。我輩は御徒町のB級グルメはよく行くが、隣のアキバになんか行っていないから、こういった文化と縁がないが、これから少しは実体験する必要があるな。

秋元康 って男はすごいね。放送作家から始まり、作詞、小説、マルチエンターテインメント、なんかすごいマルチ能力の持ち主だ。

 若い女子を集め、「清く、正しく、美しく」の宝塚の現代版を構築して、これを新しいビジネスモデルに作り上げたなんて、いやいや、すごい人がいるもんだ。脱帽。

 総選挙という公的全国区事業を、換骨奪胎し、本来の選挙より、もっと多くの人の心をワシ掴みにするエンターテインメントに作り上げるなんて。
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石神井城の戦い

2012年06月05日 13時59分11秒 | 歴史を旅する
石神井城の戦い・・・豊島一族滅亡  石神井公園・三宝寺池  西武池袋線石神井公園駅から10分

豊島氏は秩父平氏の一族で鎌倉幕府の有力御家人。
武蔵国内に練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など多くの支流があり、室町時代でも大きな力を有していて、その所領は豊島、足立、新座、多東の四郡で2300余町歩、5万7500石ともいわれる。
古河公方足利成氏グループと関東管領上杉氏グループとの長期に渡る享徳の乱では豊島氏は上杉氏側に味方していた。

長尾景春の乱を通じて、扇谷上杉氏家宰の太田道真、道灌父子が大きく勢力を伸ばした。

これに関し太田道潅との対立が豊島氏が長尾景春方に呼応した原因とされる。特に豊島氏の領域近辺に江戸城を築いたことが豊島氏の権益を脅かしたであろうと考えられる。

長尾景春の反乱の過程で、豊島泰経は石神井城、練馬城(練馬城が現在の豊島園である)で挙兵。その弟の豊島泰明は日田塚城(東京都北区)で挙兵。道灌は上杉朝昌、千葉自胤と合流すると、両軍は江古田川と妙正寺川の合流地点、江古田、沼袋あたりで遭遇。道灌は氷川神社(東京都中野区)に本陣を置いたとされる。

数においては豊島勢が勝り、緒戦は優勢だったが、徐々に豊島勢は敗退して泰明は戦死。道灌は50騎で200騎の豊島勢を打ち勝ち、板橋氏、赤塚氏ら豊島勢150騎が討ち取られたという。
泰経は石神井城に逃げ込み、道灌は愛宕山(練馬区上石神井三丁目)に陣を敷いてこれを包囲した。泰経は城を出て道灌と会見し、降参を申し出た。城の破却が当時の降伏の作法であったが、泰経はこれを実行せず、このため偽りの降参とみなした道灌は総攻めをしかけ、石神井城は落城した。泰経は平塚へ逃亡。

江戸城と河越城との連絡線を回復した道灌は主君上杉顕定、定正と合流して北武蔵、上野国を転戦して長尾景春を封じ込めることに成功。ここから、古河公方が和議を打診してきた。

この和議を妨害する勢力も多く、この機会に豊島泰経も平塚城に拠って再挙兵。道灌は平塚城を攻め落とし、泰経は城をのがれて丸子(川崎市)小机城に逃げるがここも包囲され落城。泰経は行方知れず、豊島氏本宗家は滅亡した。

石神井城落城に際して、豊島泰経は黄金の鞍を白馬に載せ石神井公園内の三宝寺池に入水し、次女の照姫も後を追って入水したという伝説があり、練馬区では毎年「照姫祭り」が行われている。
しかし泰経は石神井城落城のときには死んでおらず、平塚城で再挙し太田道潅に戦いを挑むが、ここでも敗退、そこで行方不明となり豊島家滅亡した。


道灌は各地を転戦して景春方を攻め潰し、1480年文明12年には景春の最後の拠点日野城(秩父市)を落として乱を平定した。

この結果、1482年文明14年に古河公方と関東管領方=幕府方との和議が成立して、30年近くに及んだ長享の乱という関東の争乱は終結した。
豊島氏の所領は道灌に帰することとなり、ほとんど独力で乱を平定した道灌の声望は絶大なものとなった。
だが、これが上杉顕定、主君上杉定正の猜疑を生み、1486年文明18年、道灌は糟谷の館(神奈川県伊勢原市))で主君上杉定正によって謀殺されることになった。

ここから、歴史のステージが大きく代わり、両上杉家の対立抗争の「長享の乱」がこの後、18年間も続くこととなる。



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古河公方館跡

2012年06月02日 19時52分28秒 | 歴史を旅する
2日土曜、湘南新宿ライン・宇都宮線で古河に行った。
古河は東京から60km。茨城の西部、埼玉の北部、栃木の南部を商業圏とする人口14万の穏やかな小京都?いい町だ。

 古河と言えば、古河公方か土井利勝。我輩は江戸時代でなく室町に関心が多い。

古河の元は、下河辺庄、つまり鎌倉時代の下河辺行平の領地。現在の古河から埼玉県三郷市あたりまでの広大な地域であった。しかし、鎌倉幕府の有力御家人であった下河辺氏がどういう理由でその領地を北条氏に奪われたかは、私の不勉強でよく分らない。

 鎌倉が滅亡した際、北条氏を滅ぼした勝者足利氏およびそのグループがこれを奪ったのでないかと想像するが、これは素人の想像。下河辺氏は昔の同族であった小山氏に追われたともいわれるが、何時頃のことか、よくわからない。

 いずれにせよ、下河辺庄の北部、いまの古河地域は足利義満から2代鎌倉公方足利氏満に与えられたと読んだ記憶がある。つまり古河は鎌倉公方家の貴重な領地であったのだ。南の方は簗田氏や野田氏が領有している。

 室町幕府足利氏は清和源氏源頼義の子孫で、その一族はすそ野が広く、足利尊氏は決して本家筋ではない。末端の一族だから、なるほど室町幕府創立という大事業をやったが、いざその政権を維持していくためには同族有力者たちの支援を頼らざるを得ない、だからこそ、室町幕府は、同類多くの一族、細川・畠山・斯波・等を含む連立政権であったのでないか。

要は、室町時代あたりでは、将軍とか鎌倉公方とか言っても、多くの有力者の中の比較的有力者の、one of them 程度で、いざとなれば有力者たちの支持を得られない、造反の恐れがあるという構造だったと考える。
(江戸時代では徳川氏は800万石という圧倒的実力をキープした。これは鎌倉・足利幕府の根本的欠陥を見抜いた徳川氏の有力官僚たちの知恵だろうと考える)

鎌倉における鎌倉公方も京都の室町幕府と同様で、関東周辺有力者の、それぞれの利害損得計算の上でのサポートを前提とした構造でないか。

一方、室町足利幕府政権から言うと、鎌倉は京都幕府の一地方機関でもあり、その枠内での関東10ヵ国を支配する構造。現在で例えれば、東京の農水省に対する さいたま市の関東農水局の位置づけかも。

 ところが歴代鎌倉公方は独立心・敵愾心の強い性格の人が多く、常に京都と対抗・独立志向が強く、結局、永享の乱では鎌倉公方足利持氏が自害。鎌倉公方は一時消滅。

その後京都の足利義教将軍謀殺という嘉吉の乱等政治情勢激動の中、いろいろあって、持氏の遺児、政氏が鎌倉公方となる。
 しかしこの鎌倉公方足利政氏が補佐役の上杉関東管領を謀殺。

このため京都幕府は、政氏を公的に追討とする。上杉関東管領勢力等に追われて、鎌倉を放棄、結局、唯一の領地、古河にその存続の基盤を作ったというのが、古河公方と解する。
以後享徳の乱といって、京都の応仁の乱10年間以上の、27年間も対立構造が続く。その根拠地で現実に居住したのが古河鴻巣館。これの跡碑を見てきたのだ。


古河の周辺は、宇都宮氏とか結城氏とか小山氏とか野田氏とか既成勢力がきっちり抑えているため、後発の公方が入るところは唯一の下河辺庄の北部、古河の地という隙間産業みたいなものと言えようか。

それでもここで、130年近く、独自の領国を維持したのだから、それなりの意義があろう。
 
 これはまた詳細を書くよ。
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