江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

中野駅に〈お犬様〉跡を見る

2015年08月31日 19時05分45秒 | Weblog
今日31日で8月も終わる。
8月23日の処暑から、9月8日の白露までの中日で、「天地初めてさむし」とういう72節季に当たる。
そして俗に、立春からかぞえて210日の、台風・野分が来襲する日なのである。このため、富山市の「おわら風の盆」
のような風鎮めの祭りがあるのだ。一昨日はきっと秋田の大曲で日本最大の花火大会が行われたのだろうよ。

天地の動きの峻厳さにくらべ、軟弱な都会人のわが輩は、今年の夏休み8月中に11回のテニスを計画建てたが、8月28日の金曜と30日の日曜の両日、秋雨前線に襲われテニス中止。結局11回が9回で終わってしまった。
なにも大げさにいう訳でないが、「人間万事一寸先は闇」、むかしなら「無常迅速」といったのだろうな。

今日31日の月曜日は本来、お疲れ休みの日だが、金曜・日曜の疲労が出ていない・・どうする?

そこで以前中野のうなぎ屋で聞いた「お犬様」の囲い屋敷が中野駅そばにあるというから節操なく、行ってきましたよ。

5代将軍 家綱は「犬公方」といわれ悪政の代表のように言われているが、必ずしもそうではなかったとか。
世継ぎの子供ができない綱吉将軍は、母親 桂昌院の崇拝する密教の坊さんの教えに沿って、戌年生まれから犬を大事にとの政策を進めたとか。このため、一時 現在の中野駅そばに、犬のお囲い屋敷を立てそこに万単位の犬を収容保護していたとか。


現在はこんな像と案内標識しかない。

さらにその先、現在の明治大学や早稲田大学が進出しているすぐそばに「囲町広場」の名前が残っていた。

昔は、中野区囲町という町名があったそうだが、昭和40年代の東京都の町名大改革で、中野2丁目3丁目になってしまったとか。往時茫々。

1687年の生類憐みの令の時代から328年がたっている。世の変遷は激しい。戦前は陸軍中野学校の敷地ではなかったかな。

次に、綱吉将軍の実母桂昌院だが、この方ほどのシンデレラはないだろう。

一説に京都の八百屋の娘が、3代将軍家光の正妻鷹司孝子御台所のお付きで将軍そばに上がり、天性の美貌と才覚と運で将軍の男子を出生し、さらに同じような立場のの生んだ4代将軍家綱に子供がないところから、綱吉に5代将軍が転がり込んで、その生母となった。

桂昌院はその信心から、護国寺を建立するが孝行息子綱吉将軍が、全面的に支援し護国寺の参道を桂昌院にプレゼントしたとか。



そこで、桂昌院はその処分に、お付きの女中「音羽」に参道の家並み全部を与えたとか。これが現在まで残る音羽通りである。
さらに、音羽の下の女中「青柳」には護国寺の入り口付近の家並みをあたえ、出口付近の家並みを「桜木」に与えたとか。


護国寺の隣に「青柳」の地名が小学校に残っていた。
でぐちの「桜木」あ何ら残っていない。
桜木の先が、昔は江戸川といった現在の神田川が続き、大曲に至く。


綱吉の時代は大昔で、江戸でも音羽通り当たりには人が住んでいなかったのだ。 

鳩山さんの「鳩山御殿」=「音羽御殿」なんか、昔はタヌキやムジナしか住んでいなかった。東京にそんな時代があったのを想像するだけで楽しい。

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日比谷公園の首かけ銀杏

2015年08月14日 21時39分14秒 | タウンウォッチング
今日8月14日は、日比谷公園でテニス。

先週のような無茶苦茶な暑さより少しは下がったが、それでも耐えられない暑さだ。
でも今年の8月はどこへも出かけないで、まるでテニスの我慢大会をやる気分。

今日は日比谷公園のテニスの前に、先日徳川田安家16代の書いた本を読んで、「首かけ銀杏」を発見。そして、今日のテニスのまえに見てきました。


この銀杏は、日比谷公園の松本楼の前に立っている。明治の初めごろ、江戸城の日比谷見付にあった。
明治の初めころに、日比谷交差点や日比谷公園を整備するために、切ってしまおうという意見が出たとき、農林専門の本多静六博士が、長年生きている銀杏を切ってしまうのは切ない、私の首をかけても近くに移植すると主張。この結果、あの星亨がそれに乗って、現在の松本楼の前まで、約500m移植したのが、現在も育っている。樹齢約400年とか。
 1590年、秀吉の小田原征伐のあと徳川家康を関八州に移封。家康は江戸を本拠地とした。それから425年ががたつ。
 樹齢400年というから、江戸城の草創期のころ、日比谷見付は日比谷・数寄屋橋の埋め立てで大名小路の南側の外堀門で、このころ何らかの理由で植えられたものだろう。それが、1867年の大政奉還で江戸時代が終わったときは、きっと樹齢250年ぐらい、その後明治の初め星亨東京市議会議長が暗殺されたのが、1901年だから、約30年をくわえると当時、樹齢280年ぐらいで、江戸時代の世の趨勢すべてを眺めていたのかもしれない。

 それを本多博士が、自分の首をかけてでも、伐採をせず、移植すると主張した、その意気やよし。
こうして、その後、115年がたった。明治時代以降はまだ150年だ。江戸時代の半分強に過ぎない。

 江戸の町はいろいろ変化が激しいね。でも継続しているのがうれしいね。

ちなみにテニスコートの前に、樹齢100年の鈴懸に木がありました。これも経緯があるようだ。



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