江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

下野の国、国分寺・国分尼寺、国府あと&下野薬師寺

2013年09月30日 06時00分04秒 | Weblog
下野の国薬師寺・・・そう道鏡が770年ここに左遷されて2年後に死亡。いつか行ってみたいと思っていた。わが愛用の「全日本道路地図」には、下野の国分寺&国分尼寺が赤マルしてある。
 9月29日日曜、秋晴れの東京。関東も同じ。一発行くか。「いまでしょう!」
8:41分新宿から湘南新宿ラインで終点の小金井まで、約1時間20分。行きましたよ。
 小金井駅で自転車を借りて地図をもらって、その際「円仁さん」はこの辺の出身のはずだがどこですかね?と蘊蓄を傾ける…いやなオジサンだね。でもそこの案内のお姉さんは知っていたよ。壬生の出身で、山形の山寺を作った人だと。さすが地元はうれしいね。恐山の作者でもあるよと言っていた。・・・帰りに自転車を返す時には円仁さんのプロフィールと実績をパソコンから引き出し準備してた。さすが。吾輩も一枚もらったよ。

 自転車を借りて、国分尼寺へ。途中で仕入れた弁当とお茶が昼食。隣の下野風土記の丘資料館。この地の古墳群の特別展を見せてもらう。
 ここで発見した。下野の国・現在の栃木県南部地方は古墳時代には既にこの地域は富裕で、土地の豪族というか有力者というか支配層が多くの古墳を築く実力を有していたのだ。もちろん、年代も支配者名も勢力範囲も分からない。あえて言うなら下野の国造の先祖か。どういう形でヤマト王朝と服従か協調か分かるといいのだが。この肝心の点が考古学の世界には決定的に欠けているから、吾輩は不満なのだが。



国分尼寺のすぐ近くに国分寺跡があった。ともに東山道に沿っている。



国分寺跡を背景に、稲の刈り入れの真っ最中。国分寺のあとが、田んぼになっている、これぞ歴史の変遷だともろに見せてもらった。歴史とはこうなんだ。




次に思川を渡って、下野の国府跡を訪ねる。ここは「倭名類聚抄」には「国府在都賀郡」とのみ書いてあるようで、現栃木市の国府地区のどこかと考えられていたが場所は不明だったよし。
 昭和54年に発掘調査が開始され、宮野辺神社周辺が決め手になったみたい。




この宮野辺神社の特殊性がいろいろ示唆するところがあったみたい。


 昔の国府の役人の執務風景。

 奈良時代の行政区画

次に自転車で下野薬師寺に行く。途中、道そばに下野古墳群のひとつ、愛宕塚古墳に出くわす。

きれいな典型的な前方後円墳だ。前が円墳、立つ位置の部分が方墳。


古墳に接して愛宕神社があり。素朴な下野人気風か。下野薬師寺もそうだが、名前を変えても昔の形を大事に持って伝えていく下野気風を感じた。

次に、自治医大を超えて下野薬師寺跡へ。



下野薬師寺は歴史上、いろいろ栄枯盛衰があり、かっては天武天皇の時代に、(聖武天皇の国分寺より早いみたい)だが、この辺ははっきりさせないのが大人の知恵だろう。
東大寺と博多の観世音寺と並び全国で3大戒壇寺と栄光を有したが(もちろん藤原不比等とか下野の国を背景に政治経済的はいろいろあったのは当然だろう)。道鏡の左遷とか名を残した。その後比叡山延暦寺が戒壇権をもつようになって、徐々に歴史の中心から衰退。もちろん何度か再興運動があったようだが、結局栄光は復活しなかった。
 それでも足利時代には足利政権・経済運営のなかで安国寺と改められ、それが薬師寺の位置で現存している。







これが現在の安国寺である。前の写真が安国寺の六角堂。これは江戸時代のものとか。

最後に、江戸時代、日光街道の、日本橋から22里の1里塚がありました。













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花遊び

2013年09月29日 18時27分26秒 | Weblog
新宿御苑の花あそび



名も知らぬ花



桜のうち、秋から3カ月ぐらい咲く花のようだが、詳細は不明



オジサンの楽しい趣味に、写真撮影がある。ジャンルはいろいろあるのだろう。
でも没我の時間=永遠のこの時を楽しむ






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東レパンパシフィック・オープン・テニスin有明

2013年09月26日 22時11分29秒 | タウンウォッチング
26日、台風20号が右シュートがかかり茨城沖に抜けるころ、東京は雨曇り模様。
昨日は、日比谷公園でテニスをやる予定だったが、あいにくの台風の雨で中止。
悔しい。メンバーはみんな、だれが雨男か?責任追及の感じ。しかし詮ない話。

 そこで欲求不満もあり、またオリンピック2020年のテニス会場でもある有明を見に行こうよと、吾輩は野次馬根性ですがな。

有明コロシアム&有明テニスの森公園に、パンパシフィック・オープンテ二スなるものを
退屈野次馬御家人は見に行きましたよ。


地下鉄有楽町線からゆりかもめに乗り換え、「有明テニスの森」駅まで行きました。こんなモノレールの駅があったよ。

有明のセンターコート。NY並みにハードコートの全天候型。ここに、女子選手の世界ランキング2位から85位+アルファ-で57名が参加とか。



これは本日の準準決勝か。センターコートで屋根付きドームで試合するのだから、レベルは高い。名前は忘れたがチェコの世界ランキング11位、対、ロシアの世界ランキング17位の対戦のよう。

練習している選手や野外TVで放送している。






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立待月

2013年09月22日 22時39分26秒 | 歳時記
1、9月19日が中秋の満月。
この美しい月が、日一日と変わっていく。満月の翌日が十六夜。翌日が立待月である。
今年は、21日夜、立ったままで待つようだが、実際は22日あさ4時ごろの東京の月である。





ここで一句。 「名月や 線描き太く 阿蘇の山」を先日の句会で披露した。熊本での体験。別には、 「名護屋から 壱岐まで波打つ 良夜かな」これは唐津での体験。

2、今日22日、日比谷公園で「日韓交流お祭り」大会をやっていた。盛大にいろいろ出し物があり。








 でも、今これほど韓国国民が官民挙げて日本人を蔑視する態度がある以上、なんかアリバイを作っているようだな。「小中華思想」に凝り固まっているようで、困ったね。「ヘイト発言反対運動」なんか韓国ではどのように報道するのだろうかね。

3、秋の花


 おみなえし(女郎花)

 桔梗

 芙蓉

 曼珠沙華








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混浴露天風呂・・・阿蘇地獄温泉&黒川温泉・・三昧

2013年09月13日 21時02分36秒 | Weblog
阿蘇の地獄温泉はひなびた湯治湯だ。阿蘇の外輪山の内側に硫黄たっぷりの白濁温泉があった。
雀の湯という混浴湯だが、その左部には、男湯と女湯をも設けられており、さらにその他の元湯とか露天湯とかあるが、、在の人の湯治スタイルにも混浴が好まれるようだ。もっとも、男の温泉ツウらしい人は男湯だけの露天湯を雑念なく、楽しんでいたようだが。吾輩は手で触るだけ。



雀の湯の右に、男女が混浴を楽しんでいる姿があった。女性は年のころ30から40で色っぽい、訳ありかと、さりげなく写真を写そうとしたが、連れの男性から、写真はないぜと言われ、そりゃそうだ、ごめんといって、前方で一人お湯を楽しんでいるの在のおじさんの写真となった。





翌日は有名な黒川温泉に予約なく、車で行って、日帰り湯は可能かとと訪ねるうちに、熊本のホテルに帰るのが面倒で、一人16000円なりで宿泊した。
 ここは、ひなびた離れの温泉で、日本人より外国人が多かった。日系の男性と西洋系の新婚さんらしい夫婦と、旅館の混浴に入って、ロケットおっぱいを垣間見せてもらってhappy
だった。









 ただ黒川温泉は湯布院と同じで、有名過ぎて名前がかっている感じを抱いたな。

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日本学生陸上競技対校選手権大会

2013年09月07日 17時13分31秒 | 歳時記
国立競技場。9月6日、7日、8日の3日間。第82回、いわゆるインカレだな。
先週までの酷暑が少し和らぎ、9月に入るとすぐにスポーツ大会だ。若人はいいね。力がみなぎっている。吾輩もあんなころがあったのかと。秋風に思うのです。

対校戦で応援団も動員しているようだ。たとえばスポーツに強くない一ツ橋大学も近くの津田塾大学の運動部員を動員して一緒に応援していた。
 中京大学は強いのだろう。




女子ハンマー投げ













女子走り高跳び





女子三段跳び





女子400mハードル







男子400m





男子10種競技のうち棒高跳び







その他、延々と予選や決勝まで、3日間をかけるから凄い。四国の大学も参加していたよ。









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田原坂の戦い

2013年09月06日 15時59分14秒 | 歴史を旅する
今度は熊本に行ってきましたよ。半分雨だが半分お天気。

御承知のように明治10年の西南戦争。西郷隆盛が切腹して果てた国内最後の内乱。その激戦地が熊本城攻防戦と田原坂周辺の激戦である。

明治10年2月17日、13000人の薩摩軍が進軍。小倉か、東京へ、あるいは京都の天皇(行幸中)への嘆願か、さしあたり熊本鎮台の政府軍へ。

2月22日から25日まで、熊本城の鎮台4000人は薩摩軍に包囲攻撃されるが、守り通した。この間、西郷隆盛の末弟西郷小兵衛が戦死。
 熊本城は攻撃の前夜、失火か守備隊の付け火か原因は不明だが、天主閣を焼失。その後鉄筋の現天主閣が再建されている。



熊本鎮台攻撃中、薩摩軍一部を熊本城包囲に置き、主力はさらに北上して、2月25日熊本救援の政府軍を玉名市の高瀬で抗戦するが、政府軍に押されて、吉次峠・田原坂・山鹿の地に政府軍阻止の陣地を築いた。政府軍の援軍として小倉にいた熊本鎮台第14連隊乃木少佐(このときはまだ少佐なのだ)が援軍に熊本北方の植木に到着。これに熊本包囲軍の一部が攻撃、「向坂の戦い」が始まり、乃木少佐は軍旗を奪われて退却。

ここから田原坂の戦いが始まる。3月4日から3月20日まで17日間にわたる銃撃戦、白兵戦、抜刀隊ありで、小銃銃弾を日32万発消費したとか。

田原坂一帯は熊本城の北部防衛の要地で、当時大砲を引けるほどの道は田原坂しかなく、そこに色々間道が通じていくつかの台地を形成していた。そこを挟んで北に官軍の本営が、南に薩軍の本営がおかれ、田原坂攻防戦と吉次峠の攻防戦と横平山攻防戦が特に激戦であった。
 多大の犠牲と一進一退の攻防戦を決したのは、3月20日、夜中から続いた大雨のあとの深い霧の中で午前5時官軍が音もなく近づき急襲。通常は6時の夜明けとともに進軍ラッパで攻撃開始していたようだから、
薩摩軍は寝込みを襲われた形で、大混乱、4時間の戦闘で柿の木台場を制圧される。その勢いで官軍は田原坂を守っていた薩摩軍の背後から攻撃し、ついに薩摩軍全体の敗退となった。






田原坂記念碑


七本官軍墓地

 この南には薩摩軍の七本柿木台墓地がある。
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