江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

国分尼寺を歩く

2021年05月14日 16時36分00秒 | 歴史を旅する
今日 思いついて 武蔵国分尼寺を歩いた。西国分寺駅からタウンバスで 市内の様子見て 見当をつけてから行きました。






ここに旧鎌倉街道の切通しが一部残ってた。


たくさん見るほどのものがないので ついでに 武蔵国分寺を見てやろうと。   ここに思わぬ発見。
 国分寺と国分尼寺は 当時の東山道 現在の府中街道 を挟んで対象に設置されていたのだ。 もちろん男女の寺に規模に差はあるが。
 こうして国分寺も見ました。こちらは二回目です。











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神田川を歩く

2020年11月20日 20時41分00秒 | 歴史を旅する
  神田川を歩きました。
ただし途中の新宿から で 出発点は 小滝橋です。ここからヨドバシを通って上流を目指しました。

ここで新宿区と中野区との境。





 




神田川と善福寺川の合流地点。地下鉄丸ノ内線の中野富士見町駅から先100メーター位の所です。
 この先神田川に沿って一生懸命歩きました。しかし老齢には勝てず 下高井戸で今日はギブアップ。地図で見ると1番近い駅が京王線の下高井戸駅です。

 何日か日をおいて再度トライです。
京王線の下高井戸から神田川で復帰です。
 ここ下高井戸駅で発見しました。この先甲州街道の高架道と一般道甲州街道のそばに あの玉川上水の跡地がくっきりと残こされおりました。という事は ここが玉川上水と神田上水が最接近していたところであると 思わぬ発見しました。


その後神田川沿いに高井戸の塚山公園辺りで 美しい神田川沿いがありました。

























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東京の温泉に入る

2020年11月06日 10時31分00秒 | 歴史を旅する
 東京都内にも温泉がある。主なものは
後楽園のラ クーア 
荻窪の なごみ温泉
豊島園の 庭の湯  そのほか多数。

 Go toトラベル 真っ盛りの中 隠居の退屈老人は 内需振興の趣旨に反して あまり金のかからない 庭の湯 へ行ってきました。
 昨5日はいいお天気で 病院の定期検診の後 青空に誘われ 近場の温泉♨️気分になり ちょっと脚を伸ばして豊島園まで。豊島園は8月に閉園。何か新しいものを考えているようだ。栄枯盛衰は世の慣い。
 それにしても 青空の下 緑に囲まれた露天風呂なんて 極楽極楽。


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日光街道 千住宿を歩く

2020年08月02日 16時13分00秒 | 歴史を旅する
8月2日やっと夏になった。
良いお天気で暑い。久しぶりで北千住を散策する事にした。今 一番のファッショナブルな街と言う評判である。軽佻浮薄な我輩も出かけました。何しろ長い間コロナウィルスや梅雨空で閉門蟄居の心境であったから。ただし マスクをしてへっぴり腰で。


千住大橋たもとの芭蕉奥の細道のスタート地点。1689年芭蕉は深川からここまで舟できて歩き始めたのだ。
 日光街道はこの千住宿から事実上始まる。

千住宿には色々歴史が残っている。


坂本龍馬の元カノの千葉紗奈がここで灸治院を開いて 私が坂本龍馬の妻ですと名乗っていたそうな。
(去年の秋 宮崎県高千穂の 天の逆鉾 を登った時坂本龍馬がお竜さんと新婚旅行で行って天の逆鉾を引き抜いていたずらをしたから早死にしたと言う話を聞いた。人生いろいろ。)


森鴎外の父親がここで医院を開業していた。そこに若い頃鴎外が居候して医者の道を歩み始めたようだ。




赤門寺の閻魔様。  江戸4宿 品川 内藤新宿 板橋 千住には江戸への入り口でそれぞれ閻魔様が睨みを利かしているそうな。
 安養院は弘法大師のお寺。(ああうれし行くも帰るもお大師様と2人連れ)という碑文があった。


千住氷川神社の 大黒天。


安養院のカンカン地蔵。カンカンと小石で売って願うと願い事が叶うと良い伝えられるおじぞうさま。1699年元禄12年以来打たれ続けているため 顔がのっぺらぼうになっている。




名倉医院。説明書にあるように 江戸期の医療状況を示している。ちなみに現在もここで整形外科をやっておられるのに感嘆。


横山家の姿。江戸時代紙問屋であった商家が残っている。この辺から先は東京空襲の被害を免れ残っているよし。

 今 北千住は芸大など大学が集まりおしゃれなビルや賑やかな商店街と充実した飲屋街 更に無数の静かな路地と荒川の川辺と言う新しいものと古いものが混在した良い街である。
 
 今日は相撲の千秋楽で早く帰らねばならないから北千住の飲み屋街探訪をせずに帰ってきたのが残念。
 ここは中野と同様 夜の楽しみが待っているようだ。













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玉川上水を歩く④ 結願

2020年06月21日 17時12分00秒 | 歴史を旅する
今日21日 夏至。玉川上水の羽村取水堰から四谷大木戸まで43キロ、これを今5日間で 歩いて結願した。
1、初日は羽村取水堰から拝島駅まで。
2、2日目は拝島駅から鷹の台駅まで。
3、3日目は鷹の台駅から三鷹駅まで。
4、4日目は三鷹駅から下高井戸駅まで。
5、今日5日目は下高井戸駅から四谷大木戸まで。43キロの道を5日に分けて歩くなんて軟弱。やはり歳のせいである。が それなりの充実感もある。

玉川上水を歩いてみるといろいろなことが分かる。いろいろ考えさせられる。

当初江戸市民へ飲料水を供給する目的であったが 後には 上水途中の各地で分水取水堰を作り 野火止用水もある 武蔵野台地の開墾の根拠となった。今も 小平市 国分寺市 西東京市 小金井市 武蔵野市 三鷹市などの地域で短冊状の区画整理のある地域が残っているのは きっと玉川上水から水を引いてそして開墾した痕跡であろう。

いわゆる玉川上水公園は杉並区の浅間橋で終了している。その少し先が環八通り でここから新宿 四谷大木戸までは暗渠になっている。つまり環八以内は東京の大経済圏で 昔のままの玉川上水を流しておく余裕はないと言うことなのであろう。

そして環八から先は暗渠であるが故にどこが玉川上水か分かりづらい。甲州街道とその上の中央自動車道の下を下北沢駅から手探りで歩いた。

下高井戸から和田堀廟 明治大学までは暗渠上が公園らしいので分かる。その先の笹塚あたりから 上水の暗渠が分かりづらい。
この辺から甲州街道の南側を玉川上水の暗渠が走っているらしい。














こうして初台を通りいよいよ新宿だ。




文化服装学園の前がどうも玉川上水の暗渠のようだ。
 この先は新宿駅周辺でわからない。ただ甲州街道は今新宿御苑に沿って走っている。だから新宿御苑の中に玉川上水の痕跡を残している。






そしてついに四谷大木戸跡に到着しました。





こうして 玉川上水を歩く を結願しました。パチパチ。









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玉川上水を歩く その2

2020年06月06日 19時13分00秒 | 歴史を旅する
梅雨に入る前の今日6月6日土曜日 前回の 羽村取水堰から拝島駅まで に続いて 今回も玉川上水を歩きました。
 今回は 拝島駅から鷹の台駅 まで行きました。
 羽村取水堰から四谷大木戸まで43キロ。 
 現在の吾輩の体力からすると一息で乗り切るのは無理だ。今日は15キロ弱。しかしくたびれた。
 サルコペニアと言う筋肉体力の経年劣化。もうすぐフレイルになり 要介護の老人になろう。

その名も 玉川上水駅 という玉川上水に接した駅 の近くから 野火止用水 が分水されている。現在は玉川上水駅と言う 多摩都市モノレールの駅にもなっている。



長年の風雪で玉川上水の ローム層の深い掘削の擁壁が崩れている。時間の流れという自然の持つ 自然への回復の力 に負けずに インフラを何とかメンテナンスをしているのはひとえに 江戸幕府と東京都水道局の力である。今は遊歩道と言う形で環境整備が大義にもなっている。

関東ローム層に覆われた武蔵の大地を43キロ先の四谷大木戸まで標高差100メートルにつき23センチ低くなる自然流下で 今もサラサラ流れている。

 昔 フランス南部の ポン デユ ガールのローマ時代の 水道橋に登ってその水路を歩いたことがある。このときはまだ世界遺産が無い時代だったから 外国人旅行者もあのすごい高い水道橋を歩けたのだ。あの時も高度差何センチかの傾斜角度で 水が流れていた。(去年か一昨年 再度行く機会があったが 今は世界遺産で 下から横から眺めて写真を撮るだけしかできなかった。)

 日本の江戸時代の土木技術も決して 勝るとも劣るものではない と実感したね。

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代々木八幡遺跡を歩く

2020年05月24日 15時11分00秒 | 歴史を旅する
   5月24日日曜日いいお天気。紫陽花が咲き始めました。

今日は明治神宮の裏散策路を散歩するつもりでいましたが コロナのため閉鎖中で入れず。やむを得ず明治神宮で拝んで参りました。



この後代々木八幡まで足を伸ばしました。


代々木八幡には石器時代の遺跡がありました。






ずっとずっと時代が下るが
代々木八幡の由緒書きである。

1212年 鎌倉二代将軍 源頼家の 遺臣 荒井氏が創建したものらしい。

熱心に祈っている女性がいた。。。。。。。。

神社は800年祭の準備があるみたい。


大都会 新宿 を前に  渋谷 を後に すごい場所に大昔の居住遺跡や  鎌倉時代の歴史を残すなんて  代々木八幡は大変な神社でありました。
















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本村町貝塚を見る

2020年05月13日 18時28分00秒 | 歴史を旅する
 今日13日の散歩は麻布本村町で ここの貝塚を見ることを思いつきました。
 まず四谷から外苑西通りに入りました。

食い違い坂 大久保利通が暗殺された場所である。今はこの通り美しい。
 
東宮御所の脇を通って青山一丁目交差点を越え青山3丁目交差点を左折、外苑西通りに入りました。
西麻布の霞町交差点を進み、笄町公園で一休み。この辺りは 今は多くの国の大使館が集中しているが、江戸時代には 笄 つまりかんざし簪を作る職人たちが多く住んでおった地域である。かっての笄町が今は西麻布3丁目なる色気も何もあったもんじゃない地名に変わっている。でも笄町小学校が残っていました。
 この先を北条坂 木下坂を通って有栖川宮記念公園に入りました。





有栖川宮は明治維新 西南戦争 日清戦争などに活躍した総参謀長で、この銅像は三宅坂の旧参謀本部跡地にあったらしい。それを道路拡張等に際し、この地に移されたよし。
 有栖川宮公園の一角に 東京ローンテニスクラブがある。

我輩が普段利用している都立の日比谷公園テニスグランドと やはり相当違うんだろうな。
 ここを南へ下り フィンランドとパキスタンの大使館を過ぎて奴坂を左折。この辺が麻布本村。ここに本村小学校がありました。江戸時代よりずっとずっと昔からこの辺が一番開けた地帯であったのだろう。
 その先の薬園坂(昔ここに江戸の薬草園があったとか。小石川薬草園そして植物園に移る前だ。江戸時代も260年。その間の変化はかなりなものだ。例えば現在でも、まだ明治152年だから、江戸時代がいかに長くいかに多様性を秘めているか)を下るとその右側に



大森貝塚は有名だが ここら麻布一帯にも縄文海進の時代 貝塚があって縄文人が採拾経済をやっていた絶好地なのであろう。今は高級マンションが並んでいるが これも昔で言えば掘っ立て小屋かもしれないナ。
 薬園坂にはイラン大使館がありその壁に




イランの
有名地の写真が飾ってあった。これはわかりやすいアイディアだ。

 こうして 明治通りまで出て 歩いて大分疲れたのでバスで渋谷駅まで行き、ここで今日の食料 鮭の西京漬を仕入れて帰ってきました。

  なるべく人を接触しないで 自分の足だけで散歩遠足をするのだが 今日は疲れたのでバスと地下鉄に乗った。
 外出自粛 に反することになったことを反省しきり。







 


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群馬県 保渡田古墳群 タイムカプセルを見る

2019年12月04日 19時05分00秒 | 歴史を旅する
今日12月4日 群馬県高崎の先、榛名山の山麓に沢山の古墳時代遺跡が残っているので、野次馬は見に行きました。
 群馬県は大和に匹敵するぐらいの古墳国なのだ。 
 以下が 保渡田古墳群のうち、八幡塚古墳の復元した姿の写真である。

後ろは榛名山。広い地域に入植したのだろう。


前方から後円墳を見る。

多量の埴輪を土留めに使ったのか。





 ここは5世紀前半、倭国大乱の後、倭の五王が南朝 宋に朝貢し、倭王讃 とか宋書にかかれ、安東将軍などの名前で 新羅、百済、高句麗の格付けと微妙に差をつけ、各国を冊封体制の中に閉じ込め、秩序を維持する。こういうやり方が歴代中国王朝である。
 それはそれとして、日本の古墳時代に、群馬では 崇神天皇の一族の一部 多羅氏系が 榛名山の山麓に入植し灌漑設備を用いて 大きな勢力を築いたようだ。それが 短時間のうちに 急速に大和の 前方後円墳 の文化を受け入れ協調して、大きな古墳群を作った。

 それがわかるのは、新幹線建設工事の最中、偶然に 5世紀の 王の館跡 が発掘されたのだ。
 これには5世紀当時の農村風景がそのまま残っていた。なぜなら550年から600年ごろに榛名山が2回大爆発を起こし土石流がこの地域一帯を厚く覆っておった。これが新幹線工事で偶然2メートルの土砂の下から発見されたのである。
 まさにポンペイの遺跡と同じこと。
これが日本書紀の記載とかなり一致するところから歴史的事実として見られている。

 特に吾輩が改心したのは小さな村落と水田後灌漑後が明白に残っていること。現在の棚田の原型だ。これは古墳時代と言うもののイメージを決定的に変えるものである。
 要は古墳時代の人達というものは 縄文時代的なイメージから大きく外れ、むしろ現代人とほぼ変わらない1500年前の人たちの生活そのものが見える。
 年をとってくるとこういうのが、老人性の男のロマンと感じるのが悲しい





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葉桜 3態

2019年04月09日 17時01分28秒 | 歴史を旅する
葉桜の季節になった。







他にも葉桜が。







花びらが浮いている。
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入学式

2019年04月08日 14時01分44秒 | 歴史を旅する
今日は4月8日である。
たまたま歯医者の帰りに通った日本武道館で日本大学の入学式をやっていた。



3月25日の卒業式と比べるとずっと地味である。

新入生の初々しさと卒業生の社会に出る意気込みの差のように思える。

初々しい. 新入生だ。


閑話休題


満開の桜も峠を越えたか。そろそろ葉桜の頃になりつつある。標準木もこの通り。



時の流れは早い。大騒ぎだった 令和 改元発表から早1週間が経った。

新会計年度が始まった。各人各様に新しい時代の始まりだ。
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トーマス転炉 近代産業遺産

2019年04月07日 14時42分55秒 | 歴史を旅する
今日4月7日も大変良い天気であった。

満開の桜も良いがもう少し知的な関心もいいね。

そこで今日は前から行こうと思っておった川崎市の等々力緑地にあるトーマス転炉を見に行きました。

東横線の新丸子駅から地図を頼りに約10分多摩川の右岸に等々力緑地がありました。

ここは、近代化が進みあまり緑地等の余裕のない川崎市が運動場や文化施設等を集中的に形成している場所であるようです。 そこに産業遺産はありましたよ。


側にいる子供たちの大きさから、 転炉の大きさが分かります。
旧日本鋼管の最高の設備であったようで, これが日本鋼管の戦前戦中戦後の成長の原動力の1つであったようです。だから産業遺産なのでしょう川崎市が保存し展示する所以であります。



これで今日の散歩の目的は達したのですが等々力緑地は初めての訪問で、がなかなか良いところであります。
等々力競技場では、陸上競技の大会をやっていました。

ちょうど桜の満開の頃であります 。あちこちで、花見の宴がありました。







 等々力緑地の花見の後ろに時々写る高層ビルは、 ㇺサコ  つまり武蔵小杉の高層マンション群であり、
この緑地は、ハイソ・ムサコ の住民の公園だったのです。


このあと川崎市の等々力緑地から多摩川堤防に出ました。すぐ隣です。そうすると多摩川の土手も花見客でいっぱい。

多摩川の河原には日曜家庭菜園を楽しんでいる人がたくさんいました。

以前訪ねた田園調布の玉川台古墳群も川崎側から見ると穏やかな豊かな地域でありました。

この辺は多摩川の河口から14キロと言う地点であるようです。

多摩川の河原は本当に春らんまんでありました。


本当に今日は良い経験と花見をさせてもらいました。幸せ。
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花いかだ

2019年04月06日 19時06分48秒 | 歴史を旅する
今日4月6日も大変良いお天気だった。

桜は満開。





宝田橋から見た神田川の花筏です。隣は千代田区役所のビルです。

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等々力渓谷 を歩く

2019年04月04日 20時03分19秒 | 歴史を旅する
今日4月4日はいいお天気で暖かい。

午前中読書をしてぐずぐずしているとはや午後に、良いお天気。どこかへ出かけないと足が鈍るね。

そこで前からいちど行こうと思っていた等々力渓谷に行くことにした。

古代ローマ人の言葉ではないが、遠くにあるものに対しては有り難がってみるが、近いところのものはあまり関心を示さない。これ人間の心理。

そこで吾輩はこの心理を意識して先ほどスカイツリーに無理して登りました。

今回も、等々力渓谷に断固行ってみるか、と言う気分であります。


これが等々力渓谷であります。


後の陸橋が横浜に行く第3京浜である。昔第3京浜を何度も通ったけれど、高速道路の下に等々力渓谷があるとは知りませんでした。
横穴式古墳が三基ありました。


このすぐ上に、環状8号線つまり環八が走っていました。


等々力渓谷と言えば、等々力不動尊であります。


等々力不動尊では、お釈迦さんの灌仏会すなわち4月8日の誕生日を祝って甘茶掛けをやっておりました。
不動尊の下は武蔵野大地の南端で谷沢川崖線の見られるところであります。ここに水が流れ落ちる滝が修業の水垢離場がありました。この音が轟くので等々力渓谷となったそうであります。




次にすぐ隣の野毛町公園に行きました。ここはまさに第3京浜の入り口でありました。こんなところにあるとは数十年ぶりの出会いであります。

でもこの公園には 野毛大塚古墳 がありました。


これはこの古墳の埋葬品を図にしたものであります。前方後円墳の形がきれいに残っており、特徴的には前方の部分が小さなベラ状になっておりこれが特徴のようであります。
しかし以前訪問した玉川古墳群の古墳に比べてこちらの方がむしろ完成度が高いような気がいたします。玉川台とこの辺の地域はおそらくいくつかの集団が共存しておったと思われます。

なおこの野毛公園で発見したのは、赤白の花が1本の木に咲く 源平しだれ桜 がここにも咲いておりました。という事は大妻女子大学の新校舎に際して新しい品種が植えられたのではなく、ある程度知られた桜で珍しいものかなあと思いました。



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標準木は満開 命短し恋せよ乙女

2019年03月29日 20時41分49秒 | 歴史を旅する
今日3月29日 標準木はもう満開




千鳥ヶ淵も満員


ソメイヨシノは満開。だが早く咲いた 修善寺寒桜は、もう完全な葉桜となっている。

やはり桜はソメイヨシノか。

明日頃からきっと花吹雪が見られよう。

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