江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

八戸・青森で  B級ぐるめ 

2012年03月31日 10時33分16秒 | Weblog
先週の みちのく一人旅 で
帰京後、26日は図書館に行く途中、武道館で明治大学の卒業式に出くわす。
はかま姿の学位をもった女子がたくさんいて、若さと希望に圧倒されたね。20ごろには帝京大学の卒業式もあったね。
 4月に入ると、武道館は連日、各大学の入学式が開催されよう。
年度替りは大きな区切りだ。

「歴史を旅する」観点でいろいろ書きたいが食べ物に目がない女性方も多かろうと思うので、
いかに江戸の退屈御家人のB級グルメをご紹介。

1、八戸では、
「鯖の刺身」(これは蕁麻疹にならないか心配して、オイオイオイ大丈夫かねと尋ねて、恐る恐るトライ。うまかったが何もおこらなかった。
つぎは、「カスぺ煮つけ」(これはエイの鰭 ヒレを甘辛く煮つけたもので、軟骨が全部食べられて美味。ただ 昔はこんな部材は食べなかったそうで、それではマグロの大トロと同じだねーっと)
つぎは、「せんべい汁」(きんきんのアラに、八戸の名物、テンポせんべいを溶かして、麩のようにして食べると。結構いけたね。)
 「いちご煮」は食べそこなった。お汁にうにとか切り身とかツブ貝とかをいれで、豪快に食べるらしいが、八戸で食べずに、青森の料理屋で苺汁のメニューがあったのでそれを注文したら、それは八戸ですよと拒否された。トホホ。
つぎは 「せんべいピッザ」(せんべいを生地にうえにピッザの具材を載せたもの。結構いける。一緒になった食品会社の営業マンに、全国で売ったrどうかと勧めたが、どうするやら)

 ちなみに 八戸は港町で、昔の南部藩の分家2万石のまち。食料・飲屋が多く、東京新宿の
ゴールデン街そっくりの小路があり、たとえば、「ハーモニカ横町」「たぬき小路」「鷹匠小路」とか、大変いい雰囲気。イカの刺身、イカのぽんぽん煮、きんきんの塩焼き、しめサバ、海鮮太巻き、カレイの唐揚げ、身欠きにしん、ほや等々、魚がうまい町。日曜には有名な朝市があるとか。みなさんに是非、うまいもの喰いに八戸旅行をお勧めするよ。特に、食べそこなった「いちご煮」をお勧め。

2、青森では、駅前に「鱒の介」といういい飲屋があって、ここで青森名物の「けの汁」が特においしかった。10種ぐらいの根菜や豆類を細かく切って味噌汁みたいなものに入れたもので、昔の正月料理。手間がかかるので、現在これを作るのは特別な日や人でないと作らないとか。
 こういう郷土料理はありがたい。これは推奨。
つぎは「つぶ貝の刺身」陸奥湾でとれたものというが、北海道の襟裳産に比べずいぶん小ぶりだが、味はよかったネ。「やりイカの刺身」これもうまいね。あと白身の刺身や何かを食べたが、この店の「お通し」の味が良くて、その他は酩酊して忘れた。八戸ほどにはワクワク感はないが、青森もたいへんうまい物のある街だ。縄文人もびっくり。

3、盛岡は わんこそば、67杯。いうことなし。
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青森駅 ・ 青函連絡船 ・青函トンネル & 津軽海峡冬景色

2012年03月30日 12時12分29秒 | 旅行


青森駅は東北本線、日本海側の奥羽本線の終着駅であり青函連絡船との乗換駅であった。

青森市は江戸時代からの港湾都市・交通物流の機能を重視し明治の初め県庁所在地として定められたもので、
その青森駅は海に直に接する駅として設計されており、青森市はこの駅と青函連絡船を中心に発達した町と言えよう

1988年(昭和63年)に青函トンネルが開通すると、青函連絡船は廃止されたことから
青森駅は青函トンネルを通る「津軽海峡線」の列車との発着駅となったが、その後、2010年(平成22年)に東北新幹線が新青森駅まで開業すると、

東京から新青森駅、新青森からから青森駅を経由して津軽海峡線に入り、
青函トンネルを通って北海道へつながることとなった。

また新幹線新青森駅開業により、並行する在来線の東北本線は第三セクターの「青い森鉄道」に経営移管され、路線名は青い森鉄道線となった。

 鉄道交通体系の大きな変化の中で、青森市は 今後は新青森駅を中心に発展するのか、それとも、海に接した青森駅を少し南に移して現在の青森市市街地を再開発するかは分からない。

いずれにせよ、他の多くの都市や駅が、昔の城下町中心に発展してきた例が多い中、青森市・青森駅は珍しい例である。

 青函連絡船は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、青森駅と函館駅との間を日本国有鉄道(国鉄)が結んでいたもので、
営業キロは113.0kmで、津軽海峡(国際海峡)を横断した。

鉄道・連絡船が主な移動手段であった時代には、青森発着の特別急行列車「はつかり」「白鳥」等や 夜行特急「はくつる」「ゆうづる」、
急行「八甲田」、「十和田」等と、青函連絡船との接続を重視したダイヤが組まれていた。

 青函連絡船は、船の後部から鉄道の客車を直接載せるとともに、乗客を船内の客室に入れて運ぶ方式であったから、現在の青森駅に接して、かって列車を積み込んだ「積み込みゲート」が保存され、その先の桟橋には、かっての「八甲田丸」が係留保存されている。

このゲートと桟橋の間を多くの乗客が、雪の中、無口で先を争ったのだが、そのときの様子が「津軽海峡冬景色」に描写されている。

(ちなみに筆者が見た3月23日は青森駅前・桟橋付近で50~100cmの雪が積もってなお牡丹雪が降っていた。)

1945年(昭和20年」7月14日 には、アメリカ海軍艦載機の空襲により全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没等、352人死亡)、
1954年(昭和29年)9月26日には、台風15号(洞爺丸台風)に伴う暴風雨が原因で、航行中の洞爺丸が函館郊外の七重浜に座礁し転覆。
他に僚船4隻も沈没。あわせて1430人の犠牲者を出した。
 これを機に客車航送は中止。この事故を契機に戦前からあった青函トンネル計画が具体化されることになった。

青函トンネルは、1961年(昭和36年)掘削開始、1985年(昭和60年)本坑貫通。建設費はトンネル本体に約7455億円、津軽海峡線の取り付け工事等に9000億円超の、まさに昭和の大工事であった。
(しかし完成時には、時代は汽車から飛行機の時代に変化していた。歴史とは皮肉なものだ。)

1988年昭和63年3月13日営業開始(これが昭和最後の春だ)、青森県の竜飛岬下から津軽海峡の140mの海底の下さらに100mのところを北海道の知内まで、約53、85kmを結んでいる。うち、竜飛岬海底駅から吉岡海底駅までの海底部が23,3kmで、陸上部のトンネルが30,55kmとなる。
これを特急で20分で通過する。かって青函連絡船で4時間強かかっていた時代からこれだけ短縮したのだ。

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歴史を旅する・・・三内丸山遺跡

2012年03月28日 09時23分47秒 | Weblog
三内丸山遺跡は青森駅から7kmバスで35分、300円(新幹線新青森駅から2.5kmバスで10分)に位置する。

江戸時代から知られている遺跡で、平成4年から発掘調査では、縄文時代前期から中期の約5500年前から4000年前の、約1500年間にわたる大規模集落遺跡が発見された。この時期はフランスのラスコー洞窟壁画、英国のストーンヘンジ、クス王のピラミッド、モヘンジョダロのあった時代区分でもある。

竪穴住居跡、掘立柱建物跡、盛り土、石器・土器、骨角製品、木製品、それに大人墓、子供墓、道路跡などが出土した。
これらの分析の結果、三内丸山遺跡周辺には、栗や瓢箪、ゴボウ、豆などが栽培されていたことが分かり、
漆製品や縄文のポシェットも出て、縄文時代=移動・採取経済というイメージが覆された。

一般に縄文時代は13000年前から2300年前までぐらいの期間をいうのだが、この間は最後の氷河時代が終わり
太陽活動の活発化で温暖化したといわれる。

三内丸山遺跡の東北地方も、6000年前には海水の上昇と気温も平均2度cぐらい高かったが、その後いちじ気温低下、また4000年前には気温上昇、その後、丸山遺跡が消えるころは、気温が2度cぐらい低下していったと言われている。

こういう環境下で、先人は「ムラ」を作り、「縄文尺」と言われる共通規格を前提に、集落等を作り、
採集と、植栽と、漁労などで生きていたと考えられる。

青森県は遺跡の保存とともに、復元想像建物をたてて古代の生活様子を想像し、縄文時代の「ムラ」の様子を体験できる公園とし、かつ国の特別史跡と指定されている。
3月23日現在は春分の日を過ぎても1mぐらい雪が積もっており、なほ時々雪が降っていた。





写真の縄文建物モニュメントだが、その説明文概要では、
1、6本の柱跡に直径1mぐらいの栗の大木の根元部分が埋まっていた。
2、その他の建物跡地から、1.4mの間隔の柱跡。「縄文尺」と思われる35cm基準単位とその倍数が読み取れる。
3、6本の柱跡は、それぞれ少し内側に傾斜をつけられており、そこから上部構造を結節していたと推定。
4、当時の日本で使用できた最大の栗の木の大きさが、このモニュメントの高さぐらい。
(この材料は現在日本にないのでロシアから持ってきたとか)
5、写真の建物の上部は屋根みたいな構造物があったかもしれないが、そもそもこの建物の目的がモニュメントとか見張り台とか
  祭礼用の施設とか、いろいろ説があり現在決め手に欠くので、柱6本、3層構造にして、後世の研究を待つとしている。
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わんこそば 67杯 証明書つき

2012年03月26日 14時41分09秒 | 旅行


盛岡 わんこそば


 南部地方は、そば振る舞い という言葉があるそうな。
  
 そばを、大鍋で一度にゆでるのは無理だから、小分けでゆでて、一口そばという形で
 ふるまうようになったとか。

 大体わんこ15杯でもりそば1枚分程度に相当とか。わんこそばには汁の味付けがあるから、
 汁を飲まないようにすると腹に溜まりにくいと。

 薬味は、種類が多くみんな付けて食べた。なめこおろし、しょうが、ゴボウ、ゴマ、長いも
 カブの浅漬け、鳥そぼろ、まぐろと現代風にしてあるが、これがみなわんこそばに合っていて
 大変うまい。

 そばの食前に、地酒「中津川」を1合。若干甘み、1050円なり。



 こうして、おわんを積み上げつつ、若干の余裕を残し67枚でストップした。男性の平均程度強。




 この店で、これと全く同じ構図で、吉永小百合のフルムーンかなんかのポスターが貼ってあるのを
 その後偶然に、福島か郡山の駅で見つけた。
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青春18切符で  陸奥一人旅&津軽海峡冬景色  

2012年03月25日 21時02分08秒 | Weblog
3月22日から25日まで、3泊4日の青春18切符を利用し、陸奥一人旅と津軽海峡冬景色&東日本縦断の旅をしてきた。

この目的は、1、青春18切符による鉄道マニアの一種の「地図鉄」の遊び
      2、「歴史を旅する」研究会としての、歴史・旅訪問研究

今回この時に大旅行をしたのは、思いついたが吉日。いい日旅立ち&あずさ2号  の旅立ちの心境から。

22日木曜、6:59上野発の普通列車で乗り継ぎ、青森県の八戸まで。ただし仙台からは新幹線。理由は強風の影響で黒磯ー福島間が大幅に遅れ、さらに列車の遅れ、中止があるとから。八戸泊。夜の飲み屋街。

23日金曜は 八戸から、東日本大震災の影響がまだ残る 岩手県久慈まで往復。その先の三陸鉄道はまだ復旧しておらず、引き返して、青森へ。

 青森から、津軽海峡冬景色を思い、青函トンネルをわざわざ体験するため、青森から北海道は木古内まで、そこでとんぼ返りして青森まで。つまり青函トンネルを往復したのだ。青森泊。雪の中で料理がいいね。

24日は、三内丸山遺跡を見学し、冬の陸奥湾からくる春まだ浅き津軽の雪風を横切って八戸へ。そこから
岩手銀河鉄道で、盛岡まで。盛岡はわんこそば。67杯を食べましたよ。平均強ぐらいだね。盛岡泊。
 JRのポスターで吉永小百合がわんこそばを食べているのと、全く同じシチュエションで我輩の
わんこそばの写真を撮ったのが、あとで郡山かどこかの駅でポスターを見たよ。

25日は、盛岡から、ひたすら東北本線を南下。一関、小牛田、仙台、福島、郡山まで各駅列車で「地図鉄」を楽しんだが、強風の影響で、ローカル線が遅れるというので、郡山で新幹線に切り替え、1時間20分ぐらいで軟弱、帰京。

以上が大まかな日程。詳細と「歴史を旅する」観点からの感想と哲学は、後日、徐々にお知らせするとして、諸兄姉は期待しておいてください。
あいにくパソコンを壊したて写真がUP出来ないので、苦慮している。
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 奈良 東大寺のお水とり

2012年03月13日 07時21分21秒 | 歳時記

お水とり は奈良東大寺の二月堂で行われる「修二会」の行事の一つで三月十二日の深夜から十三日未明の二時ごろ、二月堂下の閼伽井屋の井戸から、お香水を汲み、本堂の十一面観音様に備える行事。

連行衆という僧侶がお勤めをするのだが、その足元を照らすためということで、大松明が二月堂の回廊や石の階段を走り回る。

ちなみに、この閼伽井屋の水は遠く若狭の国から地下を送られてくる。そのため若狭には水送りの神社と水送りの淵があり、行事をしている。

今年は一月の若草山の山焼き見学の際、二十年ぶりに二月堂を訪問し、お水とりの様子を想像しながら、詳細に見せてもらった。修二会行事は天平の時代から延々と絶えることなく行われているよし。さすが奈良の都、すごいことだ。




 
 天平は 千二百余歳 この修二会


    明けぬれば 修二会の水は 若狭から


        連行の はぜる松明 お水とり
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湯島天神の梅をみる

2012年03月12日 20時01分27秒 | Weblog
昨日は、2時46分に錦糸町のテニスコートで東日本大震災被害者に黙とうを捧げました。
本当に、無常迅速。本当に気が滅入るね。平安時代末期の社会不安の頃のようなのかもね。

 本日は駿河台の日大の歯科で入れ歯を入れてもらった。もう完全に老人だ。イヤだね。
でも主治医の麻由子先生は若くてピチピチの美人先生。そこで吾輩は節操無くバカみたいに口をあけている
というわけ。

 今日は治療の入れ歯の後、自転車で聖橋を渡り、久しぶりに神田明神にお参りに行き
災害被災者の冥福と回復を祈りました。
銭形平次のふるさとであり江戸3大祭りの本拠地で、結構大きな高台だから、明神下の台所横町?を見下ろして往時を思いました。
平田国学の発奨地とか説明文があった。

 その後、明神下の国道17号線(昔の日光街道・中仙道だ)を通り今度は湯島天神まで行きました。
ここは湯島の白梅で、いま梅が満開みたい。梅は2月と思っていたが、寒いせいかな。
江戸城の梅林坂でも白梅紅梅が咲いているかな。

 湯島の天神様でおばさんたちが梅見をしていたが、一部は「梅より団子」の雰囲気だな。結構結構。

それに影響され、吾輩もアメ横まで自転車で。
北海道は襟裳岬から来たツブ貝があったので、これを買って、家でインターネットの説明通り、殻を割って刺身して食べた。

北海道で食べるのと同じぐらい、おいしい。 おら、happy。
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初音ミク 頑張っているようだ

2012年03月08日 17時34分22秒 | Weblog
犬も歩けば棒に当たる、第2弾

神保町の「いもや」という天麩羅屋で昼食をしてそのまま後楽園へ。

後楽園の東京ドームシテイで初音ミク・ミくフリックなるものがあるときいたので、
行きましたよ。

そこはセガのブースで、各種ゲームセンターでもあり、今はやりのオジサン族は?と
探したが、平日の昼間はさすが居なかった。でも店員はパチンコゲームなどによく来られますと。

(尤も、帰りに発見したが後楽園の中央競馬会の場外馬券センターのすぐ下に、東京シテイ競馬の場外馬券
センターがあり、そこでは毎月2回月―金の間、大井競馬場と浦和競馬場の地方競馬の勝負が開か
れている。本日もその競馬の日で、例のスタイルのオジサンたちの熱気で一杯。だからおじさんが居なかった
のだろうと、妙に納得。

 なおバブルのころはやったオヤジ・ギャルの馬券ラ―はとっくの昔に淘汰され、こういう世界には
生存していないね。)

さてセガのつゲーセンだが、今日は「初音ミク・フリック」なるものというので、聞くと、
初音ミクがついにiPhoneに登場と銘打って、iPhoneに最初ミクちゃんの12曲を1200円で入れて、
それの流れてくる歌詞をフリック?で入力するとポイントが表示され、入力技術が高まるとポイントが
増えて、得点力を争うというゲームのようだ。・・・・吾輩には理解できない世界だ。

同時にミクのライブを成功させようと狙っている。

 そしてとなりのホールでは、初音ミクライブをやっていた。13時と15時があったが、高校生の
女の子らしいのが来ていた。 そうだ、セガは商売がうまい。All Japanで不況・デフレ・景気後退
と鬱々言っているのに、ゲームとか娯楽の世界は無尽蔵の成長産業なのだ。

どうも、いま全国で、いろいろな人が、ソフトを使って初音ミクのボーかロイドを、あちこちで
千差万別の歌を歌わせているようだ。

私は、最初、蒲田行進曲を聞いた。よかった。
次は東京ラプソデイ、
次が 軍艦マーチ、津軽海峡冬景色、 
次が、般若心経。いろいろオジサンのジャンルを謡わせている人がいるね。ありがたい。
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青春18切符で 旧東海道の薩埵峠を歩く

2012年03月05日 11時55分27秒 | Weblog
 3月4日、朝6時7分発の東海道線を熱海乗継で、由比まで。
ここで降りて次の駅興津まで、旧東海道を歩きました。
 この峠は安藤広重の東海道53次の富士の美しい絵の全くその場所と分ります。

 吾輩の主たる目的は「歴史を旅する」です。


薩埵峠の戦い(第1回目、足利幕府草創期の戦いと、第2回目、戦国時代武田・後北条の戦いの2度行われた。そういう意味で、歴史の分岐点・要衝の地と言える。)


第1回目
1351年(観応2年)12月、駿河国薩埵峠(静岡県、JR由比駅と興津駅の中間)において、
足利尊氏軍と足利直義軍で行われた戦い。
 
足利幕府創設後、観応の擾乱 (軍事指揮権的・郎党的足利尊氏と統治制度的・法制官僚システム的足利直義が、それぞれそれを担ぐ党派に分裂し、足利幕府の路線選択の争いになった。)となり、
直義派は、上杉能憲が尊氏の執事高師直・高師泰兄弟を謀殺したが、対立はなお続く。
1351年(観応2年)直義は桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る。
尊氏派は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を鎌倉に向けて進む。直義派は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢で西進。両軍は、東海道の難所・駿河国薩埵峠で合戦となる。
この合戦に勝利した尊氏派は、相模国早川尻などでも直義派を破り、翌1352年、直義は尊氏に降伏した。

鎌倉浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月26日に急死。病死とされているが、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。
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御家人の散歩

2012年03月03日 08時00分29秒 | Weblog
 犬も歩けば棒に当たると。

神田神保町で 咸享酒店 という中華料理屋でお粥セットを食べた。結構おいしかった。1050円也。

中国析(サンズイ)江省紹興市にあるという紹興咸享酒店、これは魯迅の叔父が開業した造り酒屋で、魯迅がその作品の中で描かれていることから世界的に有名であるそう。

 魯迅が日本に亡命中、神田でこの店を思い出して作り、よく通ったった店がこの咸享酒店で、現在の建物は2代目とか。 
 こういう風に店の前に説明板がある。
昔のように柳の木が植えられており、店内も重厚な造りで伝統を感じる。 まあまあの店で一見の価値はあろう。

 神保町には中華料理屋が結構多くある。すずらん通りには日本最初の餃子店というのもあったね。

また神田の老舗の蕎麦屋が江戸神田蕎麦の会を作って、蕎麦の振興をやっている。
 「神田蕎麦絵図」をもらって、まず「江戸の風情を偲ばせる」という、池波正太郎が贔屓にした「神田まつや」に行き、もりそばに日本酒をやりましたよ。ものすごく混んでいる。まあね。

その後、三省堂8階で「シネマパラダイス」といって往年の映画のポスターやパンフやシナリオを集め
展示していた。映画興隆期・古き良き時代のノスタルジアかもね。でも一見の価値はあるね。


パソコンの写真機能が不調で、「パリの空の下 セーヌは流れる」のパンフの写真を載せたかったが、想像してくださいね。
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