江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

白内障の手術を受ける

2020年06月30日 17時58分00秒 | Weblog
今日6月30日は1年のちょうど半分の日。夏越しの祓の日でもある。
 この日に吾輩は日帰りで白内障の手術を受けた。去年右目の手術を受けたから これで両眼が開いたと言うことになるか。いよいよ完璧に老人の仲間入りだ。
 帰りに新宿で 水無月 を買ってきました。このお菓子は今日が最後。




この手術は本当は4月7日に受ける予定であったが、当日コロナの緊急事態宣言があり、前日に病院から時節柄 手術は無期延期と連絡があった。
 それから65日ぶりに東京アラートの解除があった。そこで6月19日に眼科医と相談して本日手術を受けることとなった。

 今年は本当に大変な年である。

 退屈御家人は2月19日から27日までイタリアは世界遺産の各地を巡る旅に乗った。



旅行の5日目にピエンツア(フィレンツェの少し南)で世界遺産のルネッサンス期の都市計画の残っている旧市街で 土地のカーニバルを見物した。この時イタリアはコロナが蔓延しており、翌日からこのピエンツアもベネチアのカーニバルも中止と言う報が入った。
 翌日から雰囲気がガラッと変わって、イタリア各地は一斉にロックダウン。フェラーラは都市封鎖のため旅行者も入れない。これを省略してガルダ湖畔のシルミオーネを通ってミラノまで。ここから成田まで帰る予定が、なんとアリタリア航空がストライキのため足止め。翌日ミラノからローマへ。予定外のローマから成田まで帰ってきた。この日はちょうどイタリアが国境封鎖するの前日。かろうじてセーフ 帰ってきた。おかげで脊柱管狭窄症が再発して腰が痛くて泣いていた。とほほほ。

 その後は長い時間コロナに閉じ込められて閉門蟄居。ただ毎日5000歩のマイクロツーリズムで散歩する生活が続いている。

 さらにコロナの第二波が予想されている。さあどうなるか今年の後半戦は。

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夏越しの祓

2020年06月28日 16時42分00秒 | 歳時記
 人々の罪や穢れを祓い清める神事が大祓で、6月と12月の晦日に行われる。

 今年の6月30日は 我が輩老人性の病気で病院に行くため夏越しの祓の茅の輪くぐりが出来ない。そこで今日早めにお参りに行った。そうすると神社の方でも 茅の輪の準備をしていた。




紙の人形に息を三度吹きかけ、心身の罪 穢れを撫でて移す。ついで 神社では大祓式を行い 後にこれを川や海に流す。










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いもや で 天ぷらを食う

2020年06月27日 17時15分00秒 | Weblog
6/27土曜日
 午前中 塩野七生 と 須賀敦子 を並行して読んだ。

両才女の本は 甲乙つけがたい。須賀さんは初めて読むが「ミラノ霧の風景」は綺麗な文章で 文学とはこういうものかという感じ。塩野さんは ローマ人の物語ほか いろいろ読んだから 文体 歴史哲学がよく分かり面白い。
 いずれにせよ 2冊を並行して読むのはなかなか楽しい。特に塩野さんの本は殺人事件と言うがまだその部分まで出てこない。期待ワクワク。須賀さんの本で思い出したのは 昔 辻邦生氏の「背教者ユリアヌス」を読んだとき こんなきれいな文章を書く人がいるんだ といたく感心した覚えが 今また思い出した。
 2冊の本を読み終えるまでもうしばらく時間がかかるが 今日の午前中は非常に充実していた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。   そこで俗物の吾輩は 急に思い出して 神田神保町に いもや の天ぷらを食いに出かけました。
 ここで今日は天ぷら定食でなく土曜だから注文ができるので はも 穴子 かぼちゃ キノコ の天ぷらを頼む。 久しぶりに鱧をいただきました。
 親父はきっと80を超えているはずだ。婆さんと2人でやっている。昔からの店だ。並んで待ってる人もいる。


天ぷら屋でいもやとはこれいかに?だが神保町界隈に いもや は4軒、飯田橋にも1軒あった。それらがみんな天ぷら屋である。この いもや が現在 唯一の生き残りだ。
 
 ここからは想像だが 昔 いもや と言う天ぷら屋で成功した親父が そこの勤め人小僧たちが大きくなった後 のれん分けと言う形で それぞれに 店を持たせたのではないか。これは江戸の昔から昭和の中頃まで続いたのれん分け制度と思う。

 しかし日本経済の高度成長期に応じてフランチャイズ制度と言う経済体制が発展してきた。これは製品開発や販売となどのノーハウを持つ企業が フランチャイズ権を一定のロイヤリティーを払うことで子会社みたいな企業の連帯ができると言うことである。具体的にはコンビニ レストラン ファーストフードなど。このシステムは資金と人材と経営ノーハウを集中するから 規模が大きく個人企業と大企業との組み合わせで、したがって競争力も強い。

 だがのれん分けの いもや は経営者たる もと天ぷら職人が弟子たちに店を持たせてからずいぶん時間が経つ。だからみんなそれなりに歳をとっている。

 そして時代の風潮として小ぎれいな近代的な全国的風な店が好まれてくると 悲しいかな古い時代のビジネスモデルでは対抗できないなくなってくる。そこで神保町界隈の いもや のれんの天ぷら屋は5軒中4軒までが世代交代か後継者がいないか いずれか不明だが 最初は「居抜き」の形で別の人が天ぷら屋をやっていたが しばらくすると全く別の商売に変わっていることもある。
 
 こういう風に商売も時代に応じて変わっていくのだ。
 特に今回コロナウィルスの影響で従来のビジネスモデルではやっていけない店や業種が多く出ているはずだ。
 つまり世の中の変わり目という事である。





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風呂屋にて

2020年06月24日 19時50分00秒 | Weblog
久しぶりに近所の銭湯に行った。

吾輩は 歳が行ったら 生き方として 
どこか辺鄙な温泉地に住み 毎日  
午前中は読書 午後は温泉 散歩 そして
夜は旨いものを食べる か 自分で旨いものを作って食べる こういう生活を理想としている。
 今日は 近くの銭湯で この夢を一部でも代替したのだ。(吾輩でも理想が 全てができるとは思ってはいない。どこかで折り合いをつけて妥協する。これが生活の知恵大人の知恵だと思います。)

 今日は 銭湯で温泉気分を楽しんだ。

 たまたま 隣に座ったおじさんの手足が 我が輩と同じくらい日焼けしている。

そこで 「おじさん よく焼けてますね。何をしておられるんですかね?」と聞きました。
 おじさんは
テニスをやっているんですと
 私より 日焼けしていますネ。日比谷公園でテニスですか? いや 神宮ですと。そうですか 私もの昔 あそこのメンバーで よくやりましたが 今は日比谷で 時々でテニス で もっぱら 歩いていますと。


これが我が輩の日焼け足。これと同じかそれ以上の日焼けのおじさん。

 コロナで自粛する東京 ではあるが
人生いろいろ と  思いました。




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玉川上水を歩く④ 結願

2020年06月21日 17時12分00秒 | 歴史を旅する
今日21日 夏至。玉川上水の羽村取水堰から四谷大木戸まで43キロ、これを今5日間で 歩いて結願した。
1、初日は羽村取水堰から拝島駅まで。
2、2日目は拝島駅から鷹の台駅まで。
3、3日目は鷹の台駅から三鷹駅まで。
4、4日目は三鷹駅から下高井戸駅まで。
5、今日5日目は下高井戸駅から四谷大木戸まで。43キロの道を5日に分けて歩くなんて軟弱。やはり歳のせいである。が それなりの充実感もある。

玉川上水を歩いてみるといろいろなことが分かる。いろいろ考えさせられる。

当初江戸市民へ飲料水を供給する目的であったが 後には 上水途中の各地で分水取水堰を作り 野火止用水もある 武蔵野台地の開墾の根拠となった。今も 小平市 国分寺市 西東京市 小金井市 武蔵野市 三鷹市などの地域で短冊状の区画整理のある地域が残っているのは きっと玉川上水から水を引いてそして開墾した痕跡であろう。

いわゆる玉川上水公園は杉並区の浅間橋で終了している。その少し先が環八通り でここから新宿 四谷大木戸までは暗渠になっている。つまり環八以内は東京の大経済圏で 昔のままの玉川上水を流しておく余裕はないと言うことなのであろう。

そして環八から先は暗渠であるが故にどこが玉川上水か分かりづらい。甲州街道とその上の中央自動車道の下を下北沢駅から手探りで歩いた。

下高井戸から和田堀廟 明治大学までは暗渠上が公園らしいので分かる。その先の笹塚あたりから 上水の暗渠が分かりづらい。
この辺から甲州街道の南側を玉川上水の暗渠が走っているらしい。














こうして初台を通りいよいよ新宿だ。




文化服装学園の前がどうも玉川上水の暗渠のようだ。
 この先は新宿駅周辺でわからない。ただ甲州街道は今新宿御苑に沿って走っている。だから新宿御苑の中に玉川上水の痕跡を残している。






そしてついに四谷大木戸跡に到着しました。





こうして 玉川上水を歩く を結願しました。パチパチ。









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恍惚の人 を読む

2020年06月20日 17時00分00秒 | Weblog
 
6月20日日曜日 午前中 恍惚の人 を読み終えた。いろいろ考えさせられる。

この本は昭和47年に刊行された。それから50年近くが経とうとしている。その間 介護保険制度もできたが老人の問題は依然として深刻である。ちなみにこの前 篠田節子氏の本を読んだがこの方も老人問題についてかなり深く考えておられるようだ。上野千鶴子氏も 面白かった。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 午後 後楽園遊園地に散歩。緊急事態解除の後の土曜日だが そんなに多くの人が出ているとは思えない。








生殖の年頃の男女 繁殖期の男女と子供などはこういうところで楽しく人生をエンジョイできるが 恍惚の人に近い人生下り坂の人たちは なかなか遊ぶところ人生を楽しむところがない。
 教育(今日行く所)
 教養(今日用がある)  がない老人は何をすればいいのか。
 徘徊 痴呆 人格欠損などおぞましい先がありうるのだ。





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徘徊散歩 の朝

2020年06月14日 13時09分00秒 | Weblog
6月14日日曜日。ステップ3 だいぶ緩やかになった感じ。19日には全面的に緊急事態の解除の見込み。やっと県外への移動も可能となるか。
 一方6月11日から梅雨に入った。昨日は1日中雨。籠の鳥だった。今日も雨模様のはずだが朝のうちはまだ曇り空。で外が恋しくなり徘徊。そうすると同じような発想の人がたくさんいる。多くはジョギングだが。退屈御家人は体力の劣化で徘徊のみ。昔はジョギングをしていたが。今は マイクロツーリズムを実践している。


国会が低くなった。名は体を表すの感。


曇り空に水面の美しさ。


人のいない二重橋はいいね。










皇居を徘徊散歩




明暦の大火1657年で江戸城本丸焼失。この時の火力で石垣が焼けた跡が残っている。




浅野匠の吉良刃傷で「殿中でござる」場。






久しぶりに、天守台に上った。


北の乾門

南の大手町


大奥はここにあったのだ。








かきつばた 菖蒲 あやめ 区別は難しい。






平川門が美しい。


梅雨の季節 お濠の 蓮の葉っぱに水が溜まっている。






清水門。   
 ここから雨が降り出した。今日の徘徊散歩は おしまい。















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いずれが あやめ かきつばた

2020年06月08日 19時08分00秒 | 歳時記



図書館が再開したので ドイツオペラ ニーべルングの指輪 を 里中満智子氏の漫画で読みました。なんか神々の世代から 気宇壮大な物語で オペラを見る方が大変だと分かった。
 そんな気分がハイの中 6月8日 堀切菖蒲園に行きました。
1、結論 水元公園や 皇居二の丸などの菖蒲園より格段にソフィステイケイテッドされている印象。 質 量 ともに。






2、堀切の花菖蒲は江戸名所の1つとして広重いや豊国の錦絵の題材に取り上げられていた。



3、江戸後期には花菖蒲が盛んになり 旗本松平左近金吾定朝が60年にわたって花菖蒲の改良に情熱を傾けた。その頃近在の農家でも花菖蒲を愛し改良に勤める人がいて ここ堀切園の近くにたくさん菖蒲園があったとのこと。
4、江戸末期には小高園とういくつかの菖蒲園が開園し 明治期にいっそう発展。第2次大戦後の食糧難の時代に多くが水田化された。唯一残ったのが堀切菖蒲園。その後東京都がこれを都立公園とし葛飾区に移管した。現在 江戸菖蒲を中心に200株6000株の規模と言う。



5、いずれが あやめカキツバタ?

ここに図示されていた。
 イ、かきつばた  花の中の縦筋が小さいのがこれ。
 ロ、花菖蒲  花の中の縦筋が黄色で三角がこれ。
 ハ、彩芽 あやめ 花の中の縦筋が網目の紫模様がこれ。
6、江戸時代の改良種のうち4種を表示している。


王昭君なんて 名前がいいよ。
7、日本人は本当に趣味を極めるね。
桜しかり 菊しかり 盆栽しかり等々。
日本人の民度は素晴らしい。

8、花びらに 雲をささえて 朝 菖蒲

  鳴鶴堂 まつお  江戸時代の俳人である。











PS いま新しい潮流になりつつある 「マイクロ ツーリズム」。 星野リゾートの社長の発想だが、車で60分以内の地元を 観光しよう! と。
   退屈御家人は このコロナ閉塞の時代 or 自粛の時期に 自分の近場を歩いて、観光兼運動問形で、自己満足していた。金を落とさなかったがね。
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玉川上水を歩く その2

2020年06月06日 19時13分00秒 | 歴史を旅する
梅雨に入る前の今日6月6日土曜日 前回の 羽村取水堰から拝島駅まで に続いて 今回も玉川上水を歩きました。
 今回は 拝島駅から鷹の台駅 まで行きました。
 羽村取水堰から四谷大木戸まで43キロ。 
 現在の吾輩の体力からすると一息で乗り切るのは無理だ。今日は15キロ弱。しかしくたびれた。
 サルコペニアと言う筋肉体力の経年劣化。もうすぐフレイルになり 要介護の老人になろう。

その名も 玉川上水駅 という玉川上水に接した駅 の近くから 野火止用水 が分水されている。現在は玉川上水駅と言う 多摩都市モノレールの駅にもなっている。



長年の風雪で玉川上水の ローム層の深い掘削の擁壁が崩れている。時間の流れという自然の持つ 自然への回復の力 に負けずに インフラを何とかメンテナンスをしているのはひとえに 江戸幕府と東京都水道局の力である。今は遊歩道と言う形で環境整備が大義にもなっている。

関東ローム層に覆われた武蔵の大地を43キロ先の四谷大木戸まで標高差100メートルにつき23センチ低くなる自然流下で 今もサラサラ流れている。

 昔 フランス南部の ポン デユ ガールのローマ時代の 水道橋に登ってその水路を歩いたことがある。このときはまだ世界遺産が無い時代だったから 外国人旅行者もあのすごい高い水道橋を歩けたのだ。あの時も高度差何センチかの傾斜角度で 水が流れていた。(去年か一昨年 再度行く機会があったが 今は世界遺産で 下から横から眺めて写真を撮るだけしかできなかった。)

 日本の江戸時代の土木技術も決して 勝るとも劣るものではない と実感したね。

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皇居二の丸庭園に 菖蒲を見る

2020年06月04日 15時04分00秒 | 歳時記
今日6月4日木曜日湿度が高く温度が高い。梅雨のシーズン近しだ。
 今日は所用があって千代田区のいきいきプラザに出かけた。いよいよ老人対策である。ついでに図書館にも顔を出した。ステップツーになって いろんなものが再開している。それぞれ物々しいコロナ対策をしているが。
1、皇居二の丸庭園へ





平川橋と平川門。かってはここから死人や病人を送り出したり、大奥女中が密かに出入りしたとか。
2、菖蒲園










3、河骨 コオホネ



4、汐見坂 昔はここから先が海であった。

5、大奥の跡地。大嘗祭の跡地は完全に取り払われて芝生を植えられている。



7、自粛期間50数日が終わった乾門



8、季節の移り変わり

タチアオイの花が頂上まで行けば梅雨が明けると言う諺があるそうな。


ソメイヨシノ の さくらんぼが一面に落ちている。もともと食用でないから小さな味だがすごい数がある。


紫陽花が盛りだ。
9、宝来屋で葛餅と水無月を買いました。













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コロナ禍に 水無月を

2020年06月02日 17時22分00秒 | 歳時記
水無月の季節になった。旧暦6月の異称である。6月の末には 夏越しの祓い で 疫病を除けるための 食べ物。我が輩も 伊勢丹に寄って買ってきましたよ。
今日は6月2日。いよいよ梅雨の季節が近づいてきた。昔からこの季節は疫病が蔓延する日本である。
 そこで今日は水の元祖 玉川上水を歩くことにしました。JR青梅線の羽村駅まで行き、まず羽村取水堰を見る。
玉川兄弟の像
牛枠 という竹籠に石を包んで 護岸なり流動除けなどに使ったのだろう。甲斐の信玄堤にも使われていた。
この後 出来るだけ玉川上水に沿って 歩きました。時節柄 うまく整備して遊歩道にしている所のあるが、過去の経済発展や人口集中の結果 整備ができないところがあるのはこれまた止むをえない。気分良く歩きました。
 一番感心したのは 水喰い土公園である。
玉川上水掘削の途中、水が土中に吸い込まれ 上水の用を成さない地域があった。それが 水喰い土 である。
 今も 空堀 になって残っている。
技術的に この水喰い土 地域をどうやって克服したのか分からないが 大変なご苦労であったことは推測される。
今はその隣に接して 平穏に上水として 流れている。
この後 拝島駅まで歩いた。ここから西武線で新宿まで。
 新宿で思いついたのが 水無月 であり 伊勢丹でこれを買って今日の記念にしました。
 
 
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