江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

   歴史を旅する・・・第1次国府台の戦い

2012年05月23日 20時55分32秒 | 歴史を旅する
23日 前日と違い、さわやかな夏日に、京成線で江戸川の矢切りの渡しの向こう側、市川市の里見公園を散歩。ここからスカイツリーをはじめ、新宿や渋谷や武蔵の国がバッチリよく見えました。やはり、ここは昔の下総の国の国府なんだ。
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第一次 国府台の戦い・・・子弓公方足利義明滅亡
   千葉県市川市国府台。京成線国府台駅から徒歩10分、里見公園。

 都鄙合体 (27年にわたる関東管領上杉氏と古河公方足利氏の敵対終了合意)の後、1512年ごろ、古河公方足利高基と先代の前公方足利政氏の間で、関東管領上杉家の家督相続をめぐって内紛が生じた。この機に高基の弟で出家していた足利義明を還俗させて、これを担いで、古河公方グループや上杉管領家グループに対し第3極の存在感を示そうとしたのが真理谷信清とか里見氏等の主に上総の在地勢力であった。

足利義明はこれに乗り、子弓城(現在千葉市若葉区)に入り、子弓公方と称する。

1524年には北条氏が江戸城を占領、1537年には武蔵・下総国境の葛西城を占拠して江戸湾の沿岸を制圧した。
足利義明は、1533年、里見氏の内部での家督紛糾等にうまく介入するなど政治力を発揮した徐々に実力をもち、小弓公方家による南関東諸大名の統合を名分として急速に勢力を拡大してゆく。

このような小弓公方家の急速な勢力拡大は、新興勢力北条氏や旧勢力古河公方家に危機感を抱かせた。子弓公方義明排除を図る古河公方と海上支配の確立を図る北条で利害が一致、両者が盟約を結ぶことになる。

1538年、子弓公方足利義明は北条勢力の関東進出を阻止し、更に本家の古河城へ進出するため、真里谷信応や里見義堯ら房総の在地諸大名による軍勢1万を率いて北条氏綱、古河公方足利晴氏連合軍2万と国府台と北の相模台(松戸市)で衝突することになる。
これがいわゆる第一次国府台の戦いである。

子弓公方義明は武勇に優れ、自らを恃む性格であったらしい(これは歴代鎌倉公方の共通性格でもあるが、実に面白い傾向だ)。

足利義明は中世の人かもしれない。新しく関東に入ってきた新参者の北条軍が足利将軍一族の足利義明に弓など引けるはずがないとたかをくくり、北条軍が渡河するときに奇襲する案を拒否し正々堂々と戦うと主張したりして、子弓軍内部では十分信頼を得られていなかったといわれている。
 結果的には、足利義明は自ら陣頭で指揮するなど奮戦し一時は北条・足利軍を押したが、里見軍は義堯が協力的ではなく、また真里谷氏内部にも家督争い等から房総軍の士気はあまり高くなかった。そのため、義明らの軍勢はやがて北条軍の反撃を受けて壊滅。義明自身も討ち死にし、嫡男義純もここで討ち死。ここに古弓公方という夢が潰えた。
 義明の戦死後、小弓城は北条方の千葉氏が奪還。足利義明の遺族は里見氏を頼って安房に逃れる。
 小弓公方の滅亡により、北条氏は南関東における覇権確立へ進む。また、真里谷氏では再び家督争いが生じ急速に衰退し、里見氏が久留里城や大多喜城・上総南部を押さ大きな勢力になる。
 義明の長女青岳尼は鎌倉の太平寺に尼として預けられていたが、里見義堯の嫡男義弘の懇願によりその正室となった。(一説では、里見義堯は無理やり強奪したとの話も。)  これによって足利義明の旧臣もその多くが里見氏に仕える事となった。里見氏はこの26年後の第2次国府台の戦いで大きく敗れ、衰退していく。
 子弓公方義明の次男の頼純(頼淳)は、里見氏の庇護を受けるが諸国を流浪。やがてその娘が豊臣秀吉の側室となったことから、小田原征伐で北条氏の滅亡後、頼純の長男国朝は秀吉の計らいで足利氏姫(最後の古河公方足利義氏の娘)と結婚。義明の系統は喜連川氏として存続することになった。
 なお、この間の動きや、長享の乱と言われる上杉関東管領家の内紛などを題材に、江戸時代のベストセラー「南総里見八犬伝」がある。

 また、第1次 国府台の戦いの26年後の1564年、同じ場所で、里見義弘・太田資正8000人に対し北条氏康・氏政20000人と役者も時代背景も変えて第2次国府台の戦いが生じるが、最初押されぎみで敗北近い北条軍が、相手点軍の寝込みを襲う夜襲などで圧勝、里見軍は衰退して行くなど軍事史的には興味深いが、歴史的重要性には劣ると思う。
コメント (1)
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