しょーきゅーし

怪しい妖しい尚休の、一寸気抜けの(含む危ない、過激)プレゼンツ&箴言?を

名前と呼び方

2006年08月01日 17時45分02秒 | あいだ
 画像は桔梗である。が、昔は「あさがお」と呼ばれていた。今、朝顔はヒルガオ科の一年草の事である。

 ある意味、名前は一種の呪であろうか。名前を呼ばれることにより、その特性を固定されてしまうことになる。
 どこかでは、本名を知られる事で支配されるという考えが在る。
 以前にも書いたが、とんでもない名前、使ってはならない字を使う名前をつけたりすると、どういうことになるか・・・である。

 同じく、ペンネームやハンドルネーム、ニックネーム等、人に呼ばれる事を前提とした名前は、付ける側の意図により操作している事になる。

 名前を間違うと言うのも失礼だが、間違って呼んでいて、相手の気遣いで訂正されず、後で其れを知った時の立場の無さ。

 名前が在るにも拘らず、其の名前を呼ばずに勝手に呼ぶ傲慢さ。

 尤も、新人など、此方の感覚であだ名を付けて固定してしまう事も良く在るが。

 此処からは、あっち系に因って行くので、解りづらいかも。

 人を名前で呼ぶと言う事は、其の相手を、其の名前であると認める事であり、其の名前に因る全てを信用していると言う事である。
 氏名、本名の場合、本人の意思によって固定されたものではない、特に苗字に関しては、ある事情を除き(婚姻等)本人が決定出来ない。
 名前も、本人の経験等が反映されてくる歴史があるとはいえ、決定は不可能であり、変更も難しい。
 
 今時は、本名の他に名前を持つ場合が、結構在る。
 この場合、自主的に本人が決定して、使用している場合、その名前を呼ばれることによって、其の物の持つ力の行使を要請している事にもなる。
 呼ばれる事により、より強く固定されていくのでは在るが、呼ばせると言う事は固定を強要しているような側面も無いとは言えない。是が呪の正体である。

 しかし、其の呪に、あえて逆らうかのように、他の呼び方をする者がある。
 自分などの場合は、仕事中に先生と呼ばれるのは珍しくないし、間違っては居ないが、仕事を離れれば先生ではないのである。従って、プライベートでは、先生と呼ばれるのは不愉快でもあり、拒否する。
 時と場合に因るのである。
 加美さんは「おじさん」と呼んでいるし、あながち間違いではないので、反論はしない。あっち系や座長関連では「尚休さん」だ。尤も、座長関連では、毎回芸名が変わってしまい苗字を使って「オーノちゃん」であった。(座長が読みを勘違いしてそのまま誤字がテロップに流れてしまい、芝居の時も其の芸名になってた。)
 洒落で師匠とか教祖とか呼ばれることも在るが、実態に沿っているものであれば拒否や否定はしない。エヘン。
 
 ここで、本人が望まないにも係わらず、呼ばれる場合が問題になる。
 それこそは、本人を否定している事に他ならないし、呪に逆らう事である。
 本人を不快にさせるだけでなく、呪の撥ね返りも招きかねない。
 呼んだ当人に返るのは自業自得とはいえ、呪を懸けた本人にも悪影響が出ることも考えられるのである。
 
     今日の箴言
<たかが呼び名、されど呼び名。よくよく考えれば、無責任な呼び方は出来ない筈である。呼び名ひとつにも大いなる意思が働いているのだから。>
 


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