下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
125 「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その14)
さて、『豊作飢饉』について無知だった私は『三上満さんが語る賢治と農業〈2〉』からそのからくりを知ることが出来た。三上氏は賢治のことにも触れながら『豊作飢饉』について次のように解説している。
賢治にとって大きな打撃だったのは、一九三〇年の豊作です。大不況の中での豊作で、米価は値下がり、一九三一年の春頃は、豊作飢饉の様相になっていた。あの頃は、米はまったく自由販売で、米の仲買人が買い付ける。場合によっては、収穫を当てにした買い付けの予約制で金を借り、農民は一粒でも多くとろうと金肥を買う。金をかけても、凶作だと借金だけが残る。しかし、夢に見た豊作でも、この不況の中で米が値下がりして、農村が窮乏する。
<『「農民」記事データベース20031013-606-12』より>
因みに、三上氏は「野の教育者宮沢賢治」「明日への銀河鉄道」で岩手日報賢治賞を受賞している人だ。
昭和初頭、日本の全戸数の約半数は農家で、その農家もほぼ3分の2は小作農または自小作農であったようだから、多くの農家は小作料も捻出しなければならずさぞかし困窮したことであろう。ということは、日本全体が困窮していたというこにもなるのだろうが。
一方、佐藤竜一氏は当時を『悲惨な農村の実態』の中で次のように述べている。
一九三一(昭和六)年の農村は悲惨な状態にあった。前年が歴史的な豊作で、それに加え、植民地であった朝鮮から大量の米が輸入された結果、米価が急落したのが要因である。
<『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)より>
調べてみると、1927(昭和2)年から始まった昭和金融恐慌により日本は慢性的な不況が続いていた。そこへ、1929年にウォール街で起こった株価大暴落による世界恐慌の荒波が日本にも諸に襲いかかった。そこでその対策として行った1930(昭和5)年1月の金解禁ではあるが、皮肉なことに実質的には円の切り上げとなって輸出は激減してしまい、同3月には株式市場が暴落して生糸・農産物等の価格は急落したと云う。
当時の日本の農村には米と繭の生産で成り立っていた農家が多かったから、アメリカへの生糸輸出激減と米価の暴落というダブルパンチで日本の農村は大きな打撃を受けることになってしまった。そこへ輪をかけたのが朝鮮からの米の大量輸入。これでは農家は堪ったものではない。
悪いことは重なるもので、そこへ襲いかかったのが1931(昭和6)年の東北の凶冷だ。直前の凶冷年(大正2年)の作況指数66等に比べれば、昭和6年のそれ92(前述の『岩手県農業史』より)は数値的にそれほど悪くはない。しかし、先のダブルパンチ等に見舞われていた状況下でのこの凶冷は泣きっ面に蜂だ。これが岩手の農村を疲弊のどん底に引きずり込んでいったのだろう。そしてついには、少なからぬ農家に多くの欠食児童が生じたり、貧すれば鈍すで、泣く泣く娘の身売りをするという非人道的な行為にさえ及んだりしたのであろう。
豊作だからといって農家の収入が増して豊かになると云う単純な図式にはなかった時代だったのだ。かえって豊作貧乏となり、これが引き金となって時代が『豊作飢饉』を引き起こしてしまったのだろう。
以前、”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その8)”で報告した中鍋倉の庚申講中の古老から聞いたことがらに
オ 昭和6年、鍋倉地区は大凶作であった。
カ 昭和6年は不作だったので、クズの根・ドングリの実・トチの実なども食べた。
キ 昭和6年頃は繭を飼っている農家も多かった。
ク 昭和6年には近くに庚申塔を建てた。
ということがあった。
まさしく鍋倉も例外ではなく、昭和6年の『豊作飢饉』から免れることは出来なかったのだ。花巻の農家にとっては到底抗うことの出来ない世界不況の荒波により売れなくなった繭、米価の暴落。そこへ、稲作技術だけでは解決できない異常気象に襲われれた。気象災害に対しては農民は為す術もなく、ただ呆然と立ちつくすばかりだったことだろう。そこでせめて”神様”に頼り、救いを求め、明くる年の豊作を祈り、心の安寧をそこに求めたのではなかろうか。
それゆえ、本来ならば花巻一帯では『七庚申』か『五庚申』にしか殆ど建てることのない庚申塔を、あえて『六庚申』の昭和6年に建てたのだろう。つまり、対象となる先程の”神様”は、鍋倉の農民にとってはいつも崇め奉っている「作神様(お田の神様)」である「庚申さん」であったのではなかろうか。あるいは、「庚申さん」しかなかったのではなろうか。
古老から昭和6年に建てたその庚申塔のある場所を教えて貰った。鍋倉の地森というところある次のような庚申塚にそれはあるという。
《1 鍋倉地森の庚申塚》(平成21年2月5日撮影)
ここには庚申塔が3基ある。七庚申塔が2基あり、そのうちの1基は昭和63年のものであり、もう1基は昭和11年&昭和22年併刻七庚申塔である。そして3基目が建立年月日不明の次の
《2 庚申塔》(平成21年2月5日撮影)
である。と云うことは、この庚申塔が昭和6年に建てられた庚申塔ということになるのであろう。
続きの
”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その15)”のTOPへ移る。
前の
”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その13)”のTOPに戻る。
”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
”目次(続き)”へ移動する。
賢治にとって大きな打撃だったのは、一九三〇年の豊作です。大不況の中での豊作で、米価は値下がり、一九三一年の春頃は、豊作飢饉の様相になっていた。あの頃は、米はまったく自由販売で、米の仲買人が買い付ける。場合によっては、収穫を当てにした買い付けの予約制で金を借り、農民は一粒でも多くとろうと金肥を買う。金をかけても、凶作だと借金だけが残る。しかし、夢に見た豊作でも、この不況の中で米が値下がりして、農村が窮乏する。
<『「農民」記事データベース20031013-606-12』より>
因みに、三上氏は「野の教育者宮沢賢治」「明日への銀河鉄道」で岩手日報賢治賞を受賞している人だ。
昭和初頭、日本の全戸数の約半数は農家で、その農家もほぼ3分の2は小作農または自小作農であったようだから、多くの農家は小作料も捻出しなければならずさぞかし困窮したことであろう。ということは、日本全体が困窮していたというこにもなるのだろうが。
一方、佐藤竜一氏は当時を『悲惨な農村の実態』の中で次のように述べている。
一九三一(昭和六)年の農村は悲惨な状態にあった。前年が歴史的な豊作で、それに加え、植民地であった朝鮮から大量の米が輸入された結果、米価が急落したのが要因である。
<『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)より>
調べてみると、1927(昭和2)年から始まった昭和金融恐慌により日本は慢性的な不況が続いていた。そこへ、1929年にウォール街で起こった株価大暴落による世界恐慌の荒波が日本にも諸に襲いかかった。そこでその対策として行った1930(昭和5)年1月の金解禁ではあるが、皮肉なことに実質的には円の切り上げとなって輸出は激減してしまい、同3月には株式市場が暴落して生糸・農産物等の価格は急落したと云う。
当時の日本の農村には米と繭の生産で成り立っていた農家が多かったから、アメリカへの生糸輸出激減と米価の暴落というダブルパンチで日本の農村は大きな打撃を受けることになってしまった。そこへ輪をかけたのが朝鮮からの米の大量輸入。これでは農家は堪ったものではない。
悪いことは重なるもので、そこへ襲いかかったのが1931(昭和6)年の東北の凶冷だ。直前の凶冷年(大正2年)の作況指数66等に比べれば、昭和6年のそれ92(前述の『岩手県農業史』より)は数値的にそれほど悪くはない。しかし、先のダブルパンチ等に見舞われていた状況下でのこの凶冷は泣きっ面に蜂だ。これが岩手の農村を疲弊のどん底に引きずり込んでいったのだろう。そしてついには、少なからぬ農家に多くの欠食児童が生じたり、貧すれば鈍すで、泣く泣く娘の身売りをするという非人道的な行為にさえ及んだりしたのであろう。
豊作だからといって農家の収入が増して豊かになると云う単純な図式にはなかった時代だったのだ。かえって豊作貧乏となり、これが引き金となって時代が『豊作飢饉』を引き起こしてしまったのだろう。
以前、”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その8)”で報告した中鍋倉の庚申講中の古老から聞いたことがらに
オ 昭和6年、鍋倉地区は大凶作であった。
カ 昭和6年は不作だったので、クズの根・ドングリの実・トチの実なども食べた。
キ 昭和6年頃は繭を飼っている農家も多かった。
ク 昭和6年には近くに庚申塔を建てた。
ということがあった。
まさしく鍋倉も例外ではなく、昭和6年の『豊作飢饉』から免れることは出来なかったのだ。花巻の農家にとっては到底抗うことの出来ない世界不況の荒波により売れなくなった繭、米価の暴落。そこへ、稲作技術だけでは解決できない異常気象に襲われれた。気象災害に対しては農民は為す術もなく、ただ呆然と立ちつくすばかりだったことだろう。そこでせめて”神様”に頼り、救いを求め、明くる年の豊作を祈り、心の安寧をそこに求めたのではなかろうか。
それゆえ、本来ならば花巻一帯では『七庚申』か『五庚申』にしか殆ど建てることのない庚申塔を、あえて『六庚申』の昭和6年に建てたのだろう。つまり、対象となる先程の”神様”は、鍋倉の農民にとってはいつも崇め奉っている「作神様(お田の神様)」である「庚申さん」であったのではなかろうか。あるいは、「庚申さん」しかなかったのではなろうか。
古老から昭和6年に建てたその庚申塔のある場所を教えて貰った。鍋倉の地森というところある次のような庚申塚にそれはあるという。
《1 鍋倉地森の庚申塚》(平成21年2月5日撮影)
ここには庚申塔が3基ある。七庚申塔が2基あり、そのうちの1基は昭和63年のものであり、もう1基は昭和11年&昭和22年併刻七庚申塔である。そして3基目が建立年月日不明の次の
《2 庚申塔》(平成21年2月5日撮影)
である。と云うことは、この庚申塔が昭和6年に建てられた庚申塔ということになるのであろう。
続きの
”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その15)”のTOPへ移る。
前の
”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その13)”のTOPに戻る。
”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
”目次(続き)”へ移動する。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 124 「雨ニモ... | 126 「雨ニモ... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |