《↑『みちのくサロン』(みちのく芸術社)》
以前〝滞京中の「高等遊民」賢治〟において、
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大正15年の12月18日または20日に本郷駒込千駄小林町に高村光太郎を訪ねた際に
夕方になり、一緒に飯を喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は…(略)…聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
ということだが、伝え聞くところによると、玄関で一寸会っただけだという説もあるのだそうだ。
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と投稿したことがあったが、このことに関連して投稿する。
今回『みちのくサロン 高村光太郎特集』(みちのく芸術社)を手に入れた。その中に佐藤勝治の「光太郎と賢治―ある冬の会見―」という追想記が載せてあった。
そこで佐藤勝治は次のように証言している。
この時の様子を、筆者(=佐藤勝治、投稿者註)は光太郎から直接聞いて手帖に書き止めておいた。それは次の通りである。
宮沢さんは、写真で見る通りのあの外套を着ていられたから、冬だったでしょう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけていたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくようにお話ししたら、次にまた来ると、そのまま帰って行かれました。
あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたそうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかに、チェロを習う目的だったようです。十日間で完成するつもりだと云っておられたそうです。
あの時、玄関先でちょっとお会いしただけで、あと会えないでしまいました。また来られるというので、心待ちに待っていたのですが……。口数の少ない方でしたが、意外な感じがしたほど背が高く、がっしりしていて、とても元気でした。
<『みちのくサロン 高村光太郎特集』(みちのく芸術社)より>
もしこれが事実ならば、たしかに〝玄関先で一寸会っただけだった〟ということになろう。すると、巷間伝えられている『賢治は光太郎と一緒に聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついたのだった』とは矛盾してしまう。
さてはたしてどちらが事実だったのだろうか。
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大正15年の12月18日または20日に本郷駒込千駄小林町に高村光太郎を訪ねた際に
夕方になり、一緒に飯を喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は…(略)…聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
ということだが、伝え聞くところによると、玄関で一寸会っただけだという説もあるのだそうだ。
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と投稿したことがあったが、このことに関連して投稿する。
今回『みちのくサロン 高村光太郎特集』(みちのく芸術社)を手に入れた。その中に佐藤勝治の「光太郎と賢治―ある冬の会見―」という追想記が載せてあった。
そこで佐藤勝治は次のように証言している。
この時の様子を、筆者(=佐藤勝治、投稿者註)は光太郎から直接聞いて手帖に書き止めておいた。それは次の通りである。
宮沢さんは、写真で見る通りのあの外套を着ていられたから、冬だったでしょう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけていたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくようにお話ししたら、次にまた来ると、そのまま帰って行かれました。
あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたそうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかに、チェロを習う目的だったようです。十日間で完成するつもりだと云っておられたそうです。
あの時、玄関先でちょっとお会いしただけで、あと会えないでしまいました。また来られるというので、心待ちに待っていたのですが……。口数の少ない方でしたが、意外な感じがしたほど背が高く、がっしりしていて、とても元気でした。
<『みちのくサロン 高村光太郎特集』(みちのく芸術社)より>
もしこれが事実ならば、たしかに〝玄関先で一寸会っただけだった〟ということになろう。すると、巷間伝えられている『賢治は光太郎と一緒に聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついたのだった』とは矛盾してしまう。
さてはたしてどちらが事実だったのだろうか。
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