《創られた賢治から愛される賢治に》
したがって、客観的な気象データ等に基づく限りは、 昭和3年の夏に風が吹いたことはあったかもしれないが、それが〝風雨〟であったことはまずなかろう。なおかつ、雨は殆ど全く降らなかったと考えてよさそうで、気温も例年通りであったと考えられる。
「氣候不順に依る稲作の不良」とはそうすると、「氣候不順に依る稲作の不良」とは一体何のことを指すのだろうか。考えられることは、天沢氏も指摘するとおり稲熱病である。そしてこのことは次のことからも示唆される。
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病ではないかを調べるよう、堀籠文之進へ依頼。検鏡の結果イモチ病とわかる。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)378pより>このゴマハガレ病とはチッソとカリ不足から起こる病気と言われているようだから、もしその病気であったならば賢治は自分の肥料設計が失敗したと思って責任を感じて「徹宵東奔西走」した可能性はあろう。しかし、実その病気は稲熱病だったのでその責任は賢治の肥料設計にはあまりなく、その原因は「氣候不順に依る」ものであるという論理になる。
ならば、この際賢治が心痛したという「稲作の不良」とはやはり稲熱病のことだったのだろうか。たしかにその病気ならば「氣候不順に依る」ものといえそうだからである。ところが、
イモチ病は一般には高温多湿がそれを引き起こしやすいといわれているようだが、この昭和3年の夏は高温であったにしても雨は長期間全く降っていないから〝多湿〟となったとはあまり考えられない。
から、そのことによる被害はそれほどはなかったと考えるのが妥当だと判断できる。となれば、他に考えられることは、このような昭和3年の気象であれば陸稲だけは被害が大きかったことは考えられる。あまりにも長期間雨が降らなかったからである。
実際、『昭和3年10月3日付岩手日報』によれば
県の第1回予想収穫高
稗貫郡 作付け反別 収穫予想高 前年比較
水稲 6,326町歩 113,267石 2,130石
陸稲 195町歩 1,117石 △1,169石
となっていて、陸稲の収穫予想高は前年の半分以下であることが分かる。
とはいえ
195÷(6,326+195)=0.03=3%
であり、稗貫郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないし、水稲についてはかえって前年よりも増収が予想されている。陸稲の減収を補って余りあることが判る。もちろん、この昭和3年の稗貫郡や紫波郡が、大正15年の場合と同じような大干魃だったという事実もない。
欠ける説得力
したがって、少なくとも気象データに従う限りにおいては、
賢治は昭和3年の夏に氣候不順に依る稲作の不良を心痛して、風雨の中を東奔西走したいうことはあまり考えられない。
という素朴な疑問が沸く。前述したように、この年にこのような風雨はなかったからである。また同様、前述したような理由から水稲にイモチ病が発生したとしてもそれほど被害が甚大だったとは考えられないし、水稲の旱魃被害が甚大だったという歴史的事実もないようだから、氣候不順に依る稲作の不良を心痛して賢治が徹宵東奔西走するほどではなかったと考える方が妥当であろう。
まして、それが陸稲の干魃被害のための徹宵東奔西走だったということは考えられない。その作付け面積は全体のたった3%しかないからである。そしてそもそも、雨が降らないからといって徹宵東奔西走したにしてもそれを降らせる手立ては科学者賢治といえども全くとないからである。「ヒデリノトキハナミダヲナガ」すしか賢治にはなく、そのために東奔西走などはしなかったはずだ。
以上の事柄等を踏まえれば、かつて殆どの「宮澤賢治年譜」に記載されていた
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。……①
は、はたした歴史的真実だったのだろうかという素朴な疑問が沸いてくる。どうやら、仮に東奔西走することはあったにしても「風雨の中を」そうすることはほぼなかったと言えそうであることからだけでも、この記載内容は説得力に欠けている気がしてならない。となってくると、賢治が昭和3年8月10日に実家に戻った理由には別の大きな理由があったのだが、それを明示することはある事情があって憚られるのでその理由を「八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し」たことによって罹った
風邪
であるとした可能性を否定できなくなる。
逆に言えば、〝①〟のような記載の仕方をかつてしていたということからは、
賢治が昭和3年8月10日に実家に戻った理由ははたして病気のためにだったのだろうか。
ということを私達は検証せねばならないということを迫られているということにもなりそうだ。『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」へ
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「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
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