SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

インランド・エンパイア13

2009年06月07日 | Weblog


>散種は、任意のコンテクストからの切断可能性=引用可能性から与えられる。したがってそれは定義上、記号を包む背後や深層によっては保証されない。ならば散種はどこから来たか。私たちがその効果を知るのは、前述したように「目と耳のあいだの空間」、一方に「war」という〈ひとつの同じ〉エクリチュールがあり、他方でそれが〈複数の異なった〉パロールで発音される、そのずれからである。つまり散種の効果は、ひとつの同じエクリチュールが複数の異なったコンテクストのあいだを移動することにより、〈つねに事後的に〉見出される。したがってここで私たちは、まず最初に散種の舞台があり、ついでそれが転倒されて記号の単数性が生じたという線形的な順序を考えることはできない。(東浩紀『存在論的、郵便的』23ページ)

 性的欲望(セクシュアリテ)と懐妊(コミュニケーション)の問題は、そもそも多義性と散種の差異の問題でもあるわけだが、上の「目と耳のあいだの空間」の説明のうちには「移動」という語が使われている(これ以外にも付近22、25ページでの同説明で「移動」という語が使われている)。ジャックのアドバイスをふまえて言えば、リンチのこの映画に「ロコモーション」のシーンが使われたのは、おそらくこの「移動」こそを示すためであろう。そのシーンでは、ロコモーション・ガールズ(それはまた「外傷」をも同時に示す)が、突然パッと消えてどこかに移動してしまうのだった。ひとつの同じエクリチュールが複数の異なったコンテクストのあいだを移動したのである。