SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

フルチン・バビロン

2009年05月02日 | Weblog


「お酒を飲んで裸になる方が、人間らしいなあ」の佐伯剛や、「酒飲んで公園で素っ裸になるのがそんなに悪いことなの?」の保坂和志は、しかし自分では決してフルチンで暴れるなんて事はしないだろう。やったとしても余興程度であり、このGGアリンのようにガチでやるわけじゃない。チンポコ出して暴れるなんて人間として最低だ。GGが身をもって教えてくれたことを忘れてはならない。

偽日記ヴァーチャル散歩ツアー 用賀―二子玉川編

2009年05月02日 | Weblog


>随分と久しぶりに世田谷美術館へ行ったのだが、用賀の駅前の様子がすっかり変わっていて驚いた。本当に、駅前を再開発すると、どこも同じ風景になるのだなあと思って歩き出す。美術館まで十五分くらい歩くのだが、その道のりも「散歩道」風に整備されていて、歩いていてもちっとも面白くない景観になってしまっていて、うんざりする。砧公園は日曜のためか人がたくさん出てにぎわっていた。梅が七分から八分くらいに咲いていて、お花見みたいに花の下にシートを敷いて弁当を広げている人もけっこういた。でも、ポカポカと日は照っていたが、風は冷たく(風が吹くと枯れ葉がザーッと舞う)、それはさすがにまだ寒そうだった。世田谷美術館に行くために田園都市線に乗るたび、途中の二子玉川の駅から見える多摩川の河川敷を歩いてみたいといつも思っていて、でも帰りには疲れていたり既に暗くなっていたりして叶わないのだが、今日はちっちゃな展覧会を観ただけだったので、初めてそれが叶った。三時過ぎから暗くなるまで、ずんずん歩いたあちこちで野球をやっていたり...(偽日記2007-02-11より)

美術と臨床をめぐる対話

2009年05月02日 | Weblog
>しかし、あたりまえですが「良い」「悪い」の判断が最も必要なのは現場の作家です。正確にはその権限(権力)は美術批評家なり美術館学芸員なり画廊なりが握っていて、無力で盲目な作家がむやみに作った作品を一方的にジャッジするんですね。(...)そして、その判断の為には先行する、あるいは同時代の作品の分析が欠かせないし、それらの作品が作られ評価された文脈の検討も必要になる。(「美術と臨床をめぐる対話」から永瀬恭一の4月3日のメールより抜粋)

 画家は、自分の作品の何が「悪い」のかは分かっても、何が「良い」のかなんて分からないはずだ。自分の絵の「良さ」に自覚的な画家など、そんなのはイラストレーターであって芸術家ではない。そういう意味で芸術家が「盲目」であるのは、それこそあたりまえの話だ。芸術として絵を描くために、「先行する、あるいは同時代の作品の分析」とか「それらの作品が作られ評価された文脈の検討」など必要ない。荒川修作は「すべてが亡くなる前に、俺は新しい種を生み出すよ」と言った。そして浅田彰は「ゼロの自分が無限に挑むくらいの野心を持て」と言った。それが芸術的にどういう意味なのか、永瀬恭一はこれからよく考えてみるべきだろう。「分析」だの「検討」だの、犬も食わない言葉だ。保坂和志に笑われるぜ。