SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

現代芸術の原則の彼方へ

2008年08月12日 | Weblog
 かつて私は「加藤泉という作家は、前はもっと面白い作品をつくっていたはずだけど、今の作品は全然ダメだと思う」という古谷利裕の意見に反対したことがあるが、その理由については説明していない。古谷の批判は要するに加藤作品の「絵画からイラストへの堕落」を告発するものであり、人気作家として今風の「アートっぽいイラスト」を描き始めた加藤のその軽薄こそを非難しようとするものだろう。しかし加藤のように真面目で真剣な現代の画家であれば、誰もが「〈支持体〉の後退」という事態に直面するのではないだろうか。現在の芸術からアートへの移動を、この「〈支持体〉の後退とその超越」という視点から考えることが重要だが、古谷も、そして彼とつるむ保坂和志も、そんなこと関心ないようだ。

「もっとも、私が否定しようがどうしようが時代の趨勢は芸術でなくアートの方にあるわけで、芸術でなくアートと呼ばれる小説が今後生まれるかどうかは私にはわからないし、あんまり関心もない。小説が生き延びる道が芸術でなくアートになることなのかどうかも私にはわからないが、私個人はそういう小説をきっと面白いとは思わないだろう」(保坂和志「小説をめぐって」14回から抜粋)

 ならば保坂氏は古谷利裕や枡野浩一や磯崎憲一郎らと共に「紙という支持体の限界」のうちで燃え尽きればいいだろうし、また実際そうしようとしているかのようだ。小説を現代芸術として考えている保坂氏の思考は、いわば「紙でできている」のであり、その原則と限界のうちで書かれるのが文学である。もしライトノベルなどの最近の創作物を「芸術でなくアートと呼ばれる小説」とするならば、その作者たちの思考は、もはや「紙でできてはいない」のかもしれず、ゆえに保坂氏はそのいわば「プラスティック・モデル」を面白いと思わないのではないか。実際、保坂氏は同テキストで「小説とか思考することとかはこちらの側にある。工業製品の世界で使われている<新しい-古い>という尺度を小説や思考することに使うのは軽率すぎる」と書いている。ここで「こちらの側」というのが、紙に代表される骨董的メディアの側であることは言うまでもない。つまり保坂氏はここで、小説や思考することの尺度において、プラスティックは紙の支持体の前に出てくるな、と言っているのも同然なのである。「わしはそういうことを言ってるんじゃないぞ」とか「お前のような若造にわしの気持ちなんかわかるか」とか言われそうだが、そんなこと分からないし分かりたくもないのでかまわず続ければ、フロイトは1925年に、人間の心のメカニズムが「マジック・メモ」というプラスティック製の子供のおもちゃで部分的に説明できると、うっかり書いてしまったのである。この「うっかり」に注目した脱構築の殉教者デリダは、それが「紙の傍ら」にあること、そして「グラフィック」なモデルであること、そしてなにより「紙はここではすでに「縮減」され、「後退」し、〈退隠して〉います」ということを強調しているのである。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻341ページ以降)

(a suivre)