ニール・ヤング命の池田のアニキが東氏の『動物化するポストモダン』を「読んではいけない」とゴミ箱に投げ捨てている。しかし東氏からすれば、それはある意味で「本望」ではないだろうか。池田のアニキは『存在論的・郵便的』を「名著」と評価しているが、「名著」とは必ず紙とペンで書かねばならないというその条件からして、いまだ「紙の原則」のうちに留まっているものである。しかし『動物化するポストモダン』は、その「紙の原則」の彼方へと赴くための準備として書かれたように思える。『存在論的・郵便的』の最終章でも扱われたフロイトの「マジック・メモ」について、殉教者デリダはこんなことも言っている。
「フロイトは紙を媒体として、書き込みの表面として、刻印を保存する場所として使いましたが、同時にフロイトは紙を超えることも試みています。紙の限界を乗り越えたかったのです。フロイトは紙を使いましたが、あたかも〈紙の原則の彼方〉へ赴きたかったかのようです。媒体としての表面そのものを考えるとき、とくに紙という媒体の表面について考えるときには、フロイトを導いていた経済学的な図式がわたしたちに多くの着想を与えてくれるでしょう」(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻342ページより抜粋)
「フロイトは紙を媒体として、書き込みの表面として、刻印を保存する場所として使いましたが、同時にフロイトは紙を超えることも試みています。紙の限界を乗り越えたかったのです。フロイトは紙を使いましたが、あたかも〈紙の原則の彼方〉へ赴きたかったかのようです。媒体としての表面そのものを考えるとき、とくに紙という媒体の表面について考えるときには、フロイトを導いていた経済学的な図式がわたしたちに多くの着想を与えてくれるでしょう」(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻342ページより抜粋)