SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ルネサンス永瀬の謎

2006年01月28日 | Weblog
 ルネサンス永瀬はどうして「このblogでは基本的な縛りとして記述する作品の画像は提示しないことにしている(2006-01-20)」のだろうか? ブログというのはもちろんウェブログのことであり、このウェブ(WWW)が画期的であった最大の理由のひとつが、画像データの利用・交換可能性である。百聞は一見にしかず。彼は自分の観た絵を百の言葉で再現しようと試みているが、たった一枚の画像データがあれば事は足りるのである。もし「画像を提示しない」というその「縛り」が、言葉(美術批評)の復権を期待するものだとしても、そうした限定は実際には反動的であるばかりか倒錯的ですらある。おそらく彼にとって「生きた記憶」としての作品体験(アウラ)を語る権利を持つのは、真理に奉仕する言葉だけである。だがしかし、彼は自分が観た絵を思い出す為にも「死んだ記録」としての画像データに頼らざるを得ない。死んだ記録=エクリチュールは毒にも薬にもなるパルマコンである。そうしながら彼は、その毒性から生きた作品体験を守るために、画像データの蔓延するインターネットの内部に、現実から切り離されたメタリアルなシンボル空間をあえて作りだそうとしているかのようである。そこで彼の「縛り」は、.たとえばナイト・シャマランの映画『ヴィレッジ』の、あの長老たちの「掟」と同じように倒錯している。