summer diary

日記らしきページ

予想より少なめ

2020年12月06日 | Weblog
 今週のコロナ感染者は私が予想していたよりも少し少なめだった。
金曜日には東京都で600人を超える、700人に迫る感染者が出ると予想していたからだ。 昨日は東京都では580人を超えた。
それでも、600人までは届かず、意外と爆発的な感染拡大には至っていない。
来週の数値が気になる。 少なくとも、数値が少ないからと言って良い結果だとは言えない。 むしろ、爆発的な数値が出た方が、政府も国民も嫌が上でも相当な意識を持って行動することになるだろう。
今のような政府の政策では何時までもこうした感染者の増加が続きそうだし、自粛要請もいつまでも消える事も無い。
GoTo政策を停める事も無く、自粛要請するなんてことはあまりにも無責任としか言いようが無いだろう。 子供に外で遊べと言って居るにも関わらず、走ったり、笑ったり、声を出してはいけない、さらには友達と近づいて遊んではいけないと言っているのと同じだろう。 
こうした無責任極まりない現政権の悪性は、安倍内閣の根幹だろう。 
さくらを見る会での国会答弁での嘘の連呼を平然と繰り返す元首相である。
無責任では収まらないのは当然で、今後この責任や法的にもどのような処分があるのか注視したいと思う。
このまま、依然と同じ国会答弁と同等なあやふやな状態で収束するようなことなら、検察の威信にも傷が付くし、今後、国民は嘘は当然の事だと理解して良いだろう。 これから、税金も払う必要性も無くなる。 どんなに収入が有っても、課税対象外だと言ってのける事も出来る。 何しろ、国のトップが平然と嘘を通し続けてきたのだから、1国民が嘘を言うことなんて取るに足らない。 なぜ、国民はこうした自民党政権を支持するのだろう?
以前から私は繰り返し言っているけど、その政権がダメなら、常に新しい政権を選択することが必要である。 もちろん、その政権が正しいとか、政策などを心配するような気配があるけど、仮にダメなら即座に解散して、再びまともな政治家に主権を譲る事も出来る。
日本はもっと政治に対して真剣に関わるような精神が無いと、こうしたいい加減で嘘の塊である現政権のやりたい放題のバカ政策に振り回され、無駄な税金の使途を容認するような国民に成り下がるのである。
政治は政治家の道具ではない。 今の政治家はほとんど全て、自身の選挙で勝利する事以外には何も考えていない。
どんなに嘘を並べようと選挙で勝てばいいのだ、と言う姿勢を正さない限り、この国が幸福と言う物を手に入れることは永遠に無いだろう。
幸福を手に入れるのはこうした姑息な政治家や官僚や税金を湯水のように身勝手な使途に投入する政治家だけである。
どうして、国民の目線で物事を進めようとしないのか? 何が障害になっているのだろうと不思議に思うのである。
そんなにお金が欲しいのか? 何をするためにお金が欲しいのか?
出世することがそんなに大切か? そんなに地位が欲しいのか?
普通に幸せになるために必要なお金なんて知れているし、それほど多くは必要ない。 何か幸せであるのか? 幸せになるために生きているのではないのか? なぜ、自分は生きていて、どこに向かって歩いているのか?
自分が求めている者はどんな人間なのか? 欲望は何処まで続いているのだろうか?
特別な車や家や服や生活必需品が必要だろうか?
例えば、これは何時も言うことだけど、車は所詮移動手段の道具に過ぎない。
軽自動車だろうとベンツだろうと、スーパーカーだろうが、所詮は移動する道具以外の物ではない。
少なくとも、必要以上に大きな車も要らないし、豪華な内装や装備品が必要とも思えない。 そうした贅沢な物は富豪の無駄使いで良いだろう。
ベンツを所有しているから幸福だともいえないし、軽自動車でも十分に幸せを実感することは出来る。 人間はどんなに多くの物を所有しても、最低限の物しか持っていなくても精神的な幸福感はほとんど変わらない。

さて、私は今は幸せだと実感している。 特に高価な車も所有していないし、コンパクトカーでも十分以上だと思って居る。 
家もそれなりに必要十分な広さだろうと思うし、生活も特に不足するような事も無い。 もちろん、余裕が有れば、もっと高額な物に変っているかも知れない。でも、その為に今の自分の生活を変えようと思わないし、そのために政治家のように嘘を平気で言ったりはしない。
その為に多くの人を蹴落として、先に上りたいとも思わない。


クラシックギター教則本の話2

2020年12月05日 | Weblog
 60歳を超えてから改めてクラシックギターを弾くことに決めた。
若い頃には数年間程度クラシックギターを弾いている経験はある。
その後は所謂アコギでコード進行のストローク中心の弾き語りを続け、ピッキングはスリーフィンガー、アルペジオなどと、簡単なソロ演奏も弾いていた経験もある。
なので、クラシックギターを改めて弾こうと思ったのは、単なる思い付きでもない。 以前からギターは当時購入したギターも温存していたので、弾こうと思えば弾ける状態であった。 しかし、結局は30年近い年月の間に弾くことから遠ざかり、今に至った訳である。 
このコロナ禍の中で家で過ごす時間を充実させるものを探すまでも無く、私はギターをもう一度初心者と同然の本当に1から始めることにしたのである。
その為に、当初から所持していたクラシックギターではやはり上達するには音質が貧弱である事から、新しくギターを購入した。 もちろん、これもそれほど高額なギターでもないので、本格的な演奏となるとどうかな? とも思うけど、少なくとも、ある程度の音色を出してくれている。
さて、最初から始めると言っても、レッスンを専門家に師事して始めるにはちょっと予算的にも無理もある。
もちろん、以前から一度もギターのレッスンを受けた事も無いけど、クラシックギターと言うと、どうしても専門の先生に師事して習うことが当然のように言われているし、レッスンを受ける事の方が確実に上達するし、基本的な弾き方や悪い癖などを修正することも出来るので、可能ならレッスンを受ける事が望ましいだろう。 
でも、私のように余裕が無い人間に取って、1回のレッスンが数千円(およそ5000円以上だろう)を支払うのはちょっと敷居が高い。
ピアノのレッスンも同じだろうけど、楽器を習うことはそれほど安く無いのである。 だから、昔からそうだけど、楽器(多くはピアノが主流だけど)を習っている幼児の多くはある程度裕福な家庭がほとんどである。
私も幼い頃には同じ同級の女子がピアノを弾いている事を憧れを持っていた。
私の家はピアノなんて置けるような場所もないし、ましてやピアノを習うような余裕など微塵も無い家庭だったので、まっ、当たり前のように楽器を習うことなんて想像もしていなかった。
中学になってから、姉が誰から譲って貰ったギターが家にやってきて、姉が毎日弾いているのを見て、私もギターを弾くようになった。
当時はフォークソングが主流の時代で、多くはコード弾きで弾き語りの伴奏程度のギターだった。
私はクラシックギター(ピッキングが上手くなりたい、ソロ演奏をしたい)と言う思いもあり、アコギよりクラシックギターを購入して、昔の通信教育でギターを練習していたのである。
当時はネット環境が有るわけでもなく、所謂レコード盤と譜面のテキストのみの練習だった。 それでも、とても楽しく練習を続けていたけど、その後はアコギで友達などと一緒に演奏して楽しむことが主となり、クラシックギターから遠のいてしまったのである。
今思えば、継続して続けているべきだったと後悔しているのである。
で、それは得角として、今回改めてギターを弾き始めることにしたのだけど、初心者に向いている良い教本をいろいろ捜していて、「カルカッシギター教則本」がやはりメジャーな教則本だと信じて、購入して、別売りのCDも購入して、見本演奏を何度も聴ける環境を整えることにした。
さらに、もう一冊別の教則本を購入して、こちらはサブで練習する為にはとても良いと思ったので、メインのカルカッシ、サブの練習として続けている。
こちらは少しハードルが高い気もするけど、内容的には初心者から中級者レベルだろうと思う。 ただし、やはりメインの教本の練習がほとんどで、なかなかサブの曲をマスターする時間が足りていない。 
まっ、こちらはいずれにしても、メインの教則本の進捗状態で、ある意味では簡単にマスターできるだろうと思って居る。さて、そんなわけで、再度ギターを弾き始めてから4か月が経過した。
4か月目なんてものは、当時ギターを弾き始めた頃を思い出すと、本当にまだ指の先も固まっていないので、痛みを感じる程のレベルだ。
私はこの4か月目でカルカッシ教則本の8曲目を終わらせる程度まで進むことが出来た。 これはやはり、以前からの経験が生きている思う。
この本は3部に分かれていて、1部を約1年で終了するように構成されているらしい。 もちろん、個人的な上達の進度が違うし、練習する時間が取れない人と、毎日数時間も練習する時間を取ることが出来る人では相当な差が出来るのは当然だろう。 1部で凡そ24曲程度の曲があるので、月2曲を制覇する必要がある。 これは意外と難しく、私は8曲目を練習しているけど、実際には完璧に弾き熟すまで次の曲に進んでいる訳でもない。
ある程度、休むことがない程度に終わりまで弾ける程度のレベルになった時点で、次の曲に進むようにしている。 
それでも、毎回の練習の始めは基本的なスケールの練習と、2,3曲前の曲を弾き、指をしっかりと慣らすことをしている。
終了した曲も数日間弾くことが無いだけでも、以外と覚えてい無し、弾けない個所もあるので、そうした自分が不得意とする個所を何度も練習することで、自分の苦手個所を克服することにしている。
新しい曲も同じだけど、どうしても難しい個所と簡単に弾ける個所がある。
凡そ弾けるレベルになっても、どうしても毎回苦戦する場所があるので、その個所を何度も何度も弾くことで技術的には何とか克服する事が出来る。
音楽的な、所謂、芸術的な面に関しては、今はそうした事を考慮するほどにはレベル的にないので、それほど気にすることも無いだろうけど、出来る限り、お手本の音やテンポやニュアンスで表現できるように思って居る。
私は言うまでも無く、この先、プロになるとか、人前で演奏するとか言うような大それたことは思って居ない。 しかし、自分でも、気持ちよく感じる程度のレベルにはなりたいし、難しい曲やポピュラーな曲を完全に弾けるようになりたいと願って居るので、そうなるためにもいい加減な練習や悪い癖を付けないように気を付けて練習をしている。 
独学で一番悪い点は自分の悪い癖を見つける事が難しいという点だろう。
運指にしても、どうしても自分の癖で弾いてしまうことになるし、無駄な運指をそのまま続けることもある。 上達するためにはどうしても、そうした点を細かくチェックして進める事が大切だろう。
姿勢は勿論だけど、弦を押える手の形や指の形などは将来的に壁を克服するためにはとても重要な事だ。
本来は自然な形で弾けることが一番良い姿勢に違いないのだけど、その力を抜いて自然な形を維持するのはとても難しい。 どうしても、弾き難い時や素早い動きを求められる時には力も入るし、正確な押弦が出来ない事になる。
何度も何度も弾いているうちにそうした特に指運などは自然に出来るけど、その点は譜面に忠実に弾くことが大切だし、それ以上により効率的な動きを自分で見つける事が大切だろう。
右指で弾く指も同じだ。 譜面には指定された指が有るけど、それ以外にも自分の自然な動きで弾くことが大切だろう。 どうしても譜面通りじゃないと行けない訳ではない。 サブの教本は指定の指で弾くことが基本だが、自分なりの心地よい指で弾くことも勧めている。
やはり、個人的に誰でも自分の持っている個体差があるので、譜面が全てと言うことではない。 あくまでも、手本としての譜面だし、もっと言えば、音楽はあくまでもその表現性が大切で、譜面に表すことが出来る事は限界がある。
曲を弾く表現者に委ねられている点では、音楽の芸術性はある意味では演奏家に任せられていると言っても良いだろう。
絵画などは見る人間の感性に委ねられているだろうし、その他の芸術の多くは表現者と受け取る側の感受性が必ず一致しているとは限らない。
芸術とはそうした意味では、芸術家の意図した物とは違った評価を受ける事は当たり前だろう。 しかし、芸術の本質はそうした受け取る側の心理はあまり期待していない。 本来、芸術作品は誰かの為ではないからだ。
芸術作品の本当の意味は作家個人の思考や模索、概念や感覚、生き様や生きた証としての産物である。 そうした産物(これは音楽や絵画などのある様式にを用いた表現手段)を他者に与える影響は当然、それを受け取る側の数だけ存在する。 
真実とは人の数だけ存在することを理解する必要があるだろう。 もちろん、他人を陥れたり、脅迫したり、傷つける事が目的とした物や、お笑いを意図したり、社会を風刺するような物を芸術とは言わない。 そうした、意図した作品は芸術ではない。 作家の意図した物なんてものは、結果的には単なる自己満足でしかない。 なぜなら、そうした物であろうとなかろうと、他者に自分の意思が忠実に伝わるような物はこの世には存在しないのだ。
作家が意図することが無いその作家の内なる物が溢れるように流れる物。 それが本来は芸術という領域にある物である。
芸術家になるために必要な物を探しても見つからない。 芸術家は生まれつき芸術家としての資質を持って生まれている。
努力して身に着けた教養や技術や知性などでは芸術の領域には達することは出来ない事を知るべきだろう。
多くの人はこうした事をなおざりに考えるのである。 例えば、どんなに精巧な作品も量産品や日用品である以上はそれは工芸品であり、芸術作品は無い。
ギターも同じだけど、あくまでも実際に使用して、ギターなら音楽と言う芸術を表現する為に使用する物でしかない。 どんなにその作りが素晴らしい物でも、それはあくまでもギターであり、芸術ではない事を認識するべきだろう。
ちょっと、話がそれたけど、私には芸術家としての才能も資質も持ち合わせていないだろうと思って居る。 どんなにテクニックが上達しても、本当に感動させるほどの豊かな音楽を奏でる事は出来ないだろう。
もちろん、ギターを弾くことが楽しいし、今後は私の生涯の生き甲斐である。
弾いている事に意味があり、その結果はあまり意味がないのである。
もちろん、結果論として、脳の活性化や生きていて楽しいと言う気持ちをもたらしてくれることは結果としての効能かもしれないけど、それが目的で弾いている訳でもないし、そうした目的なら別の事をしているだろうし。

さて、では今日は仕事も休みだし、ギターの練習も3、4時間は可能だ。
筋トレもしっかりと出来るし、明日も休みなので、2日間は自分の為に時間を使える。 



基本的な教本

2020年12月02日 | Weblog
 クラシックギターを取得するために必要な要素は凡そ同じで、その上達に必要なテクニックを練習するためにいろいろな教則本がある。
その中でも多くの人が用いるギター教則本の見本だろうと思うけど、溝口浩五郎氏のカルカッシギター教則本。
実際にこの本をメインにして練習している。
確かに、初心者から中級、上級までのテクニックや応用を効率よく練習出来る教則本に間違いは無いだろう。 ただし、この本だけではやはり少し足りない気もするのでも、他に私はスコットテナート(Scott Tennant)の教則本も平行して練習している。
この教則本は初心者にはちょっと厳しい気もするけど、ただし、とても練習としては良く出来ている本だと実感する。
カルカッシギター教則本も練習曲10を超えるあたりから、フレットの移動距離が増しているので、かなり練習しないと正確に弦を押えるのは難しい。
音符の長さ、これは任意だけど、見本音源を参考にすると、相当に早い移動と正確な押弦が求められる。
もちろん、今後はもっと難しい移動になるのは当然だけど、それにしても、左手を移動して、細い弦を正確に押える動作はこれはある意味では人間が普段している生活レベルには無い動きなので、難しいのは当然だ。
しかし、何度も何度も、何度でも繰り返し練習していると意外と指は覚えてしまい、何も考える事もなく指が動いている状態にまでなる。
これはやはり練習の賜物だ。
どんなに難しいと感じるような曲も、諦めないで続ける結果にはそれなりに満足できるレベルに達するのである。
さて、最近はギターの話ばかりだけど、当然、これは私の今後の生き甲斐でもあるギターだからだ。
しかし、年齢の壁もあり、一日弾いているとどうしても人差し指の第2関節当たりが少し痛みを感じることもあり、休憩時間をたっぷりと取り、練習することも大切だろうと思って居る。
筋トレも同じだけど、無理をするとしばらくは出来ないようになるし、そうした時間は逆に上達する逆効果に繋がりかねない。
なので、同じ指を使わない練習曲を挟みながら、指の疲労感度が集中しないような練習が大切だろう。
なので、練習は1冊の同じ曲を集中的にやるのではなく、2冊、3冊程度、同レベルの教則本を用意するのもより効率的な練習の在り方かもしれない。
どうしても、弾けない曲に気持ちは集中しがちで、同じ曲を長時間練習することになるけど、1時間程度を目安にして、違う曲を練習することは効果的だろうと思うのである。
さて、今日は午前中は用事で出かけていたので、午後からギターの練習をしている。 夕方には家トレをすることにしているので、もう少し頑張ってやろうと思う。

車の警告ランプは、結局は警告ランプの設定だったので、設定を変更することで問題は解決した。
至って簡単に出来たし、特に車のどこかが悪い事が原因では無かったので、安心したのである。


12月に入ってから忙しい

2020年12月02日 | Weblog
 12月、師走。 12月は昔から猫も師も忙しく動き回る月らしい。
猫は兎も角(私の家には猫も犬もいない)、年末はいろいろと用事が重なる時期だろう。
私もこの月に入ってから忙しいことになる。 いよいよ奥歯の悪い歯を1本抜歯して、ブリッジ治療に入る。 そのために、その抜歯を口腔外科に行くことになり、抜歯がどの程度で終わるのかもちょっと分からない。 おそらくは、縫うことになるだろうし、1回程度では終わらないだろう。 歯茎が安定したらいよいよ主治医の歯科医でブリッジ治療を開始する。 このブリッジも時間が掛かる治療だ。 2本の歯の加工、借りの入歯、ブリッジの歯をはめ込む。
恐らく2か月以上はかかるだろう。
妻と私のスマホのプラン変更もすることになっているので、これは意外と時間が掛かり、さらに、場合によってはiPhone12に機種変更も考えているので、数時間を予定している。 

人間ドッグも今月受診する。 これは一日で終わるので、大したことは無いけど、休日はこれで終わって仕舞うことになる。 さらに、年金の申請をするために社会保険事務所へ申請手続きに行くことになっている。 すでに日時を予約してあるので、待たされるようなことは無いと思うけど、それもどうか分からない。 時間は1時間程度で終わるけど、往復の時間を考えると2時間は必須だ。  さらに、妻の車の車検があるので、これは入庫、出庫とあるので、2日間を予定していて、私の車の警告ランプが点灯しているので、今日はディーラーで点検して頂くことになっている。 その帰りには買い物を済ませる。
年末には掃除もしたいし、買い出しもしたいし、何しろ、休日をのんびり過ごすことはほとんどないことになりそうである。
ギターの練習もあまり時間が取れないかも知れないし、筋トレも少し間隔が空くことになりそうだけど、まっ、休日には最低でもギターは3時間、筋トレは週3時間程度は可能だろう。
リフォームは先週には一旦は完了しているので、やれやれである。

妻の車は軽自動車で、今年で9年目になる。 妻は乗り換えを検討していたけど、普段の仕事や買い物のちょっとした移動で使用するだけで、走行距離もまだ6万キロ程度。 なので、車検を取ってまだまだ乗ることにした。
当初は正規ディーラーで車検を取ることにしていたけど、結局は私がお世話になっているディーラーへ出すことにした。
今日は点検の際に車検の予約をすることにしている。
さて、これから市役所に立ち寄り、戸籍謄本原本を取り、それからディーラーへ行くことにしている。
年金申請ではこの戸籍謄本原本が必要らしく、面倒な気もする。
何故こんな原本が必要なのか理解に苦しむ。
少なくとも、年金申請書類が届いているのだから、本人であることに間違いなしい、さらに、免許証なども必要なんだから、戸籍謄本原本なんて必要ないだろう。 役所のやることには無駄が多すぎると感じる。
こうした無駄な書類を必要とするから、余計に確認作業に時間もかかるし、無駄な経費も掛かるのである。
もっと簡易的に見直すことが多いだろう。