東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

人形峠

2023-04-13 | 安全保障

人形峠には鳥取県の倉吉市、三朝温泉方面から入った


人形峠
アトムサイエンス館


島根県出雲市から鳥取県倉吉市を経由して人形峠に行った。
出雲から人形峠まで約140km
バイクで実質約3時間
人形峠は鳥取県と岡山県の県境にある。1955年(昭和30年)11月に人形峠でウラン鉱床の露頭が発見された。その時期は原子力利用の黎明期でウラン鉱床の発見のニュースが駆け巡ったものだ。その後、人形峠ではウランの精錬、転換、濃縮などの実用化技術の開発が行われた。

時系列で示す。
・1953年(昭和28年)米国アイゼンハワー大統領が国際連合総会で「平和のための原子力」演説
・1954年(昭和29年)後の総理大臣中曽根康弘らにより原子力予算を国会に提出
・1955年 (昭和30年)人形峠でウラン鉱床が発見される。
・1955年(昭和30年)原子力基本法が成立
・1956年(昭和31年)  特殊法人原子燃料公社発足
・1956年(昭和31年) 特殊法人日本原子力研究所発足
・1957年(昭和32年)正力松太郎が科学技術庁初代長官
・1957年 (昭和32年)九電力会社および政府電源開発の出資で日本原子力発電(株)発足
・1963年(昭和38年)茨城県東海村の日本原子力研究所の実験炉JPDRが初めて原子力発電を行った
・1966年(昭和41年)日本原子力発電(株) 東海発電所1号機 黒鉛減速ガス冷却炉16.6万kW 営業運転開始 
・1970年(昭和45年)日本原子力発電(株) 敦賀発電所1号機 沸騰水型軽水炉35.7万kW 営業運転開始

僕らの同期生が働き始めたのは原子力の黎明期だったのだ

ボクが茨城県東海村の日本原子力研究所に住んだのは3回ある
・1回目修士1年夏休み約1ヶ月研修 テーマは高速炉設計班にてパルス炉の設計
・2回目修士2年大学院学生研究員 約1年間 テーマは同上
・3回目企業より出向 研究員 約4年間 同所安全研究センターにて配管破断仮想事故時の配管挙動とジェット衝突について

思い起こせば東海村では一生のうちの貴重な時間を過ごすことができた。優秀で人間として魅力のある人々と交流し一緒に仕事ができたことは自分にとって宝物だ。
 

皇太子殿下の行啓記念碑がある
今の上皇殿下です
当時は原子力の黎明期で世相も希望に溢れていた



人形峠には日本原子力研究開発機構が残っていた


ウラン鉱床の発見

人形峠での生活
場所は違えど東海村の生活を思い出す
東海村は水戸に近いけれど、人形峠は大変だったでしょう



当時は活気に溢れていた


ウラン濃縮の原型プラント生産終了
役目を終えた



大山が見える
チャンスがあれば登るのもいいですね
鳥取県側の三朝温泉方面から人形峠に向かった
いい旅でした
人形峠から名古屋まで340km
バイクで実質5時間程度
途中で一泊


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