東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

當麻寺と相撲発祥の地 

2019-04-30 | 歴史散歩

 當麻寺(たいまでら)は奈良県葛城市にあり、最寄り駅は近鉄南大阪線の当麻寺駅(たいまでらえき)で、お寺は駅から西約1kmの位置にある。當麻寺は現代風には当麻寺と略字を用いているようだ。

 西暦612年に聖徳太子の弟の麻呂子親王が河内交野郡山田郷に萬宝蔵院禅林寺を草創された寺を、その70年後に麻呂子親王の孫にあたる當麻国見が現地に遷造した。681年に起工して685年に完成したと伝えられ、白鳳末期から天平初期に建立され金堂、講堂、千手堂、東西両塔その他七堂伽藍を完成し、百済の恵灌僧正を導師とし當麻寺と改めたそうだ。

 飛鳥時代は、広義には飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間、狭義には聖徳太子が摂政になった593年から藤原京への遷都が完了した694年にかけての102年間という。當麻寺は飛鳥時代の後期の寺院である。参詣当日に當麻寺の僧侶に伺ったところ、まだ不明のところもあり、その歴史は研究対象になっているそうだ。また當麻寺中之坊は奈良時代の中将姫ゆかりの僧坊であり女性にも人気がある。

 當麻寺は金剛山地の二上山の東側にあり、法隆寺は比較的近い位置にある。地元の人なら当然御存知のことでしょうが、大和の国南部と大阪南部の境界には高い山が途切れ現在は鉄道線路が幾つか通っていて、當麻寺のある奈良県葛城市は大阪府柏原、羽曳野、藤井寺市などと隣接している。重要なことは大和の飛鳥地方から大阪市南部へ大和川が流れ込んでいる。大阪の上本町六丁目から奈良に繋がる近鉄電車は生駒山地をトンネルで潜り抜けていくイメージがあるので、大阪と奈良は生駒山地で隔離したイメージがあるが、生駒山地と金剛山地の間には大和川が流れ、飛鳥と大阪は比較的容易に移動できることを、恥ずかしながら小生はやっと気付いた。

 さて、當麻寺と近鉄当麻寺駅との間には葛城市相撲館「けはや座」がある。當麻は日本書紀にあるように国技・相撲の発祥の地だ。第11代垂仁天皇七年七月(3世紀後半から4世紀前半ごろと推定)に大和の国當麻邑(たいまむら)の當麻蹶速(たいまけはや)と出雲の国の野見宿禰(のみすくね)が垂仁天皇の前で力比べの相撲で競った。これが天覧相撲の始まりとされている。勝負の結果は大和の當麻蹶速が出雲の野見宿禰に敗れて命を落とし、當麻蹶速の領地が野見宿禰に与えられたという。つまり大和の土地を出雲の勝者に与えたということになる。古代の日本は西方から武力に勝る集団による進出があり人材も流れ込んできたという。最終的には大和の勢力は関東や東北にも及び、東国の古い歴史は大和朝廷の歴史に上書きされ、日本は曲がりなりにも統一され、文字もなかったことから地元古来の歴史はほとんど残っていないことになるのでしょう。日本の天皇の時代は変遷しながら脈々と続いている。日本の歴史を振り返り、日本の国を守ることを真剣に考えるにはいい機会です。

 平成は今日で終わり、明日から令和の時代になる。


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同期会 伊豆韮山土肥から清水へ

2019-04-23 | 淡路・神戸・明石・京都





 

 小学中学の同期会が伊豆長岡で開催された。韮山の反射炉、土肥金山などを見学し、フェリーの船旅で土肥港から清水港へと向かうというバラエティに富んだ旅行だった。伊豆の西海岸は淡路島北部の西海岸に似ていて故郷を彷彿とさせる。
 
 それにしても淡路島から伊豆半島まで片道550kmを貸切バスで来て往復するのだから恐れ入る。勿論、明石海峡大橋が完成した後は陸路で繋がり高速道一本で来ることが大きい。故郷で頑張っている同窓生を核にして岡山、兵庫、大阪から途中で同乗し、それに加え名古屋、埼玉、新潟、茨城、仙台など各地から同期生が伊豆長岡に集まった。

 心残りながらボクは清水港で皆さんとサヨナラしたが、同期生には幼い頃のイメージが残っていたりして50年以上のタイムスリップ旅行はたいへん楽しかった。

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西暦740年遷座 羽山神社

2019-04-16 | 歴史散歩
朝の散歩。西暦740年代といえば奈良時代だ。多賀城主によって遷座されたそうだ。
見過ごされそうな小さな神社だが歴史は古い。桜の季節になり、はやぶさ・こまちが北へ向かう。


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飛鳥万葉の里 大和三山

2019-04-05 | 歴史散歩


飛鳥万葉の里にて大和三山が見えました。耳成山、天香久山、畝傍山を望み春爛漫です。

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おじいさんの双眼鏡

2019-04-01 | 淡路・神戸・明石・京都

 新元号は令和となった。祖父のことを想い出した。祖父の双眼鏡が手元にある。接眼レンズには LEMAIRE FABT PARIS と記されている。ルメールファビはフランス製で日本でも海軍にて使用されることが多かったようだ。多分、戦前には日本製の双眼鏡に現在のニコンのような良い製品がなく、船乗りはフランス製を愛用していたようだ。

 明治生まれの祖父は第2次世界大戦というか大東亜戦争以前から生船(なません)の船長だった。生船の船倉の栓を抜いて生簀にし、戦前は五島列島や天草、朝鮮から高級魚を生きたまま運んだり、あるいは生簀(いけす)となる船倉の船底を栓で密封して水を入れないようにして船倉を空にし、その中に粉砕した氷を敷き詰めた魚箱を何段にも積み上げて船倉を満杯にして、大阪や神戸に運んでいた。

 私の母の弟にあたる叔父は終戦直後のほんの一時期、祖父が船長だった船に乗っていたことがあり、何年か前に伺ったところ,終戦直後は魚が飛ぶように売れ、魚を生簀で生かしてして運ぶよりは魚を多く大量に運ぶために、空船にした生船に氷漬けにしたサバやイワシの魚箱を積み込んで、九州各地や下関あたりから瀬戸内海を通って大阪や神戸に運んだそうだ。祖父は魚箱の氷がちょうど融けるころに荷揚げの港に到着するように船を運行していたことを例にあげ、腕のいい船長だったとたいへん感心していた。身内のボクが言うのは気が引けるが祖父は真面目で落ち着いていて評判が良かったそうだ。五島列島の網元の神徳さんには贔屓にして頂いていたが、残念なことにその神徳の親方は後年に羽田沖の航空機事故で亡くなられたと伺った。
 子供のころチョコレート菓子やフグの干物などを、九州や下関から祖父が小包でよく送ってくれたのでそれが楽しみだった。祖父や父は九州の州と同じ発音で、対馬のことを対州(たいしゅう)、壱岐のことを壱州(いしゅう)と呼ぶ。瀬戸内海を通って大阪神戸とを行き来する生船は、途中で船員の多くを占め多くの船の母港でもある淡路島の富島港に立ち寄る。ボクが小学生の低学年のころ祖父の生船に乗って神戸港まで同乗して行ったことがあり、その時から使っていたのがこの双眼鏡だった。

 終戦後に世の中が落ち着き、鮮魚の運搬も既に船から陸送に代わったため、少しやんちゃなボクの父親は生船をやめてコックとなって神戸の進駐軍に勤めていたが、その後、ボクが小学生の3~4年になるころ、父は生船乗りの祖父を誘って独立して神戸で海運業を始め、神戸製鋼の鉄鋼製品を運ぶようになった。親父も長年この双眼鏡を使っていた。

 何年か前に「坂の上の雲」のTVドラマで日露戦争の日本海海戦を拝見したが、東郷ターンで有名な旗艦三笠の船橋で将校が首に掛けていた真鍮製の双眼鏡はどこかで見たことがあるな、ああ、これは祖父の双眼鏡と同じメーカー製に違いないと思った。
(追記: 大澤様よりコメントを頂き訂正しました。有難うございました。東郷司令長官の双眼鏡はZeiss製とのことです。望遠鏡や双眼鏡の世界のシェアや歴史を調べると時代や背景が解ると思います。)



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