昨年のことだ。叔父から母の生い立ちを伺った。私の母方の祖父母、すなわち母の両親が結婚する前は二人とも教員をしていたようだ。祖父母は現在の兵庫県淡路市の出身で、結婚したころ祖父はすでに教員ではなく警察官になっていて、現在の京都府亀岡市で駐在巡査だった。
母が4歳のときにその祖父が亡くなり、止む無く亀岡の駐在所から祖母と私の母を含む3人の子供は転居することになった。祖母は京都の亀岡から大阪府の能勢へ母と2人の弟を連れて徒歩で峠越えをしたそうだ。そのとき母は4歳、弟は2歳と末弟は生まれたばかりの乳飲み子だった。そして夫を失くした祖母と母を含む幼い3人の子供たちは淡路の実家に帰った。昔のことなので3人の子供を食わせて育てるのは並大抵のことではなかったはずだ。
その後、母は神戸の女学校へ行ったが、戦争が激しくなり空襲が始まり学業半ばでやがて終戦を迎える。
祖母は生け花と茶道の師範免許を取得し、やがて母も同じように師範となった。生け花は京都仁和寺の御室流、茶道は裏千家だった。祖母と私の母は二人で実業高校や料亭、裕福なお宅などに伺い、生け花を設えたり、茶道を教えたりして生活をしたようだ。
ボクが小学生のころ、自宅の2階に花嫁修業のうら若き女性のお弟子さんが何人か来られ、化粧や香水か本来の女性の持つ匂いか知らぬが、幼いながらもほんのりとした香りに秘かに心ときめいた記憶がある。
母は結婚した後も、何かにつけ二人の弟の面倒をよくみた。日常茶飯事のことや盆暮れのことから金融まで随分と面倒を見たようだ。
今から思えば母はいつもせっかちで忙しく、何にでも興味を示すが達観し、父との口論もないとはいえず唯我独尊の雰囲気があった。私といえば、高校の思春期にはよくあることだが、当時の家や社会を取り巻く漠然とした環境には満足できず、このままでは駄目になる、早く独立しなくてはと考えた。大学を家から離れた仙台を選んだのも若気の至りに加えてそんな理由もあったと今では思える。
早いもので母の一周忌が過ぎ、送り盆も終わった。