具志堅用高記念館
この記念館は石垣島にある
テレビの特集によると、具志堅一族は古くは琉球政府の役人を務め、もともと沖縄本島の本部町が本拠地で、現在は200家族、1500人の親族がいるそうだ。ただ大東亜戦争では一族の4分の1の人が亡くなった。
具志堅用高の父が戦後に石垣島に移住し、具志堅用高は石垣島で育った。
明和の大津波 1771年(明和8年)
石垣島は約250年前に大きな災害に遭遇している。
八重山地震による遡上高30メートルを超す大津波が襲来した。
この津波により17,269人の住民のうち49%の8,437人が亡くなった。
半数しか生き残らなかったという荒ましい災害だった。
明和の大津波 1771年4月24日(明和8年)の犠牲者
石垣島を含む八重山諸島は大東亜戦争でも大きな被害を受けた。この地域では米軍の直接の上陸はなかったが、旧日本軍の現地指揮官が住民を強制移住させた。その先が当時マラリアが多発していた西表島や石垣島北部だった。全人口31,701人のうち11.5%の3,647人がマラリアで亡くなった。
戦時中の強制避難
八重山平和祈念館
戦時中の八重山地域のマラリア犠牲者
八重山群島のマラリア患者数の時系列データ
1945年米軍占領後、対マラリア薬の投与により死亡者は激減した。その後は国連のWHOによるウィラープランの実施で1962年にマラリアは撲滅された。
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WHOのウィラー博士
八重山諸島のマラリア撲滅に、国連は大きな役割を果たした。今回のコロナ禍への対応とは違う。
因みに「これから西表島のジャングルに入るのですがマラリアは大丈夫ですか?」と伺ったところ、「マラリアは長年にわたり発生していません」との返答あり。ボクは少しだけ安心してその後、西表島に向かった。
戦後の沖縄復帰(1972年5.15 昭和47年) に大濱先生たちの努力が大きな役割を果たしたことは以前に述べた。
石垣島の大濱信泉先生
石垣島出身の具志堅用高がWBA世界ライトフライ級チャンピオンになったのは、1972年の沖縄復帰の4年後の1976年(昭和51年)。特に沖縄の喜びは想像に絶する。日本中が祝福した。1981年まで5年間チャンピオンを守り通して君臨した。具志堅用高が沖縄の未来を切り開いたと言ってもよい。
ボクの記憶をたどれば1972沖縄復帰の後、具志堅用高、BEGIN、安室奈美恵、SPEEDなどが続いた。
1968 野球甲子園 興南ベスト4
1972 沖縄復帰
1976 具志堅用高
1990 BEGIN
1992 安室奈美恵
1996 SPEED
1999 沖縄尚学 優勝
具志堅用高の伝説
具志堅用高記念館
具志堅用高の銅像
石垣港離島ターミナル
この地の「ポーク玉子おにぎり」は行動食に適す
沖縄の呼称