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東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

夏 

2025-07-27 | 仙台・東北






今日も暑そうです





芭蕉さん一行も暑かったでしょう






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甲子園へ

2025-07-13 | 野球

 
今日は甲子園を目指す地方の夏の大会を見た
地方大会から真夏の甲子園の頂点までの一本道
たった一校の全国大会優勝までの一本道
 
自宅から歩いて15分
それでも暑いので自転車で行く
所要時間は5分
球児たちに比べてこちらは何とも怠惰なのだ
恐れ入谷の鬼子母神
 
 


 
 


 

 

 

泉松陵高校と塩釜高校の対戦だった
それにしても閑散としている

 
 


 
泉松陵高校にはチアガールズがいた
 
一球入魂だぞ
 


 

 
 
 ネット裏のことはバックネットサイドだと思っていた
バックストップサイドとは
この歳まで何を学んできたのだろう
 
 


 
凡事徹底
塩釜高校
いい言葉だ
 

 

こちらの応援はブラスバンドを入れて20名程度
 
これは彼らにとって一生一代の晴れ舞台
高校時代青春の総決算
君たちの未来に光あれ!
 



今は昔
自分は県立明石高校の生徒だった
清水さん柳瀬さん松井さんの応援団のリードで全校生徒が集まった
確か中部講堂だったかな
応援の練習をした
応援のエールに三三七拍子
多いに盛り上がった
 
だが高校三年間
兵庫県予選の応援に行ったことがなかった
全校生徒のうち何人ぐらい行ったのだろうか
県予選のころは授業があったのか
いつもバスケット部の練習があった
そのころは下手なバスケでも一生懸命だった
 




 

 
試合終了後
外野の場外から
 
気がついたこと
1.朝日新聞の威勢のいいノボリが今年は無い
 キャッチフレーズは無条件にカッコ良かった
2.入場券、昔は無料、今は有料
 以前は西宮の甲子園球場全国大会でも外野席は無料だった
3.9回裏表のうち3回ごとぐらいに休憩給水タイムがある
 その度に試合は中断
 午後の灼熱の時間帯に試合がない
 これも時代の流れか
 何だかなあ
4.朝日新聞も部数減少で財政的に余裕が無くなったのだろう 
 朝日は偏向新聞との意識が定着してきた
 野球と朝日の巨大な洗脳装置といわれても仕方がない
 新聞社の主催後援は止めてもいい時代になった
 それでも他の方法は難しいのかな
 
それでも 甲子園!は特別な響きを持つ
甲子園は甲子園!
 


 

 
バックスクリーン裏はボルダリング教室
 
 
 
 
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この世に生を受け

2025-07-01 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西



私の誕生のころ

何を見つめているのだろう    




お宮参りか、お祭りか
母親と一緒に
額に2点 稚児の眉を描いている
殿上眉(てんしょうまゆ)とか天竺眉(てんじくまゆ)と呼ばれているそうだ
いずれも神仏の行事に関係している
幼児の頃の風習だったようだ






船に乗っていた父親と一緒に
自宅に一時帰ってきたらしい


さて昨今、これまで駆け足で時の車に乗って齢を重ねてきたが、いつの間にかゴールもそう遠くないと感じる今日この頃です。古いアルバムを整理していると幼少のころの写真が出てきた。

私がこの世に生を受けたのは戦後のことです。終戦後、戦争帰りで生き残った兵隊の男と、内地で銃後を守っていた乙女とが、お見合いをして早々に所帯を持ち、子供が生まれた。いわゆる戦後のベビーブーマー世代だ。同世代の人々と同じように、これまでひしめき合って、何かに急かされるように生きてきた。





妹が生まれた
船長だった祖父と隣の家のおにいさんと私

生家は兵庫県津名郡富島町(現:兵庫県淡路市富島)




妹に続いて弟が生まれた




幼稚園の集合写真
同年代は人が多かった

幼稚園では昼寝の時間に
かけ布団をかぶって寝たふりをし
その中でゴソゴソ遊んでいたら
布団をはがされて
保母さんに「何やってんにゃ」と
叱られたことを今でも覚えている






父親ときょうだい
私が小学校3~4年のころかな

こんな写真も他人様にとっては誰も興味なく振り向かないと思うが、家族に取っては貴重な記録ですね。揺籃期を過ぎ、これから流転が始まります。



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蔵王に夏が

2025-06-11 | バイク・山歩き

先週の蔵王



いつの間にか夏が来た
今年の冬は蔵王に登っていない
前回に蔵王の頂上に来たのは去年の11月
頂上開通は4月末から11月はじめまで
山は半年間だけオープン

気がつけばもう6月
いつの間にか夏が来た








近くの御田ノ神を散歩









僅かに花があった

季節はこれから雨が続き気温が上がる
花園が拡がるだろう
そうすると本格的な夏









下界は楽天のプロ野球交流戦
先週は横浜ベイスターズのブルーが来た
懐かしのベイスターズ

地元の横浜スタジアム
子供とその友だちを連れて行った
応援に行ったのは今は昔
タイガース・ベイスターズ戦では微妙
どちらも応援したかな




近くの伊達政宗公慈愛の白萩
大悲願寺の白萩

政宗が秀吉と小田原一夜城で謁見する直前
伊達家のお家騒動
政宗の弟、小次郎は政宗にやむなく殺害されたと聞く

実際には弟は生き延びて
出家したのではないかとの説がある



下界では薔薇の花にヤマボウシ































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シドニー散歩

2025-05-24 | 旅・趣味・自転車ほか

シドニー
サーキュラー・キー
連絡船が多数発着する中心地
神戸のメリケン波止場付近と雰囲気が似ている
親近感があって初めて来たとは思えない


シドニー サーキュラー・キー
波止場の連絡船




セントラル駅の列車
ブルーマウンテン行き
片道2時間




オパールカード
シドニー付近の列車、バスとフェリー共通
1週間の乗降自由でオーストラリアドルで約50ドル

空港から市内往復
市内観光用 バス 電車
フェリー乗降全て
ブルーマウンテン往復
タクシー利用なしで交通はすべてこのカード一枚でOKだった




ブルーマウンテン 原生林





ブルーマウンテン三姉妹
有名なスポットらしい




オペラハウス




オーストラリア博物館
ゴールドラッシュ
約90kgの金塊

現在金の価格は1グラムあたり16,698円 
90kgでは15億円
こういう金塊を発見発掘できれば最高な気分!

現実に戻って1兆円企業とは売上この金塊を666個
赤字1000億円とは90kgの金塊66個
赤字が続けば詰んでしまう

いけない、いけない!
90kgの金塊を掘り当てる夢を見なくては!

















コッカトゥー島
たぶん、世界遺産




マンリー海岸
リゾート地

















ここからは備忘録

オーストラリアの歴史 
"5万年前 石器時代後期"    "現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカからユーラシア大陸に渡来し、狩猟・採集生活を送っていた アボリジニの祖先がジャワボルネオを含むスンダランドからサフールランド(オーストラリア)に移住した" 
その後16世紀まで    オーストラリア大陸はオーストラリア先住民、いわゆるアボリジナル(日本ではアボリジニと呼ぶ)が住んでいた 
1606年    ヨーロッパ人によるオーストラリア「発見」 
1770年 英国ジェームス・クック エンデバー号でシドニー付近に上陸 
1788年1月26日    "シドニー入植  フィリップ英海軍大佐一行がシドニー付近に初めて移民 オーストラリアの新しい歴史が始まった 流刑囚780人と海兵隊関係者1,200人  
先住民アボリジニはオーストラリア大陸に25から30万人 
1788年-1900年    ニュー・サウス・ウェールズ植民地 
 1788年-1934年    オーストラリア開拓戦争:オーストラリアの開拓時代、イギリスの入植者と先住民族との間に起きた100年以上に渡る激しい対立 
1794年-1816年    ホークスベリー・ネピアン戦争 
1828年–1832年    ブラック・ウォー 入植者との戦いでタスマニアン島のアボリジニーは殆ど絶滅し、入植者によるアボリジニーのフリンダーズ島への強制移住で終わる 
1851年   ゴールドラッシュ 人口 1851年で437,665人から1861年に1,168,149人 
1854年    ユリーカ砦の反乱 1856年労働者が抵抗 8時間労働制 
1858年   シドニー、メルボルン、アデレード間の電信が開通 ニューサウスウェールズ州やビクトリア州議会選挙 この頃、オーストラリアの人口は100万人 
1901年1月1日-現在    オーストラリア連邦の成立 
1914年7月    第一次世界大戦 オーストラリアはイギリスと共に連合国側に付いて参戦 
1939年9月1日ー1945年8月15日     "1939年9月1日ドイツがポーランドに侵攻 第二次世界大戦が始まった オーストラリアはイギリス側に立って参戦、まず中東・地中海沿岸に、次いで北アフリカ地域に志願兵を派遣した 
1941年12月に日本軍が真珠湾攻撃を行うと、日本に対する宣戦を布告した。日本軍は 1942年の2月から7月にかけてダーウィン、ブルーム、タウンズビルなどオーストラリア大陸北部の爆撃を繰り返す
5月には特殊潜航艇を用いてシドニー港を攻撃した
1901年-1973年    白豪主義時代 中国人などのアジア系の移民を排斥、制限し、白人主体のオーストラリアを建設・維持しようとする政策 
人口 1949年 800万人  1959年 1,000万人 
1981年 1,500万人 大量の難民 インドシナ半島から到着したボートピープル 
2004年 2,000万人国内マーケットの活性化移民政策 
2025年 2,700万人超 
2030年 3,000万人見込" 
 





現状      オーストラリア

名目GDP(国内総生産)     2024年 世界第14位 1兆8千億ドル USD
1人当りGNI(総所得)        2023年 世界第18位 5.6万ドル
主な産業           畜産業や小麦を中心とする農業 鉄鉱石、石炭、ボーキサイトも主要な輸出品
人口     オーストラリア総人口は2666万人
10大都市に70%、東海岸に80%の国民が住む
シドニー 531万人 メルボルン507万人 ブリスベン251万人 パース   208万人 アデレード135万人 ゴールドコースト69万人 ニューカッスル49万人 キャンベラ46万人 サンシャインコースト34万人 ウロンゴン30万人
以上の10大都市の人口合計1864万人
オーストラリアの人種構成 ヨーロッパ系約92%、アジア系約7%、先住民アボリジニが約1%
宗教 キリスト教約61%、無宗教約22%




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戊辰戦争 仙台藩と相馬

2025-04-11 | 仙台・東北


旗巻峠
福島県相馬市と宮城県丸森町の県境にある

以前から戊辰戦争と仙台藩の関わりが気になっていた
春になったので、恥ずかしながら少し動いてみようと思った

王政復古のあと、朝廷警護のため京都に出陣したはずの会津藩は維新で朝敵にされてしまい、官軍に対して奥州越列藩同盟が結成され、仙台藩は中心的な役割を果たした。仙台藩は戊辰戦争では白河口の戦い、二本松の戦いなど東北地方の多くの戦闘に参軍し、会津戦争では母成峠の戦いなどにも幕府軍として兵を出している。

戊辰戦争と仙台藩の関わりについては専門家の歴史書があると思うが、まずは備忘録を作ってみた。






1868年(慶応4年/明治元年)
1月27日   戊辰戦争開始 鳥羽・伏見の戦い1868年1.27-1.30日 
鳥羽・伏見 阿波沖 甲州勝沼 梁田 江戸開城 宇都宮城 市川・船橋 五井 今市 三国峠 鯨波 上野 飯能 北越戦争( 寺泊沖 八丁沖) 会津戦争( 白河口 磐城 二本松 母成峠 会津城攻略) 旗巻峠 秋田戦争( 長岡山) 弘道館 松山 宮古湾 箱館戦争( 二股口 箱館湾)"

仙台藩と戊辰戦争 
1868年(慶応4年/明治元年)
5月3日        奥州越列藩同盟成立
6月10日(- 8月31日) 白河口の戦い
8月4日 (- 9月22日)(磐城の戦い 相馬中村藩降伏)    
9月15日                 二本松の戦い
9月22日                 仙台追討総督四条隆謌 新政府軍 相馬中村城に入城
9月22日                 黒木の戦い
9月26日                 第一次駒ヶ嶺攻防戦
10月1日                 第二次駒ヶ嶺攻防戦
10月5日                 第三次駒ヶ嶺攻防戦
10月6日                   会津戦争 母成峠の戦い (仙台藩兵100名参戦)
          大鳥圭介 板垣退助 旧幕府軍800 新政府軍7,000       
10月25日               旗巻峠の戦い
10月30日               旗巻峠の戦い敗退 仙台藩 降伏
         相馬中村城にて降伏謝罪書
                       仙台藩額兵隊の星恂太郎250人の兵員とともに
         出航する榎本艦隊に参加、後の箱館戦争
(Wikipediaより)




駒ヶ嶺城は臥牛城と呼ばれている
福島県相馬郡新地町にある
相馬の中村城は近い

戦国時代から江戸時代にかけて伊達領と相馬領の境界にある
1589年から伊達政宗が占拠し城代を置いた




付近まで行ってみたが取り付きが判らない
近くの地元の方に伺ってやっと取り付き口が判った









鬱蒼とした森の中を進んで駒ヶ嶺城の本丸跡に着いた





桜の花が咲いていた




臥牛城と呼ばれるのは遠くから見て、城山の形が牛が伏せているいるように見えるためです



















駒ヶ嶺城近辺で仙台藩と官軍で激しい戦闘があった
 

1868年(慶応4年/明治元年)
9月22日   黒木の戦い
9月26日   第一次駒ヶ嶺攻防戦
10月1日  第二次駒ヶ嶺攻防戦
10月5日  第三次駒ヶ嶺攻防戦

最新装備と兵士の練度、統制力の差で仙台藩は敗退


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
駒ヶ嶺城から旗巻峠に向かう途中
IHI相馬工場があった
航空機器の工場だ
ちょうど昼休みの時間だった
工場の周囲を従業員が散歩やジョギングをしていた
若い人や管理職らしい年輩の方までいろんな人がリラックスしていた

小生も横浜工場にいたころ昼休みは工場内の道路や空き地でテニスをした
ジョギングや散歩もした
昔を思い出す

現在は株価も上昇し高値を付けた
ドジャースの日本での試合で長時間のテレビのコマーシャルを出していた
一般向けの製品ではないので珍しいことだ
企業イメージアップのためだと思うが好況なのだろう
トランプ関税で先行き不安があるが耐えてほしい 




旗巻峠




旗巻峠


1868年(慶応4年/明治元年)
10月30日     旗巻峠の戦い敗退 仙台藩 降伏
      相馬中村城にて降伏謝罪書







旗巻峠を越えた宮城県丸森町
伊達政宗 初陣の地があった

伊達政宗15歳 天正9年(1581年)5月上旬、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で現宮城県伊具郡丸森町に出陣、初陣を飾る。

伊達政宗 天正12年(1584年)10月12日父伊達輝宗から家督を相続、18歳で伊達家の当主となる。天正13年(1585年) 大内定綱、天正13年(1885年)蘆名・佐竹・岩城・石川・白河連合軍、天正17年(1589年)蘆名氏を破り、広大な領地を得た。伊達政宗23歳のころだ。やはり才能があった。



仙台 瑞宝殿の横にある忠魂碑

仙台藩は戊辰戦争で1,260名が殉職した





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お水取りから仙台榴岡の桜

2025-03-29 | 仙台・東北


東大寺二月堂 奈良


東大寺二月堂で修二会本行 
今年2025年は3月1日~3月14日に開催された
 
二月堂にて行中の3月12日深夜(13日の深夜1時半頃)に「お水取り」「お松明」がおこなわれ、お水取りが過ぎると本格的に春が来ると言われています。













東大寺大仏殿が見える








お松明の火の勢いは強く、油を使うのかと思っていたが檜葉など天然素材によるものだそうだ







若草山


2025年 令和7年

啓蟄 3月5日
お水取り 3月12日
春分 3月20日

日時が経過し、春本番がやって来ます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仙台の球春も始まります






榴岡公園 仙台


榴岡公園は仙台の桜の名所
桜まつりもうすぐ4月1日から始まります















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薩摩 ご近所の人物群像

2025-03-18 | 歴史散歩



鹿児島 桜島





城山から桜島を望む



鹿児島市 加治屋町付近

幕末から明治にかけて名を成した人物群がこの付近に集中して誕生している



似たような町内会?は山口県の萩にもあった
松下村塾はスーパー町内会塾 



鹿児島市 加治屋町付近は鹿児島中央駅に近い



鹿児島市加治屋町付近


何だこれは!
明治の偉人という人々はここに集合して誕生した

もちろん薩摩藩の経済力
島図斉彬の先見の明
島津久光のフォローがあったこと
これが背景で維新が進んだ

ほんの偶然や幸運から薩摩、長州が明治の実権を握った

転機は西南戦争
明治維新の後の西南戦争
薩摩の人々が政府方と薩摩の地元に分かれて凄惨な戦いがあった
お恥ずかしい話だがその時、偉人たちはどんな立場だったか、ボクの頭の中が少し混乱していたので整理してみた

薩摩藩加治屋町出身の下級武士群に加えて
同時代の鶴丸城付近出身の小松帯刀と篤姫









西郷隆盛 誕生地





西郷隆盛 誕生地






大久保利通 誕生地

西南戦争では膨大な数の薩摩士族が亡くなっている
政府軍に対する反感は大きかった
西郷隆盛の人気は高いが、政府軍の首脳だった大久保利通には冷淡だった

大久保利通の銅像が建ったのはそんなに古くはない
生誕地の碑も新しい
だが西郷隆盛とともに戦った大久保利通の明治政府の根幹を築いた功績は大きい





大山巌 誕生地





東郷平八郎 誕生地





東郷平八郎 誕生地




東郷平八郎 誕生地




















桜島 中腹にて








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桜田門外の変

2025-03-02 | 歴史散歩




桜田門外の変

幕府大老井伊直弼の暗殺事件
安政7年3月3日(1860年3月24日)
江戸城外桜田門外で発生

大老井伊直弼は安政の大獄で尊皇攘夷派を大粛正していた

水戸藩脱藩浪士や神官など17名と薩摩藩脱藩1名の尊皇攘夷派計18名が襲撃した

時はひな祭りの登城日
新暦では3月下旬なので季節外れの雪が降っていた
天璋院篤姫は城内にいた

その後、水戸浪士たち首謀者と襲撃者計20名は討死1名、死去3名、自刃5名、斬首8名、逃亡潜伏の後自刃および死去3名


王政復古:明治維新は慶応3年12月9日(1868年1月3日)なので
桜田門外の変は維新の8年前の事件
この事件を契機に内政も大きく変化している


江戸幕府が開かれて以来、江戸東京も大きな災害や戦災があった

1603年 江戸幕府
江戸の大火 計49件
  1657年 明暦の大火
  1772年 明和の大火
  1806年 文化の大火
1707年 富士山宝永の大噴火
1853年 ペリー来航
1855年 安政地震火事
1860年 桜田門外の変
1868年 明治維新
1923年 関東大震災
1945年 米軍による東京大空襲

江戸東京は大きな災害・戦災など数多くの大被害を受けたが、その度に立ち上がって復興して繁栄を築いてきたので感慨深い








桜田門と言えば警視庁




桜田門から警視庁を見る

桜田門外の変の現場は警視庁の右側の桜田濠沿いの路上



















桜田門外の変の現場付近





桜田門外の変の現場付近













桜田濠の現場付近




桜田門

地下鉄桜田門駅は有楽町線の駅だ

ボクの勤務先が豊洲だったときは、自宅から田園都市線半蔵門線を永田町で乗り換え有楽町線で通った
永田町の次駅は桜田門

当時は桜田門の地下を数え切れないほど地下鉄で通過した
その頃は桜田門といえば警視庁、桜田門外の変といえば教科書に載っていたという薄い記憶がある程度でそれほど関心が無かった

桜田門駅から目的を持って地上に出て付近を散策したのは初めての経験に近い



余談だが昔のこと、有楽町線が豊洲まで延伸されていなっかった
豊洲へは新橋駅で降りて都バスに乗って行った
不便で仕方が無かった
新橋駅の近くには勤め人相手のうな丼屋があった
安くてそこそこ良かったのでよく店に入った
あのうな丼屋はまだあるのかな

有楽町線が豊洲や新木場まで繋がって格段に便利になった
豊洲は工場や造船所からオフィスやショッピング街になった







日比谷公園の梅




日比谷公園テニスコート




愛宕神社





愛宕神社の石段





当初、水戸浪士たち18名は愛宕神社に集結した
ここから桜田門まで行った 約2km 徒歩30分


8年後、1868年3月13日と14日 
西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城の会談は愛宕神社にて行われた






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中津・日田・閑谷・水戸・足利

2025-02-24 | 歴史散歩


福澤諭吉旧居・記念館 
大分県中津市

福沢諭吉といえば「学問のすすめ」と慶応義塾の創設者








福澤諭吉旧居・記念館 










中津城は黒田官兵衛の晩年の居城だった






柳川水郷
柳川市は詩人北原白秋の故郷

柳川は福岡県
よそ者にとって福岡県は玄界灘日本海側のイメージしかない
有明海に注ぐ筑後川や柳川は福岡県

同じく筑後川上流に大分県日田市がある
日田市には咸宜園(かんぎえん)がある



現在、教育遺産として注目されている4か所
咸宜園(かんぎえん)・日田
閑谷(しずたに)学校・備前市閑谷
弘道館・水戸
足利学校・足利

それぞれ時代背景は違うが建築物が整備され、日本の教育の歴史を実感できる





日田市教育遺産群
(水戸・弘道館資料)


日田(大分県)は九州北部の交通の要衝にあり交易で繁栄したそうだ
日田地方は江戸時代に幕府直轄の天領だった

咸宜園/日田市 
咸宜園(かんぎえん)・日田は江戸時代末期に設立された塾・学校であり、大村益次郎はこの塾の出身






閑谷(しずたに)学校・岡山県備前市閑谷
(水戸・弘道館資料より)

特別史跡 旧閑谷学校(日本遺産) 




大鳥圭介の像
兵庫県上郡町

兵庫県上郡と岡山県備前市閑谷は隣接して近い
大鳥圭介は少年期に閑谷学校で学んだ

大鳥圭介は幕末に幕府の歩兵奉行を務め、函館戦争まで官軍を相手にして最後まで戦った
敗戦後、官軍黒田清隆らに一命を救われ、何年かの投獄の後、榎本武揚らとともに明治政府に仕え、要職を歴任し、日本の近代化に大きく貢献した

大鳥圭介は戦に於いては冷静沈着、撤退戦や勝ち戦では誇示せず従者を讃え、負け戦に於いては一切の責任を負う、リーダーとしての資質を養った
これは、本人の資質や経歴にもよるが、年少期に閑谷学校で学んだことは大きかった


閑谷学校は江戸時代初期に岡山藩池田氏により設立された
岡山には武家の子弟を教育する岡山学校と、民間のリーダーを育てる閑谷学校が設立された


上郡町の偉人 大鳥圭介 「真摯の人」/上郡町ホームページ 

学問のすすめと志 - 東西圧縮回流記 

大鳥圭介と研究者 猪尾守之さんと中川由香さん - 東西圧縮回流記 






岡山城








水戸・弘道館




水戸・弘道館

弘道館 















足利学校

史跡足利学校 | 足利市 公式ホームページ 





足利学校





足利学校
(水戸・弘道館資料)




足利学校に入学したが、その後はご無沙汰しています







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