東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

父の進駐軍勤務

2014-05-30 | 淡路・神戸・明石・京都

 昭和20年8月15日、日本は無条件降伏を受け入れ終戦を迎えた。
 軍隊から郷里にもどり、終戦の昭和20年の暮れ、父は母と結婚し、昭和22年に私が生まれた。

 父は再び生船(なません)に乗った。終戦後、食糧事情が非常に悪かった。百姓も食料を手放すことに渋く、女の人は一張羅の着物を持ち込み、泣く泣く米や芋と交換してもらったらしい。
 ただ、祖父と父は戦後も生船で運んでいた魚があったため、百姓の家へ行って米と交換してもらったそうだ。祖父も父もお前には、つまり私のことだが、ひもじい思いをさせたことはないと言っていた。

 その後、戦争が終わって少し世の中が落ち着いたころ、私の妹が生まれ、その後に弟が生まれた昭和28年ごろ、父は何か思うところがあったのだろう、陸(おか)に上がり、神戸に駐留していた米軍、つまり進駐軍に勤務を始めた。米国兵に食事を調理して提供するコックとして勤務した。

 進駐軍に勤務する従業員一同、日本人が主体となって、神戸の須磨浦公園で運動会があり、家族もみんな参加した。私が7歳のころだった。その時に父親たちが作り、みんなに振舞われたアイスクリームがとてもこの世のものとは思われないほど美味しくて、口の中でとろけて夢中でむさぼり食べた。今でいえばハーゲンダッツのようなサーティワンのような本物のアイスクリームだ。そのころは氷のアイスキャンデーや人工甘味サッカリンのアイスしかなかった時代だ。

 この時、褐色の飲み物も一緒に提供された。一口飲んだが薬臭くて刺激があって泡が噴き出て、いったん口に入れたものの吐き出すわけにもいかず、思い余って飲み込んでしまったが、食道から胃まで、その液体は暴れながら訳も分からず落ちていった。何とも不思議な飲み物だった。

これがボクのコカコーラの、アメリカの初体験だった。

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あの子の命はひこうき雲

2014-05-27 | Weblog
何もおそれない そして舞い上がる

        by ユーミン
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津軽三味線

2014-05-22 | Weblog

 津軽三味線を目の前で見た。

 あの激しさはバチで弦を弾くと同時に一撃で胴をたたいているのだ。また3本の弦は太さが違い、指で抑える位置によって波長が異なる。指の押さえ方はバイオリンに似ていて、指の微妙で大胆な振動によってビブラートの効果も加わる。

 津軽三味線はバチで胴をたたくリズム楽器というか打楽器、それに弦の響きの弦楽器を組み合わせたものだ。
打楽器と弦楽器を一人で2つの楽器を演奏しているようなものだ。

 そんな細かいことはだんだん忘れて、演奏に引き込まれた。演奏は素晴らしかった。

 津軽三大民謡は「津軽じょんから節」「津軽よされ節」「津軽小原節」

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父と戦争

2014-05-10 | 淡路・神戸・明石・京都

支那事変から太平洋戦争へと長い間、日本は戦争の時代が続いた。実際に戦争に行った人は父を含めて自分の体験の多くを語りたがらない。生きるか死ぬかの戦争に行くと、自分が生き残ったことが奇蹟なのだ。 

父は二十歳の新兵検査に合格した後、現在の中国に一兵卒として出征した。年代は1940年、昭和15年ころだった。上海近郊の蘇州あたりにいたようだ。蘇州という地名が出ると遠くに視線を置いて、しみじみと懐かしそうな表情を垣間見ることができた。

その後、中国に3年間ほどいたようだが、胸を患い肺結核になり、内地へ送還された。2年間ほど内地療養で病状が回復した後、1945年昭和20年5月ごろに再招集され、大阪の堺の連隊に配属され、次の局面に備えていたが昭和20年8月に終戦を迎えたそうだ。

 写真は10年前に中国の蘇州に旅行したときの蘇州の運河と寒山寺だ。父も一緒に行く予定だったが、高齢で体調を崩したことと母が難色を示したため参加しなかった。




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父と生船(なません)

2014-05-01 | 淡路・神戸・明石・京都

 今年3月に一族郎党で四国を旅行した。金比羅さん(こんぴらさん)に行った。金刀比羅宮(ことひらぐう)のことだ。金比羅さんは船乗りにとって特別な意味がある。金比羅さんには船主の多額の寄贈があり、船主と船乗りの祈りが込められている。「板子一枚下は地獄」船は木造船、板一枚で地獄と繋がっている。だから身の安全と生き残ることを祈るのだ。港には家族が待っている。今回の旅行で金比羅さんに行って、神社の天井を見上げていると親父のこと、昔のことが鮮明に蘇ってきた。

 子供のころ、たぶん私が小学生のころだった。父が家に戻ってきて言った。「金比羅さんに参ってきた。」

 父は兵庫県の淡路島の富島(としま)という町に生まれた。現在は兵庫県淡路市富島になっている。生まれは大正8年 1919年の生まれだ。幼いころ父の母親が他界した。父は地元の富島尋常小学校、富島高等小学校を卒業した後、16歳の時から船に乗った。父の父親、すなわち私の祖父も生船(なません)の船乗りだったので、父も当然ながら船乗りになった。

 生船(なません)とは瀬戸内海ではよく知られているように、船腹自体が生簀(いけす)になっている鮮魚運搬船のことで、船腹の栓を抜くと、金網を通して船外と船内の生簀との間で海水が自由に往来できる構造になっており、魚を生きたまま自由に泳がせながら運搬することができる。生きた魚を運ぶと鮮度が高く、大阪の料亭などでは珍重され、非常に高い価格で取引できたという。

 生船で生きたまま運ぶ魚の種類はタイ、ブリ、フグ、ハモなどの高級魚が主であり、九州の五島列島、天草、対州(対馬)、戦前は朝鮮からも遠路はるばる瀬戸内海を通って神戸や大阪まで運んだ。

 
 母親が言った。「多少は意気地のある男なら、皆んな生船に乗った。」

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