東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

田淵行男 蝶の細密画

2019-02-28 | バイク・山歩き



1月下旬に信州長野近郊の千曲市にある長野歴史館で開催されていた田淵行男展に行き、そのあと松本近郊の安曇野市豊科南穂高の田淵行男記念館を訪ねた。

ボクが山歩きをしていて少し熱を入れていたのは20代から10年くらいで、その後は犬の散歩程度の山歩きしかしていないため、山岳界の事情には詳しくなかった。「山と渓谷」や「岳人」などの雑誌を見ていたのは20代だった。そのころの雑誌を通じて田淵行男さんの名前を知った。田淵行男さんは1905年生まれ1989年に亡くなった方で山岳写真家として有名であり、安曇野に住んでおられたことをおぼろげながら記憶していた。

 その写真展があるという話を聞き、今さらながら写真に興味を示すというのも遅いのだが、田淵さんの作品はボクの記憶の奥底に張り付いていたので冬の信州も風情があるだろうといそいそと出かけた。あらためて見ると信州の自然や常念、槍穂高、浅間などの作品群に圧倒された。それと同時に重い機材を背負って山に登り、一瞬の造形を切り取って写真に残すという作業に圧倒される。現在はデジタルカメラで何枚も撮り直しがきくが、当時は大型カメラと重い写真乾板を持参して1枚に一瞬を切り写すのだ。晩年には北海道の山と高山蝶に魅せられて作品を残している。

 特筆すべきは田淵行男さんの高山蝶の生態を追って観察していたことに加えてその細密画だ。千曲市と安曇野では原画を間近に見ることができた。これを水彩画で描くのだ。凄い観察力と描写に驚きを覚えた。

 さて、安曇野は京都時代の大学研究室の先輩の出身地だ。Ⅿ先生にはとことん突き詰めそれを起点に幅広い展開にもっていく考え方、リベラルアーツの基本を伝授されたがボクはどこまでできたのだろうかな、そういえば競馬の魅力とスポーツ紙競馬欄の読み方も教わり、ボクが淀の競馬場近くにほんの少しの間だけ下宿していたことなどもあり、Ⅿ先生のことを思い出しながら冬の安曇野を帰りも歩いて大糸線柏矢駅に向かいました。



 

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金町浄水場 PFI事業

2019-02-21 | Weblog





 金町浄水場は日量150万トンの水道水を浄化できる都内屈指の浄水場だ。利根川水系の下流の江戸川沿いにあり都民に水道水、いわゆる上水を供給している。先日は矢切の渡し舟に乗ってみたいと思い柴又に行った。矢切の渡しは葛飾柴又の帝釈天はすぐ近くの江戸川にあり、驚いたことに金町浄水場がすぐ近くあったことだ。当時は横浜大手町豊洲の職場が中心だったので、柴又は北のはずれの遠くにあるぐらいの認識しかなかったので、金町浄水場、柴又帝釈天、矢切の渡しが3点セットで一か所に集まっていたことは新鮮な印象だった。
 
 小生が企業に勤務していたころ、全社プロジェクトの同僚である営業のK部長の本業のひとつが金町浄水場の担当で、航空機転用のガスタービンを用いて発電と排熱を利用して最大の熱効率を得るコージェネレーションを民間の資金を活用して行うPFI(Private Finance Initiative)を立ち上げていた。総合熱効率アップは今で言う温暖化ガス削減そのもののモデル事業だ。金町浄水場でのプロジェクトを実施していた同時期には、彼からPFIやESCO(Energy Saving Company)事業のことを何度もよく聞かされ今になって思えば大変勉強になった。金町浄水場や富山市のライトレールのPFIは、これからの事業の形態として当時は注目されていて、彼らは世の中の先端にいたことになる。

 さて音楽同好会、略して言えばカラオケの集いがあった。小生のレパートリーは都はるみ大阪しぐれ、それに加えて久保田早紀の異邦人と、もちろん細川たかしの矢切の渡し。
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瀬戸内少年野球団 阿久悠

2019-02-18 | 淡路・神戸・明石・京都

1979年文藝春秋社、1983年文春文庫、刊。一度は読みたいと思いながら、今更ながらやっと読了した。
阿久悠は時代の寵児だった。

阿久悠、昭和12年生まれ。作詞家、レコード大賞5回。1971年また逢う日まで尾崎紀世彦、1976年北の宿から都はるみ、1977年勝手にしやがれ沢田研二、1978年UFOピンクレディー、1980年雨の慕情八代亜紀。

瀬戸内少年野球団は阿久悠の作品ながら、ボクの少年時代そのものだ。阿久悠とは世代の差があるが、戦後の少年の生死をかけた遊びとめちゃくちゃな生活、話し言葉、遊びから野球へと進むことによってまともな人間になっていく過程、みんなボクの少年時代を思い出させる。





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淡路島から小豆島へ

2019-02-03 | 淡路・神戸・明石・京都

 小豆島に上陸するのは今回の旅行で生まれて初めてのことだ。姫路港からフェリーに乗り、家島諸島を左舷に見て正面に小豆島が見えてきた。小豆島を見ると遥か昔に仲間と一緒にボートを漕いで小豆島に向かったことを思い出した。

 多分あれは中学1年の夏休みのことだ。ボクは中学まで淡路島北部の富島(現在の淡路市富島)にいた。ある日、数人の遊び仲間と海岸でボートが漂着しているのを見つけた。公園の池でカップルが乗るような平底のボートだ。海に入れても底から海水がどんどん侵入して沈没してしまう。そこで修理して乗ってみようということになった。みんなで手分けしてハンマー、ノミやマイナスドライバーなどのありあわせの工具と、ボート底の穴や隙間に詰めて海水の侵入を防ぐため、シュロの繊維とパテを持ち寄って、暑い夏の海岸でみんなで何日かかけて修理し、かろうじて水密を保った。しかしボートは古くて捨ててあったしろものなので、修理してもボートの浸水は完全には止まらず、ほんの少しじわじわと底から海水が染み込んできたが、これ以上の修理はできないのでそれで完成とした。

 そこで数人が乗り込んで淡路島北部の砂浜の海岸から沖に漕ぎ出した。ボートのオールがなかったので、平な板を櫂(かい)にしてボートを漕いだ。多分、漕ぎ手は左右に2人ずつに分かれて、ペーロン競漕のように前から後ろへと力を入れてかき込むように漕ぎながら進むのだ。メンバーは私設野球チームのキャプテンほか中学2年の上級生が主で、中学1年はボクとタカタくんの2人だったと思う。下級生のボクは役に立つ漕ぎ手だったと思う。瀬戸内の海は鏡のようで波もなく、この世の天国のような気分だった。せっかく沖に出たので、家島や小豆島を目指そうという話になったことを覚えている。そしてどんどん沖の小豆島方面を目指して漕ぎ出した。
 
 その後、何時間ぐらいたったのだろう。ボートを漕いでも漕いでも目標の小豆島は全然近づかない。ただ、岸からどんどん離れていく。岸からは何kmかは離れたが、ご承知のように瀬戸内海の潮流は非常に早く、干満に応じて方角や速度は目まぐるしく変化する。ボートの底から浸水する海水のことをアカというが、ボートの内側にアカがたまってきて、ヒシャクでいくら汲み出してもどんどん海水が船内に入ってくるようになった。たぶん防水が効かなくなってきたのだろう。潮の流れは速く目指す西方向ではなく南西に流されるようになった。岸側の地形も見覚えがない。たぶん室津の沖ぐらいまで流されたのだろう。食料や水はほとんど積んでいなかったし、ボートは潮流に流されるし、ボートのアカをヒシャクで必死にくみ出す。その後はずいぶん長い間アカを必死で汲みだして、一生懸命にボートを漕いだ。あとはどうやって出発地へたどり着いたか覚えていないほど疲労困憊して帰り着いた。

 さて、淡路島北部の富島から小豆島までは50kmほどの距離がある。とても手漕ぎのおんぼろボートで行ける距離ではない。50年以上経過してその小豆島にやっと上陸できた。




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