柳田国男 1875年(明治8年) - 1962年(昭和37年)
兵庫県神崎郡福崎町生まれ、12歳で茨城県利根町に移り、16歳で東京に移った。東京帝大卒、農商務省に入る。
「遠野物語」1910年(明治43年)350部自費出版 35歳ごろ
日露戦争日本海海戦は1905年(明治38年)5月27日なので「遠野物語」の出版はその5年後になる。
柳田国男は東北の出身かと思っていた。先日、小生が松江から大阪に向かう中国高速道路の兵庫県内で神崎の道標があった。柳田国男はここで生まれたのだと感慨深かった。小生と同県出身であることを知らなかった。
早池峰神社
岩手県花巻市大迫町内川目1-1
先日の5月初旬、早池峰山登らざるの記(登山断念)の後は早池峰山の南麓にある早池峰神社に参拝した。その後、時間があったので「遠野物語」で有名な遠野市に向かった。遠野は通過した経験が何度かあったが、じっくり見学したことがなかった。
鍋倉城趾
遠野市街の南方
まずは地勢を把握するため鍋倉城の城山に登る。遠野は遠野南部家の所領で12,500石 。早池峰山の南麓から遠野までは山また山で花巻、一関、釜石、大槌などからも遠く離れており、山の中を車でひたすら走る。遠野市街が見えるとこの盆地が広大に見えて、何処にこんなに広い平地があったのかと思うくらいだった。さすがに平地がなければ12,000石の領地は維持できない。
鍋倉城本丸跡
鍋倉城趾より遠野市街を望む
佐々木鏡石(本名:佐々木喜善)
「遠野物語」は柳田国男が佐々木喜善から聞き取った物語をまとめたもので、取材源のほとんどが佐々木喜善自身から得ている。
南部曲り家
遠野の河童伝説
キュウリで河童釣り
柳田国男
著作「遠野物語」1910(明治43)35歳ごろ
「海上の道」1952(昭和27)77歳ごろ
「遠野物語」は民俗学の魁けと言われ、「海上の道」は晩年の新たな展開と言われる。上記2冊を読む。この間、約42年。柳田国男を理解するには膨大過ぎる。小生にはもう時間がない。せめて始めと終わりぐらいは垣間見ることをお許し願いたい。
波照間島 日本最南端 - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp)
1月の波照間島南岸のベムチ浜で、小生は椰子の実が一個漂着していたのを見つけた。とっさに砂浜で島崎藤村の「椰子の実」を思い出した。ヤラセのようで、少し出来過ぎだなとほくそ笑んだ。
柳田国男は「海上の道」の中で愛知県渥美半島の伊良湖岬の砂浜で、椰子の実を偶然に見つけ、遠く黒潮に乗って来た日本民族の祖先に思いを馳せた。その話を聞いた友人の島崎藤村が詩を創ったと記した。柳田国男は明治の時代に「海上の道」を通って日本人の祖先が渡来し、稲作をもたらしたのではないかと思いを巡らした。
小生との発想の何たる違いか!
このコロナ禍の間、バイク免許取得から始まるツーリングと穗高の山歩きを主体に、北海道から沖縄までの地勢を見聞し、ほとんど人に接しない孤独の中に楽しみを見つけ、遠野で柳田国男に遭遇したことが、小生の旅に僅かながらもレーザービームのような一筋の光軸が見えた気がする。その意味でも今回は来るな、遠野に行けと足を向けさせた早池峰山は霊峰に違いない。
一冊の本は百万歩に勝る
また逆も真なり
「椰子の実」
島崎藤村 作詩 田中寅二 作曲
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月
旧の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕
孤身の 浮寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂
海の日の 沈むを見れば
激り落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん