東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

大塚国際美術館

2024-09-05 | 旅・趣味・自転車ほか


徳島県鳴門市にある大塚国際美術館
淡路島は対岸にある
一度は見に行くことを薦められた
見終わるまで丸1日かかった
結局は徳島2泊




















すべて原寸大で陶板に焼き付け
大きな絵画や壁画は畳1枚ぐらいに分割して焼き付け
それを1枚ずつ組み合わせて作る
陶芸技術が基本
原画より長持ちする
何千年かは鮮明に保存できるとのこと
日本のセラミック技術、万歳!

油絵の絵の具を塗り重ねた立体感は少ないが
見た目は原画と同じ
原画に極めて近い状態と大きさで見える
原画を英仏独蘭、スペイン、ポルトガルなどで見たものがある
現在までの西洋美術を一か所で堪能できる
こんな幸せなことは無いだろう


スポンサーは大塚製薬グループ
ボンカレー、オロナミンC、ポカリスエットなど
学芸員に伺ったところ大塚グループの売上の7割は医薬品とのこと


大塚国際美術館
建設主は大塚グループ
美術館の設計は坂倉翔吾建築事務所
施工は竹中工務店
監修は東京芸大のほか一流の専門家多数
特許ほか複製に当たっては原画保有者の許諾を得ている
フラッシュ撮影は禁止
写真OKとのこと


スマホで備忘録





























































































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徳川家康ルート2

2024-06-11 | 旅・趣味・自転車ほか

徳川家康ルート2
前回からの続き
浜松城から関ヶ原まで




三方原古戦場跡

1573年(元亀4年)現在の静岡県浜松市中央区三方原町

織田信長徳川家康の連合軍が武田信玄と戦い、徳川家康が敗北して浜松城に逃げ帰った
この敗走を生涯の戒めとして、その後の合戦に臨んだという






三方原古戦場碑



三方原から長篠設楽原に向かう途中に井伊家発祥地の菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ  臨済宗妙心寺派)があった

静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷


龍潭寺



龍潭寺

井伊直政は徳川四天王の1人で井伊家24代
徳川家康の家来として奮戦し、井伊直政は武田の赤備えを配下にした


子孫に井伊家36代彦根藩の井伊直弼がいる
幕末の安政の大獄の中心となった



長篠設楽原の戦い

1575年(天正3年)織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000が戦った。
織田軍の鉄砲三段撃ちが有名

 





長篠設楽原の戦い
織田は3万人 徳川は8000人







岡崎城
徳川家康はここで誕生した





岡崎城から徳川家発祥の地、豊田市松平郷までは約20km、車で30分ほど



松平東照宮

愛知県豊田市松平町赤原





松平家系図



徳川家康の祖先は時宗の僧 徳阿弥で関東から流れてきて入り婿となった
徳阿弥が上州の新田氏の系統にある

これで群馬県太田市の世良田東照宮の新田氏と愛知県豊田市松平町の松平東照宮がやっと繋がった









大高城趾

大高城趾

1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの直前、今川義元の配下にあった若き日の徳川家康が「兵糧入れ」を行った

同年直後、弱小の織田信長が大軍の今川義元を桶狭間で急襲して討ち取り、天下の趨勢が大きく変わった

27歳織田信長4000人、今川義元2万5千人

大高城と桶狭間の距離は5.5km、車で約15分



大高城趾





桶狭間の織田信長



1560年 桶狭間の戦い




小牧山城趾

現在の小牧市役所の前にある


1584年(天正12年) 小牧長久手の戦い
織田信長の次男織田信雄と組んだ徳川家康が豊臣秀吉と戦い、家康が遊撃戦を仕掛け勝利した
その後、織田信雄が秀吉と和睦したため、結局、徳川家康は秀吉の配下となった

その後1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い、1614年(慶長19年)大坂冬の陣、1615年(元和元年) 大阪夏の陣へとつながる










徳川家康 関ヶ原最終陣地

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い

徳川家康と石田三成の陣


関ヶ原 笹尾山 石田三成の陣






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徳川家康ルート1

2024-06-09 | 旅・趣味・自転車ほか


今は昔、ディスカバージャパンという旅行キャンペーンがありました。

それにあやかった訳でもありませんが、コロナ禍のあとは海外に行く気にはなれず、国内巡りも面白いと感じるようになりました。題して「日本発見」の旅とでもしましょうか。

前回は神武天皇の東征ルートをバイクでたどりました。
日本発見 神武天皇の東征ルート - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp)

今回の「日本発見2」Discover Japan 2 は「徳川家康ルート」です。日光東照宮と江戸城跡(皇居)は何度か行っているので今回の旅では割愛しています。

実はウチのカミさんが大河ドラマを好んでおりまして(このセリフはどこかで聞きましたね)、徳川家康ルートはそのリクエストの一つです。北海道をソロでバイクで旅行していると、熟年夫婦というかリタイアした相当なお年のご夫婦が大型バイクをタンデム(二人乗り)で旅行しているのをよく見かけます。お二人タンデムでのバイク旅行とは楽しげでうらやましく、絵になって麗しいものですが、いつも後ろに乗ってダンナさまの腰に手を回して餅のようにくっついている奥様の勇気と根性に畏敬の念を禁じ得ません。

自分のこととなりますと本人は免許を取って3年ほどの若輩者で、さすがにカミさんとのバイク二人乗りで900km近くを走るのはご遠慮申し上げたく、アチラさんも決して望んではいないでしょう。ということで今回は通常の屋根付き四輪車(自家用車ともいう)でいそいそと出かけました。もちろん走るだけなら全行程ノンストップで13時間ですが、この歳で走り屋や暴走族ではありませんので、見学する史跡が多く、途中の要所要所で宿泊しました。



群馬県太田市
世良田東照宮



群馬県太田市は鎌倉時代は新田氏の所領だった
新田氏では鎌倉時代末期の新田義貞が有名

徳川家康の先祖は新田氏の系統にあたえる









群馬県から圏央道を経由して厚木へ、東名高速で静岡へ

まずは静岡の久能山東照宮へ

歩かずに行けると思うと大間違い
1,000段の階段を上る
ロープウエーは久能山頂上まで車で行って、そこから久能山中腹の東照宮へ往復するという込み入った方法が必要

下から登ったので1,000段の階段を息を切らせ30分の登高。山ならば何と言うことはないが、階段の予定は無かったので疲れは倍増。往復の下降はヒザにこたえる。


久能山東照宮

















久能山東照宮

久能山東照宮
徳川家康公御廟


久能山から静岡市内の駿府城跡へは近い


家康は幼少期に人質となって今川義元の居城である駿府城に暮らしたことがある。天下統一後、江戸城は2代将軍徳川秀忠の居城となった。晩年の家康は駿府城に居住した。


静岡 駿府城跡

駿府城公園内の徳川家康像



駿府城趾から浜松城趾へ
織田信長方についた徳川家康は働き盛りの壮年期は浜松城に居住した

浜松城趾



浜松城の石垣


徳川家康を支えた三河武士団


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宮古島地下ダム

2024-04-18 | 旅・趣味・自転車ほか

宮古島 福里地下ダム



ダムカード
宮古島 福里地下ダム



ダムカード
宮古島 福里地下ダム
地下に深さ27m 幅1,790mのダムが設置されている
貯水量1,050万m3 20万トンタンカー52隻分の水を貯める

地下ダムは水を通さない島尻泥炭層の上に隙間の多い琉球石灰岩層があり、そこに地下水を貯めるためのコンクリートの堰をつくる

宮古島の特殊な地下構造がこのダムを生み出した

ダムの造り方は3本のオーガ(穴掘りドリル)で掘削しながらコンクリートを流し込んで連続して固めるという芸術的な手法に感銘を受けた



地下ダム資料館



地下ダムの一部分を展示



FP(ファームポンド)という貯水槽
高台に設置されている
島内に何カ所かある
地下ダムから汲み上げた水をタンクに貯蔵する
サイフォン方式でスプリンクラーで農地に散水する



ファームポンドから見た農地
農地の下が貯水ダム


宮古・地下ダムの先駆者たち ~地下ダムが完成するまで~


宮古島・地下ダムの先駆者たち ~宮古に地下ダムができるまで~ | 一般社団法人九州地方計画協会 (k-keikaku.or.jp)


宮古島の地下ダムの仕組み  




宮古第二発電所 55MW
ガスタービン重油LNG併用


宮古発電所 15MW
重油ガスタービン


宮古島市浄化センター

人が生活するには何と言っても、給水、電気、下水処理のインフラが基本




部屋を短期レンタル


窓の外にはMSCのクルーズ船が停泊していた
那覇を起点に沖縄諸島から台湾まで短期クルーズするようだ



東平安名崎(ひがしへんなざき) の灯台
原付バイクをレンタルして島内逍遥
一周約100km




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いま何どき?

2024-02-11 | 旅・趣味・自転車ほか
末廣亭 新宿


末廣亭 新宿



末廣亭 新宿


無性に落語が聞きたくなった
新宿の末廣亭へ
古典落語もあった
「時そば」も出てきた
今何どきでい?
へい、九つでい
・・・

ボクもそばは好きだ
ざるかかき揚げそばが多いかな
時にはから揚げそば
邪道かも



東京には寄席が多くある
寄席巡りもいいものだ



池袋演芸場



池袋演芸場



浅草演芸ホール


浅草演芸ホール




鈴本演芸場 上野




鈴本演芸場 上野


ふるさとの
訛りなつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴ききにゆく
石川啄木『一握の砂』

啄木は一時上京していた
東北のふるさとなまりを聞きたくて上野駅へ行った

するとボクは江戸っ子弁を聞きたくて寄席に行ったのか
逆啄木かな
30年は横浜東京
ルーツは関西なのだが



なんばグランド花月 大阪難波



なんばグランド花月 大阪難波


残念ながら時間が無くて入らなかった
桂文珍が出ていた

驚いたことに西川きよしが単独で出演していた
黄金コンビやすしきよしの時代から何年になるのかな?
もういい年だよな
舞台に出るのが生きがいなのだ

千日前の裏通りにうどん屋が多くある
かけうどんは200円代
無性にきつねうどんが食べたくなった



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憧れの只見線

2023-09-14 | 旅・趣味・自転車ほか

会津若松駅

只見線
昨年は11年ぶりに全線復旧した
おめでとうございます

一度は乗ってみたいと思っていた
今回は案内役
バイクと異なりシャッターチャンスは少ない
一瞬のうちに通過する
弁当果物おやつ食料一式持ち込み

会津若松13:05発 小出17:47着
悠久の時間
紅葉や雪の頃もいいでしょうね







会津川口駅

30分の停車
駅前でアイスとリンゴを購入




冬は雪が多いでしょう





只見駅周辺の観光地



只見線の上下列車



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関野吉晴 探検家

2023-08-10 | 旅・趣味・自転車ほか


人類の移動




2023.8.9 読売新聞
「時代の証言者」 グレートジャーニー関野吉晴


小生は不肖未熟ながら関野さんのことを良く知らなかった
経歴を見ると小生と同時代人のようだ
年齢も近い
その実績を見ると凄くて絶句してしまう


関野吉晴氏
一橋大学入学後、探検部を創部した
アマゾンの最奥部落で生活した
探検を続けるには医者になるのが良いと決心する
一橋を7年かけて卒業し横浜市大の医学部に入る
探検は続けた
外科医になり病院勤務した
病院を退職し1993年から10年間探検を続ける
2002年から武蔵野美術大学教授(文化人類学・人類史)


関野吉晴 - Wikipedia 


ボクは今まで何をやって来たのだろう
穴があったら入りたい
人それぞれ違うが、日本一周や世界一周は在り来たりです
もちろん価値観は違う
人には移動欲求がある
評者によると日本人で探検家と呼ばれるのは関野吉晴さんただ一人だそうだ


人類ホモサピエンスの移動
原人は東アフリカ付近が起源で時間をかけて移動していった
組織からはみ出した例えば次男三男は辺境へ追いやられる
人の移動欲求がある

ホモサピエンス
東アフリカ 20万年前から10万年前に進化
インド大陸へ移動 6万年前 
日本 4万年前 
ベーリング海峡を渡る 1万5000年前 
南米南部 1万年前

関野さんは1993年から約10年かけてその逆コースをたどった
南米最南端からスタートしタンザニアを目指す
探検の要素を加えて計画し実行している
スポンサーはフジテレビのようだ
スポンサーを探して資金調達するのも探検
もちろん計画は斬新
実行力があること
資金調達の才覚が無ければ話は進まない



#1 グレートジャーニー人類の遙かなる旅路を遡る「グレートジャーニーをもう一度 〜南米縦断」編〜

  


関野吉晴さんのグレートジャーニー
1993年から10年をかけて実施している
YouTube 全60話
未だ全部拝見していない
凄い!



・・・・・・・・・・・・
ここで関係なく余談ですが、仙台七夕祭は8日に終了しました
客足はコロナ禍以前に戻ってきたようです
暦の上では立秋が過ぎました
秋が駆け足でやってきます


仙台七夕祭

インターネットコミック快活クラブ
一番丁にもありました
旅行中に突然の宿泊場所がない場合
野宿ができないこともあるでしょう
一応は会員になりました
未だ、宿泊したことはありませんが・・・






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具志堅用高が先端を開いた

2023-06-22 | 旅・趣味・自転車ほか

具志堅用高記念館
この記念館は石垣島にある

テレビの特集によると、具志堅一族は古くは琉球政府の役人を務め、もともと沖縄本島の本部町が本拠地で、現在は200家族、1500人の親族がいるそうだ。ただ大東亜戦争では一族の4分の1の人が亡くなった。

具志堅用高の父が戦後に石垣島に移住し、具志堅用高は石垣島で育った。



明和の大津波 1771年(明和8年)

石垣島は約250年前に大きな災害に遭遇している。
八重山地震による遡上高30メートルを超す大津波が襲来した。
この津波により17,269人の住民のうち49%の8,437人が亡くなった。
半数しか生き残らなかったという荒ましい災害だった。



明和の大津波 1771年4月24日(明和8年)の犠牲者


石垣島を含む八重山諸島は大東亜戦争でも大きな被害を受けた。この地域では米軍の直接の上陸はなかったが、旧日本軍の現地指揮官が住民を強制移住させた。その先が当時マラリアが多発していた西表島や石垣島北部だった。全人口31,701人のうち11.5%の3,647人がマラリアで亡くなった。



戦時中の強制避難
八重山平和祈念館 



戦時中の八重山地域のマラリア犠牲者



八重山群島のマラリア患者数の時系列データ

1945年米軍占領後、対マラリア薬の投与により死亡者は激減した。その後は国連のWHOによるウィラープランの実施で1962年にマラリアは撲滅された。

.

WHOのウィラー博士

八重山諸島のマラリア撲滅に、国連は大きな役割を果たした。今回のコロナ禍への対応とは違う。

因みに「これから西表島のジャングルに入るのですがマラリアは大丈夫ですか?」と伺ったところ、「マラリアは長年にわたり発生していません」との返答あり。ボクは少しだけ安心してその後、西表島に向かった。



戦後の沖縄復帰(1972年5.15 昭和47年) に大濱先生たちの努力が大きな役割を果たしたことは以前に述べた。
石垣島の大濱信泉先生

石垣島出身の具志堅用高がWBA世界ライトフライ級チャンピオンになったのは、1972年の沖縄復帰の4年後の1976年(昭和51年)。特に沖縄の喜びは想像に絶する。日本中が祝福した。1981年まで5年間チャンピオンを守り通して君臨した。具志堅用高が沖縄の未来を切り開いたと言ってもよい。

ボクの記憶をたどれば1972沖縄復帰の後、具志堅用高、BEGIN、安室奈美恵、SPEEDなどが続いた。

1968 野球甲子園 興南ベスト4
1972 沖縄復帰
1976 具志堅用高
1990 BEGIN
1992 安室奈美恵
1996 SPEED
1999 沖縄尚学 優勝


具志堅用高の伝説



具志堅用高記念館



具志堅用高の銅像
石垣港離島ターミナル 

この地の「ポーク玉子おにぎり」は行動食に適す







沖縄の呼称






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鹿狼山と航空宇宙

2023-06-10 | 旅・趣味・自転車ほか


鹿狼山登山口
鹿と狼の石像がある


鹿の門番



狼の像

鹿狼山(かろうさん)は福島県浜通りの相馬郡新地町と宮城県丸森町の県境にある。
鹿狼山の標高は430m、見晴らしがいいと伺っていたのでバイクで登山口まで行き少し歩いてみた。登りが約40分の手軽なハイキングコースだ。


鹿狼山頂上 

この地域には縄文遺跡もあり古の時代から開けていたそうだ。鹿狼伝説も昔から言い伝えられてきた。

太平洋と相馬の新地発電所が見える。
新地発電所は東北電力とJERA(東京電力と中部電力)の折半出資による相馬共同火力発電株式会社が運営している。

発電設備 総出力:200万kW 
1号機:100万kW 営業運転1994年7月
2号機:100万kW 営業運転1995年7月
石炭、木質バイオマスを燃料とし超臨界圧、熱効率は41.89%


鹿狼山から相馬市街方面

鹿狼山からIHI相馬工場が見える。東京の田無市から移転してきた。航空機エンジン用の工場だ。相馬工場は1998年設立、田無工場は2008年に閉鎖した。先輩のMさんが副工場長をしていたことがある。

帰りは鹿狼山西側の宮城県丸森町を通り角田市経由で仙台に帰った。
角田市にはH2ロケットの実寸大モニュメントがある。

H2ロケットのモニュメントというと財団法人エンジニアリング振興協会(エン振協)のTさんを思い出す。エン振協は日本の重工業、電気、土木建設などが出資して設立した協会で、次世代のエンジニアリングの新しい方向を探る団体です。ボクは月1回の新エネルギーに関する調査研究の勉強会に参加していた。関連する企業から部課長級の人が参加していた。ボクはそこでバイオマスの利活用について学んだ。当時、Tさんは某重工業からエンジニアリング振興協会に出向しており、我々の勉強会の事務局を担当していた。

Tさんが営業担当で東北支社の仙台勤務だった時に、自分が担当して角田にH2ロケットのモニュメントを設置したと伺っていたことを思い出した。

宮城県角田市にはわが国の航空宇宙技術研究所(NAL)と宇宙開発事業団(NASDA)の事業所があったが、現在は宇宙航空研究開発機構 (JAXA)として統合されている。「はやぶさ」で有名な東大の宇宙科学研究所もJAXAに統合された。 

かつて相馬工場が立ち上がったころにボクが同工場を見学した後、NAL角田のN先輩を訪問したことがある。ある程度時間が経過した後に、ボクが仙台に赴任した後、一緒に研究開発に参加させて頂くとは夢にも思わなかった。


H2ロケット実物大モニュメント

隣にタワーが設置されエレベーターで同じ高さに登る

宇宙飛行士 野口さんと山崎さん

野口さんはボクと同じ企業の出身だが面識はない。山崎さんは旧姓角野さん、NASDAに入社してすぐの宇宙飛行士になる前にもと弊社に見学に来られ、面談したことがある。お二方とも東大航空学科卒の秀才です。


H3ロケットは2段目が着火しなかった。
失敗を乗り越えて頑張れ!



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柳田国男

2023-05-23 | 旅・趣味・自転車ほか

柳田国男 1875年(明治8年) - 1962年(昭和37年) 
兵庫県神崎郡福崎町生まれ、12歳で茨城県利根町に移り、16歳で東京に移った。東京帝大卒、農商務省に入る。

「遠野物語」1910年(明治43年)350部自費出版 35歳ごろ
日露戦争日本海海戦は1905年(明治38年)5月27日なので「遠野物語」の出版はその5年後になる。

柳田国男は東北の出身かと思っていた。先日、小生が松江から大阪に向かう中国高速道路の兵庫県内で神崎の道標があった。柳田国男はここで生まれたのだと感慨深かった。小生と同県出身であることを知らなかった。



早池峰神社 
 岩手県花巻市大迫町内川目1-1

先日の5月初旬、早池峰山登らざるの記(登山断念)の後は早池峰山の南麓にある早池峰神社に参拝した。その後、時間があったので「遠野物語」で有名な遠野市に向かった。遠野は通過した経験が何度かあったが、じっくり見学したことがなかった。



鍋倉城趾
遠野市街の南方

まずは地勢を把握するため鍋倉城の城山に登る。遠野は遠野南部家の所領で12,500石 。早池峰山の南麓から遠野までは山また山で花巻、一関、釜石、大槌などからも遠く離れており、山の中を車でひたすら走る。遠野市街が見えるとこの盆地が広大に見えて、何処にこんなに広い平地があったのかと思うくらいだった。さすがに平地がなければ12,000石の領地は維持できない。


鍋倉城本丸跡


鍋倉城趾より遠野市街を望む



佐々木鏡石(本名:佐々木喜善)
「遠野物語」は柳田国男が佐々木喜善から聞き取った物語をまとめたもので、取材源のほとんどが佐々木喜善自身から得ている。



南部曲り家


遠野の河童伝説


キュウリで河童釣り


柳田国男
著作「遠野物語」1910(明治43)35歳ごろ
「海上の道」1952(昭和27)77歳ごろ

「遠野物語」は民俗学の魁けと言われ、「海上の道」は晩年の新たな展開と言われる。上記2冊を読む。この間、約42年。柳田国男を理解するには膨大過ぎる。小生にはもう時間がない。せめて始めと終わりぐらいは垣間見ることをお許し願いたい。




波照間島 日本最南端 - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp)

1月の波照間島南岸のベムチ浜で、小生は椰子の実が一個漂着していたのを見つけた。とっさに砂浜で島崎藤村の「椰子の実」を思い出した。ヤラセのようで、少し出来過ぎだなとほくそ笑んだ。

柳田国男は「海上の道」の中で愛知県渥美半島の伊良湖岬の砂浜で、椰子の実を偶然に見つけ、遠く黒潮に乗って来た日本民族の祖先に思いを馳せた。その話を聞いた友人の島崎藤村が詩を創ったと記した。柳田国男は明治の時代に「海上の道」を通って日本人の祖先が渡来し、稲作をもたらしたのではないかと思いを巡らした。

小生との発想の何たる違いか!

このコロナ禍の間、バイク免許取得から始まるツーリングと穗高の山歩きを主体に、北海道から沖縄までの地勢を見聞し、ほとんど人に接しない孤独の中に楽しみを見つけ、遠野で柳田国男に遭遇したことが、小生の旅に僅かながらもレーザービームのような一筋の光軸が見えた気がする。その意味でも今回は来るな、遠野に行けと足を向けさせた早池峰山は霊峰に違いない。

一冊の本は百万歩に勝る
また逆も真なり


「椰子の実」
島崎藤村 作詩  田中寅二 作曲
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月
旧の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる 
われもまた 渚を枕
孤身の 浮寝の旅ぞ 
実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂 
海の日の 沈むを見れば
激り落つ 異郷の涙 
思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん





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