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読書録11~「ちょい」でいいのだ

2025年03月21日 | 読書
 ある意味、非常に対照的な二冊の文庫本が、先週の御伴だった。一つは短編小説集、もう一つは対談本。どちらも名の知れた方々であるが、前者は小説家、そして後者の二人は探検家兼作家だ。テーマは比べる必要はないが、いわば、ありそうな話ととても踏み込めない世界の話だ。何一つ共通しないと振り返ったが。




 「ちょいな人々」はもう十数年前の発刊。著者が得意?とする会社や家庭、ご近所を舞台に些細な「事件」の顛末が描かれる。携帯やメールがモチーフになっている作品には古さを感じつつ、結局機器に翻弄される姿は現在もあまり変わらないかもしれない。人間の心の機微を扱う小説に必要なのは、見通す眼なのか。

 表題作の終末にふっと書かれた一節。「しょせん、ちょい。『超』も『すご』も『めちゃ』も望めないから『ちょい』か」。表現としての「ちょい」は廃れているかもしれないが、この微妙な匙加減は今の自分にも当てはまるかなと思う。やはり、気力・体力の限界が見えているからか。しかし、どれも比較表現でもあるな。


 「地図のない場所で眠りたい」…題名の意図がわかるだけにあまりにも遠い世界。それゆえ魅力十分の一冊だった。早稲田大学探検部の先輩後輩同士、サークルの話題は特異だが、何故か自分のその頃も思い出させた。おこがましくも訳の分からないエネルギーだけは少し似ていると感じた。行動性ははるかに異なる。


 挑んだ「現地」の話題より、第六章「探検ノンフィクションとは何か」が圧倒的に興味深かった。メディア分析で角幡の「結局、じわじわ進行するようなことは取り上げられない」という視点は、この国の現状を把握するには見過ごせない。私たちは劇的なことばかり求めすぎている。もう少し「ちょい」でもいい。


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