すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

たった一つの習慣でよい

2021年03月19日 | 読書
 著者の新書は既に2冊読んでいる。本書はそのなかの『脳が冴える15の習慣』の続編として発刊されたと、あとがきに記されていた。「冴える」つまり「鍛える・高める」から本書「守る」への流れ。これは当然、加齢に伴う自然な考え方だ。自分の行動もそのようにシフトしていると感じるし、それが選書に現れたか。


『脳を守る、たった1つの習慣』(築山節  NHK出版新書)


 「たった1つの習慣」…この響き、横着者にはそそられる。そして結論である「たった一つ」は、親切にもまえがきで紹介されている。脳神経外科医として長年勤め、患者の治療後の状態を調査して、次の気づきを得たと記している。ずっと元気で暮らせる方々は「書いて記録をする習慣を持っていた」ということだ。


 具体的なノート例も挙げている。「1日1ページ、毎日15項目のノートを書いてください」と提案し、それだけで脳の機能が維持できるというのである。なあんだ簡単!と思いすぐに取りかかり、ずっと続けられるだけの行動力・持続力があるならば心配いらない。横着者は自ら課している1日5行さえままならない。


 忘れつつ抜かしつつ5年日記等を続けた者としては、アレンジして今のタイプの活用を図るのがベターだ。そう思いつつ本文を読むと「何を書くべきか」という点の重要性が目に入る。やはり脳科学者らしく、脳のメカニズムとして、脳幹・大脳辺縁系・大脳新皮質の働きと照応させるポイントが押さえられている。


 生命維持機能である脳幹は「守る」、感情を支配する大脳辺縁系は「しつける」、理性のハンドルといえる大脳新皮質は「育てる」、というフレーズもわかりやすい。ではそのために具体的に何を記せばいいのか。「脳と身体の健康情報」が内容だが、それを「書く」ことによって、無意識から意識に引き上げる作業なのだ。


 その15項目とは①日付②体重③血圧④睡眠⑤歩数⑥BMI⑦食事の記録⑧天気・気温⑨ToDoリスト⑩音読⑪運動⑫外出⑬コミュニケーション⑭外の世界のメモ⑮自分のためのメモ。これらは順に脳幹から辺縁系、新皮質に作用するという理論づけだ。5行にいくつ盛り込めるか。まずは確実に脳幹を守ることから…。

春眠覚めて深淵覗く

2021年03月18日 | 読書
 人の死は小説の大きなモチーフとなるが、昨日メモした本とはうって違う内容だ。
 朝の目覚めに、なんともつらい物語を読んだ。


『JR上野駅公園口』(柳 美里  河出書房新社)


 昨年「全米図書賞受賞」で注目を浴びた作品。この書名を見たときに思い出したのは、遠い昔に地元紙に載ったある投稿詩だった。新幹線がまだ停まらない時代の上野駅構内プラットホームで、耳に入ってきた「ナエデガ」という方言をテーマにした内容である。出稼ぎ者の心情の象徴だろう。共通する辛さを覚えた。


 どんな状況か知らないが、「ナエデガ」という声は明らかに地方出身者が発している。「なんと言ったのか」「なんという事だ」「一体何を言っているのだ」という複層的な意味を持つ。当時(いや現在もか)の上京者が、都会に抱く感覚として象徴的だ。結果、ほとんどの者は何も出来ず、あきらめや敗北感を胸に刻む。


 昭和八年福島生まれの男の目や耳がとらえた「昭和」そして「平成」が背景になり、前景になり、立ちはだかっている。一家と離れ、そして家族を亡くし、一人でホームレス生活をする主人公の「どんな仕事にだって慣れることはできたが、人生にだけは慣れることができなかった」という生き様は、あまりに哀しい。


 好きなタイプの作家ではないが、取材力の深さや主人公に同化していくような表現力には舌を巻いた。それにしても、この作品を訳したアメリカの翻訳家は、頻出している方言をどんなふうに表したのか。考えてみると翻訳小説とは、そうした課題をクリアしているのだ。なにか文学の深い淵をまた知らされた気になった。

「やどる」その人のいのち

2021年03月17日 | 読書
 ひと月前よりは少し寝やすくなった。半分寝ぼけも入っているが、早朝読書のメモである。

『さざなみのよる』(木皿 泉  河出書房新社)


 知り合いに薦められた一冊。何か既視感があった。ナスミという主人公のイメージが小泉今日子では…と浮かんだのでTVドラマか。調べてみたら、やはりあった。「富士ファミリー」…NHKで数年前に放送していたと思い出した。続編もあったようだが、そちらは見逃したかもしれない。ともあれ、やはり木皿泉だ。


 人の心の襞を描くのが上手い夫婦作家だ。この小説の読みやすさは出色で、話者を変えていく構成、展開は見事だ。泣かせどころも心得ていて、19年本屋大賞ノミネートは納得だな。テーマは「やどる」。形は多様だがその感覚を持てる生き方は幸せだろう。物的な交換可能性のみに心奪われていては、見えない世界だ。


 ナスミが働いて工面した5万円、それは単に借金の返済なのだが、そのお札を使ってバッグを手に入れたいと思った愛子。銀行からわざわざ別に5万円を下ろし兄に渡す。その愛子の行為は、ごく小さいけれど「やどる」の典型ではないか。心はそうやって「さざなみ」のように伝わる。ふと思い出すドラマがある。


 「富士ファミリー」ではなくあの人気ドラマ「北の宿から」。純が中学を卒業し、大型トラックに乗せてもらって上京するシーン。五郎が運転手に渡した二万円だ。泥の少しついた二万円を「俺は受け取れねえ」と言って順に渡す運転手。今は亡き古尾谷雅人、絶品の演技だった。その二万円が、話を展開させていった。


 さて、小説の最終第14話を読み終えてもう一度第1話に戻る。病の床に在って人は、こんなにもじたばたせず死を迎えられるものだろうか、と改めて思う。観念的だが、もしできるとすれば生き尽くした感がそうさせるのか。他者の心にやどる人とは、常にそういう存在だ。やどるのはその人の「いのち」に違いない。


青臭いとしてもやはり

2021年03月16日 | 絵本
 学校での読み聞かせ、今年度分を振り返ってみる。

 「コロナ禍」(この語もずいぶん一般的になったなあ、一年前は使っていなかった)により、若干遅れたものの5月19日にスタートしていた。
 この時の時間や準備は印象深く、ブログにも記してある。

 Spirit of St.Louisを噛み締める

 そこに記した「工夫と挑戦」はどの程度達成できたのだろうか。

 量的な点を最初に記すと、21回延べ54冊(重複があり実質38冊)ということになる。
 本県、本地区でも感染者がいたとはいえ、拡大するに至らなかったので、9割方実施できたこと、また校内では距離をとりながらマスクなしで語らせてもらったことは有難かった。


 さて、改めて「工夫と挑戦」という観点を考えてみた時、これは結局、他からの刺激が重要だったとつくづく思う。
 その点で、秋に主催した「読み聞かせワークショップ」で、隣県から講師をお招きして学んだことと、自ら県で開催した講座に参加し、得たことは非常に大きい。

 読み方、語り方についてある程度の素養はあったものの、「絵本」となるとそこには当然、それなりのテクニックが存在する。
 例えば、次のページをめくるタイミングだ。
 「めくってから読む」だけではない、という技一つでも大きな違いがあった。


 また、世の中に数多溢れる絵本のどれを取り上げるか。
 専門家によってねらいや対象者による分類なども作成されている。
 しかし、やはりアマチュアにとって必要なのは、自分自身がその絵本と「いい出逢い」ができるかどうか、だろう。
 つまり、絵本のよさを心から感じ取れるかどうかだ。


 年度後半、受講した経験を生かして、落語や講談の絵本を何度か取り上げた。
 自前で本も購入もした。
 それは、きっと「声」に対する興味の強さが残っているからだろう。純然たる「絵本」の良さと言い切れるかは、少し疑問も残る。
 ただ、「語り」の強調と考えると、この選択は間違っていなかったとは思う。
 通常より練習量も必要であり、自分に発破をかけないとなかなか厳しい結果になることも思い知らされた。

 その意味で、青臭いとしても挑戦が努力や工夫を導くといってもいいか。

 他から見れば些細な挑戦でも、意欲のあるうちはボケないだろう。

意識して意味ない時間をつくる

2021年03月14日 | 雑記帳
 養老師の「ぼーっと自然を見る」ことと、共通点のある内容を脳科学者の篠原氏も述べている。コロナ禍のストレスに対するアドバイスとして、「皆さんには、日常に”ぼんやり時間”をぜひ取り入れてほしいですね」と語っている。今まで毎日繰り返してきたバス待ちや通勤、退屈な会議等…にあったはずの時間である。


 そうした状態を脳科学用語では「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ぶそうで、実はこの時の脳が「読書するときの十数倍のエネルギーを消費していることがわかってきました」と続ける。このモードのときに「記憶とか、自我に関わる部分」が活性化しているデータがあり、その時間の貴重さを教えてくれる。


 かなり前にも似たような内容を何かで読んだ。そして、かつてあの古館伊知郎が、小学生の頃はいつもぼやーっとしている無口な子だったというエピソードも強烈に覚えている。それらを知った頃から、学校における子どもの見方も少し広がったことを思い出した。一日を「意味」で埋めすぎる傾向が、昨今強すぎる。


 それも明瞭で可視的な意味づけを欲しがる。効率性、時間の無駄チェックで縛りすぎる生活は、今求められているはずの新しい発想やひらめきにとってむしろ邪魔と考えた方がよい。ごく自然体でそんな日常を送れればいいが、慣らされた心身には困難だ。ここは「意識して意味ない時間をつくる」…これしかないか。

今さらの自戒ではあるが…

2021年03月13日 | 教育ノート
 昨日の続き
 通知表の所見について活字化を積極的には認めなかった。ただ前例としてあった場合、それを禁止する判断も出来ずじまいだった。職員向けの通信で繰り返し書いてきたのは「活字の文章は、直筆よりも不利ですよ」ということ。つまり、貴方が伝えようとする考えや思いが伝わりにくいはずですよと。それは何故か。


 一つは、活字によって読みやすくなっていることが内容の深い理解を妨げる場合がある。視覚的なストレスのないスピード感は、ある時表面だけをなぞっていく。もう一つは、書き手の表現が画一化する危険性が大きい。現在の機器が持つ予測変換機能に浸食されやすい。つまるところ、読み手が相手を想像しにくい。


 直筆は暖かみがある、味のある字を書くねえ…といった懐古的表現に込められていることの、一部はまったく正しい。つまり、その人でなければ書けない字が持つメリットはかなり大きい。内容はどうあれ、人が判断し自らの手で書きつけたことは、読む者にある意味の緊張感を強いながら、伝達の役割を高めるのだ。


 だから、活字化にあたって頼りになるのは内容のみ。それはとても厳しい条件と、文章を点検する側として若干の脅しめいたことも書いた。自戒を込めて今思う。こうしたアナログからデジタルへの移行が、学校全体を覆う画一化に拍車をかけ、人間関係の薄さを助長したことをもっと強調し、意味づけするべきだった。

デジタルと紙と生産性…

2021年03月12日 | 雑記帳
 一昨日書いた『遺言。』のメモに触発されたか、届いた冊子の記事が目に入った。「『デジタル』と『紙』で異なる脳の受け取り方」と見出しがついている。インタビューに答える形で、脳科学者篠原菊紀氏は、こう語っている。実験結果から、「『デジタル』より『紙』のほうが作業効率も生産性も高まるように思えます


 もちろん単純に受け止められない。5年以上前の実験であり被験者の「慣れ」が大きく作用する。特性の違いか経験値なのか、今後慎重に見極めなければならない。ただ、この齢になってしまうと次の一言は安らぐ。「書類をプリントアウトするかどうかでいえば『紙のほうがしっくりくる』人はプリントアウトすべき


 「紙とデジタルの違い」についてはよく語られてきたことだ。ここでも「デジタルが『視覚』情報なのに対し、紙は『五感』を統合する情報だということ」と言い切っている。さらに言えばプリントアウトしても、印刷活字か直筆かの違いは、人の受け止め方に大きな印象をもたらしている。そう、あの時代のことだ。


 学校からのお便り、そして通知表の所見欄記入に関しては、ずいぶん思い出すことが多い。学級通信が直筆からワープロ主体になったのは、平成に入った頃だった。そして通知表所見の問題が挙がったのは10年ほど前か。機器の導入が教員の負担を減らした利点は確かにあった。しかし失われたことに目を向けたか。 
  明日へ

10年前の週刊誌をめくる

2021年03月11日 | 雑記帳


 あの大震災の翌週に買った2冊の週刊誌だ。

 様々な雑誌に手を伸ばしていた時期があり、今はその処理(廃棄が多い)を毎年のように行っている。
 しかし、この雑誌は少し残しておこうと思った。
 時が経って、どんな思いで自分が眺められるか興味があった。

 今日、改めて開いてみる。


 
 当日から一週間目までの記事。
 それでも、これらの週刊誌は相変わらずの姿勢だなと正直思ってしまった。

 確かに、状況を乗り越えようとする提言や激励的な内容はあるのだが、やはり政府批判と危機感についての煽情的な記事が目立つ。
 それがこうした週刊誌のパターンと言ってしまえばそれまでだが…。

 唯一、あの時読んだ際も心に染み入った伊集院静の寄稿が救いだ。
 1ページ5段の体裁で、8ページにわたって震災当日から7日間の様子や思いを綴っている。
 仙台市内の自宅で地震に遭いながら「私は被災者ではない。」と言い切る目で、報道を見つめていた。


 もう一冊、ちょうど一ヶ月後に緊急増刊として出された雑誌も残っていた。



 「私たちは どう生きていけば いいのか」と題され、識者、専門家27人の提言が並んでいる。

 冒頭のページは、養老孟司そして内田樹
 どんな時にも、いかなる事態にも通用するコトバを差し出す二人を、改めて敬服したい。

「探すべきものは『答え』ではない。この震災から『問われているものは』は何かということだ」(養老)

「物語が教える教訓はまことにシンプルである。『金より命』『マニュアルより直感』」(内田)

できるだけ「同じ」に染まらない

2021年03月10日 | 読書
 何の著書か失念したが、養老先生の言葉で今も時々思い出し、実行することがある。「一日に何度か、自然のものをじっと見るといい」。15分くらいと時間が示されていたようだが、それに達しないまでも時々やってみる。その意味は?と問いたくなる意識を、ほんわりとした陽気で包んでくれるような一冊だった。


 2021.3.9 Ugo Tasiro

『遺言。』(養老孟司 新潮新書)


 第2章は「意味のないものにはどういう意味があるか」。それは「世界は意味に満ちているなんて誤解」をしないためと言っていい。このこと自体を文字を使い、しかもデジタル化している時点で、今自分が立っている場はわかる。それでもなお、意味あるものだけに限定して感覚を働かせることがないように心がけたい。


 第3章は「ヒトはなぜイコールを理解したか」。動物はイコールがわからない。チンパンジーが簡単な計算ができるにしても、我々が使う「=」の意識はそこにない。「ヒトの意識だけが『同じ』という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出した」…これは納得の見解である。「交換」ができる功罪は…。


 人は「同じにしたい」という意識を募らせてきて、それが今の世の中(著者は脳化社会と呼ぶ)を作ってきている。言葉に関する概念の上位、下位、具体と抽象の関係を論じたりするのは、やはり「同じ」を探す意識の現れだ。例えば、アナログとデジタル、生声と録音等の違いにもっと気を留め、感じることが大切だ。


 もちろん「同じ」という意識なしに生きていくことはできない。「身体は七年で物質的には完全に入れ替わる」という医学的事実の下でも、その体を自己と認識できるためだ。しかし、全て「同じにする」だけでは成り立たないと著者は結論付ける。人の「感覚」は個によってもともと違う。その原点を手放さないことだ。

春の新書乱れ読み

2021年03月09日 | 読書
 先月のいつだったか、ちょっとした合間に立ち寄ったBookOffで、新書コーナーへ行き目に付くタイトルをバラッバラッとカゴに入れた。帰ってみて袋から出して書棚に取りあえず置くと、なんと節操のない?品のない?方向性のない?選書だなと苦笑した。いつものごとく風呂読書用なので、リラックス優先か。


 『モリタクの低糖質ダイエット』(森永卓郎 SB新書)…経済に関する生活防衛のための著書は数冊読んだ。では、ダイエット記録はどうかと思ったが、やはりこの方の発想は経済的だ。つまり、デブはいかに不経済か。誰しもそう考えることを実証してみせたと言っていい。全ては「出し入れ」の問題。その選択だ。


 『驚きの地方再生「限界集落が超☆元気になった理由」』(蒲田正樹 扶桑社新書)…わが町を含め、全国にある「限界集落」を抱える自治体は、何かしらのヒントを得たい。自分の心にもそれがあり手にした。京都市綾部地区を中心に様々な実践例が読んでいては楽しい。特に「図書館」を超える発想は刺激を受けた。


 『妻のトリセツ』(黒川伊保子 講談社+α新書)…数多くは読んでいないが、著者の目の付け所に感心する。この著は主として子育て世代の夫に向けられている。しかし、日常生活を見つめるポイントの比喩の素晴らしさに舌を巻いた。例えば「名もなき家事」「自我の『リストラ』」「言葉の飴玉」、使ってみたくなる。


 『遺言。』(養老孟司 新潮新書)…これは他の三冊とは違って、ナナメ読みができなかった。正直じっくり読んでも半分もわからないのが、養老先生の文章だ。だが、とても大切なことを述べている。まして「遺言」である。そして「久しぶり」の書下ろしである。今までは「語り下ろし」らしい。何を書いているか。明日へ