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できるだけ「同じ」に染まらない

2021年03月10日 | 読書
 何の著書か失念したが、養老先生の言葉で今も時々思い出し、実行することがある。「一日に何度か、自然のものをじっと見るといい」。15分くらいと時間が示されていたようだが、それに達しないまでも時々やってみる。その意味は?と問いたくなる意識を、ほんわりとした陽気で包んでくれるような一冊だった。


 2021.3.9 Ugo Tasiro

『遺言。』(養老孟司 新潮新書)


 第2章は「意味のないものにはどういう意味があるか」。それは「世界は意味に満ちているなんて誤解」をしないためと言っていい。このこと自体を文字を使い、しかもデジタル化している時点で、今自分が立っている場はわかる。それでもなお、意味あるものだけに限定して感覚を働かせることがないように心がけたい。


 第3章は「ヒトはなぜイコールを理解したか」。動物はイコールがわからない。チンパンジーが簡単な計算ができるにしても、我々が使う「=」の意識はそこにない。「ヒトの意識だけが『同じ』という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出した」…これは納得の見解である。「交換」ができる功罪は…。


 人は「同じにしたい」という意識を募らせてきて、それが今の世の中(著者は脳化社会と呼ぶ)を作ってきている。言葉に関する概念の上位、下位、具体と抽象の関係を論じたりするのは、やはり「同じ」を探す意識の現れだ。例えば、アナログとデジタル、生声と録音等の違いにもっと気を留め、感じることが大切だ。


 もちろん「同じ」という意識なしに生きていくことはできない。「身体は七年で物質的には完全に入れ替わる」という医学的事実の下でも、その体を自己と認識できるためだ。しかし、全て「同じにする」だけでは成り立たないと著者は結論付ける。人の「感覚」は個によってもともと違う。その原点を手放さないことだ。