すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

この時を待って、読む

2021年02月14日 | 雑記帳
 正月明けに近隣で新型コロナ陽性者が出たこともあり、三学期開始してからの読み聞かせは中止になった日があった。そんなこともあり、2月の読み聞かせを少し心待ちにしていた。前にやってウケがよかった絵本や、ぜひとも紹介したいものがあったからだ。時間は15分弱だろうが、4冊用意していくことにした。


 対象は2年生。7月にお邪魔したときには少しヤンチャな雰囲気のする学年だったという印象がある。だからというわけではないが、いわゆるギャングエイジ突入の前と考えれば、今日持ち込む本3冊は、結構ワイワイになるだろうなと予想はできる。しかしそれだけではなく、しっとり聴いてもらいたい一冊もある。


 最初は「うし年だから…」と前置きをして、『うし』(内田麟太郎・詩 高畠純・絵)を出す。短く、言葉遊び的な要素もある詩だ。「うしがいた」という繰り返しと最後のオチが楽しい。予想通り、エーーーーッ、アア、ツギモといった声が出てきた、楽しそうに聴いてくれた。次は「絵じゃなく、写真だよ」と言って…


 『このかみなあに? トイレットペーパーのはなし』(谷内つねお)という、いわゆる写真絵本を出す。ペーパーの長さや特質を、横長の体裁を使ってうまく見せていく本だ。驚きの声もあがる。次は『カ、どこへいった?』(鈴木のりたけ)…これは先月、放課後教室で見せたときも実に盛り上がった一冊だ。蚊の止まっていく場所の展開が妄想的であり、これも見事なオチがある。大騒ぎになる。


 最後は…と『あかいてぶくろ』(いりやまさとし)を出す。昨年末の新刊だ。12月の街に片方だけ落とされてしまった赤い手袋が、もう一方の手袋を探すが見つからず…という話だ。前の余韻もあり最初は筋に反応する声が聞こえてきたが、そのうちに静まりかえって聴き入る姿が見える。ああこの瞬間、待っていたあ!


 ちょっとだけ小道具に使った、量販店で100円の手袋

森をめぐるキニナルキ

2021年02月13日 | 読書
 さすがに逃げ切れないのでは、と思っていた。
 国内より世界の声に圧されてというイメージは否めないが、この攻防が結果として何をもたらすのか、見守っていきたい。

 ここ一週間程度の騒動で、印象に残った声を残しておこう。


『気になったのは、昨日の発言の「わきまえている」です。国民も「わきまえろ」と言われているように感じるのでは。いまの政治スタイルにも重なります。議論もせずに「わきまえて行動して」と上から言われている印象があるのだと思います』
 山口香「日刊スポーツ」2月4日

 こうした圧力にさられている現状は、中央のこうした華やかな舞台でなくとも、そこら中にまだ依然として残っていることに思いをはせる。
 「わきまえる」…これは、他者に対する敬意にほかならないが、他者の何に対して行うことなのか。透けて見える心が本意だ。



 『「こんばんは、森進一です」というのは、定番になっている「ものまね」の演目です。そして、この「こんばんは、○○です」は、名前の部分を差し替えることによって、瞬間的なギャグになります。』
 糸井重里「今日のダーリン」2月5日

 ここ数日、ウケねらいで家の中でやっていた。「こんばんは、森〇〇です」。〇〇には、様々な名前を入れてみる。しかし、かの「森」のインパクトが強すぎるこの数日。「森~」という泣きの表情だけが、妙に映える。


『「これまでの功績」と「卑劣な言動」を天秤にかけてどうにかしようとするのが男性社会の特徴である。』

 武田砂鉄「ワダアキ考」2月10日

 森を援護する声、その発言を薄めようとする多くの識者?たちの発想を見事に言いきった。正直、自分の中にもそういう思考があることは否めない。
 これは考えてしまう。「晩節を汚すな」…毎年のように、この国では典型的な反面教師が、ごろごろと登場してくる。
 自戒せよ!

ただただ心のままに

2021年02月12日 | 雑記帳
 図書館ブログで、休日前に「雪国」の遊びなどに関する蔵書を紹介してみた。

 昭和30年代生まれとしては、たくさんの雪遊びを経験したつもりだが、今になってあの頃何を思ってやっていたのかなあと、つい考えてしまった。

 「雪玉割り」である。私の記憶では「雪玉ぶつけ」などと言っていたように思う。
 できるだけ堅い雪玉をつくり、それをぶつけ合う。
 ぶつけた時に割れない方が堅いわけだから、しごく単純である。



 堅くするためには、初めの小さい段階からきつく握り、それをさらに堅く作った雪面に転がすようにして膨らませていく。
 雪だるまをつくるのはただ単に大きくすることが求められるが、こちらはそれに堅さが要求されるわけである。

 小さい球の時に、口で吸って水分をとるということもやっていた。
 そうすればいくらかでも氷状に近づくと考えたのだろう。

 そして戦闘が開始され、ぶつけ、ぶつけられても最後まで割れない雪玉は、大事に取っておいたりした。
 ああ、それからその雪玉を外に置いておき、凍らせるという手も使ったはずだ。


 言ってみれば、メンコ遊び(この周辺では、パンパンぶち)の冬バージョンだろう。
 しかし、舞台(土俵のような場)を設定し、雪の吹きすさぶ中、きっとしめった手袋でよくやったなあと思う。

 雪をギュッギュツと握りしめる感覚が、今でも思い出せる。
 ヤッターと叫びながら、ぶつけあう顔、顔、顔…
 冷たくなった手足を、まきストーブに近づいて暖めるとき…

 いろんな風景がよみがえる。ただただ心のままに遊んでいた頃。

美しさを導く言葉

2021年02月11日 | 教育ノート
 『「ほぼほぼ」「いまいま」?!』(野口恵子 光文社新書)は、「クイズおかしな日本語」と副題があり、そうしたスタイルだった。「語彙・意味」「表記・文法」「敬語」の三章仕立て、最初の10問程度を全部正解できた(プチ自慢)ので、あとは読み流した形だ。「日本誤」という造語には納得したが、若干くどい気がした。

 ただ、あとがきの結びの一文が妙に心に引っかかった。

 「日本語に関して言えば、『正誤』はあっても『美醜』はないのではないかと、今は考え始めている。」

 言語が時代に連れて変化し、「誤用」が一般的になる例はよくある。従って日本語の「正しさ」といった場合の判断基準は、その時その時のものかもしれない。著者はそういう意味で「正誤」を使っている。では「美醜」はどうか。語そのものに宿る意味ではなく、それはやはり発する者、発する心の問題なのだと思う。


 なんとなくドイツ風。秋田ふるさと村だけど…

 先々週、以前勤めていた学校より「卒業文集」への寄稿依頼があった。何を書こうかと考え、その子たちが入学してきた時の式辞に入れた言葉を思い出し、次のような文章を送った。少し難しいかもしれないが、中学生間近であれば、少し背伸びしてもわかってほしい、年配者からの願いでもある。再記してみる。


***
 55名の皆さん、卒業おめでとう。
 皆さんは「日本の一番美しい言葉」とは何か、考えたことがありますか。

 坂村真民という詩人が、それは「はい」という返事だと書いています。

 実は六年前、入学式で私が最初に話したのはそのことでした。
 もちろん覚えている人はいないでしょうが、今そう聞いてどんなふうに思いますか。
 たった二音の言葉が一番美しいだなんて…。

 私はこんなふうに考えます。
「はい」とは、相手に応える言葉です。
「はい」とは、存在を知らせる言葉です。
 そして「はい」とは、自らを奮い立たせ、他者と心を響き合わせる言葉です。
 美しさは、人と人、人と何かをつなぐ時の思いの強さに導かれて現れます。

「はい」という言葉には、存分にその思いを込められるのです。
「はい」を響かせてこの校舎を巣立ち、「はい」の声とともに、新しい一歩を踏み出してください。
               
        多くの人が平穏を願う2021年春に
***

「イマイマ」苦しゅうないぞ

2021年02月09日 | 雑記帳
 あっ、使ってしまった…

 ふっとそんな思いが頭に浮かんだ。

 あることで問い合わせの電話があり、それに答えていた時のことだ。
 「いつ頃ですか」と訊かれたので、こう返答してしまったのだ。

 「ええ、イマイマです。

 相手は若い方だったようで「あっ、イマイマですね」と引き取ってくださった。

 「イマイマ」…確かに耳に入ってはいた言葉だが、我が口から発せられるとは…。
 こう思ったのは、この「イマイマ」が、きっと最近よく使われる「ほぼほぼ」と同類だろうと予測したからだろう。流行り言葉の類に違いないと…。


 ところが、この「いまいま」はきちんと辞典に載っている語だ。
 手元の電子辞でも「精選日本国語大辞典」と「広辞苑」に見出しがある
 たしかに例文は古語扱いだけれど、意味として「今。現在。たった今」を表している。

 ちなみに「ほぼほぼ」はない
 どちらも畳語と言えるだろうが、実際に成立?した歴史は違うというべきか。


 その電話の2日後に、古本屋へ出かけて風呂読書用に新書を漁っていたときに、書棚のなかに見つけてしまった。

 『「ほぼほぼ」「いまいま」?!』(野口恵子  光文社新書)

 これは扱いとして二語は同列という考えなのだろうか。
 本文をみると確かにそういうニュアンスで書かれているようだ。

 古文の授業で習った「今今」には「今か今か」「今後」といった意味があったと思うが、現代の俗語の「イマイマ」にはそれらの意味はない。ビジネスの世界で使われる新畳語ということなのだろう。

 強調表現としての畳語を認めないというわけではないようだが、改まった場での使用は控えたい「内輪の会話の言葉」という見解のようである。

 私が使用した例は、施設同士の公的な連絡とは言えるかもしれないが、さほど改まった場とも言い難いので、許される(誰が!)だろう。
 使った者としての心情は「たった今」、文章にすれば「ああそれは今、今でしたよ」と感じで、その流れとしての「イマイマ」である。
 つまりは、強調以外の何ものでもない。

 「ほぼほぼ」は、婉曲なのか強調なのか不明だし、個人的には「婉曲の強調によるボカシ効果あるいは責任回避的な言い回し」と解釈している。

 その点「イマイマ」は「今今」という由緒正しき語であり、使ってもよいのではないか。

 なお、その際に声色を、漫才師「すゑひろがりず」のように変えてみたらどうか。
 臨場感、あふれるぞ。

号泣が「節」になる人

2021年02月08日 | 読書
 副題が「25歳 女性起業家の号泣戦記」とある。こういう類の本は読んだ経験はないなあ(いや男性ならあったか)と思いつつ、諸事情により必要になったので購入、縁があるかと読み始めた。書名通りのエネルギーとバイタリティ、そして今の30代が持つ感覚に触れることが出来た。ただ明らかに少数派と思う。


『裸でも生きる』(山口絵里子 講談社)



 「学校の門をくぐれない子」から「逃げちゃいけない」「馬鹿呼ばわり」そして「柔道との出会い」という、小学校から高校にかけての記述を読むと、一途すぎるのではと正直思った。現状の学校制度の不備や問題点は同意できるにせよ、もう少し幅を持った考え方ができなかったのか。周囲も声をかけただろうにと想う。


 しかし、その後の人生も全くその繰り返しと言ってよい。つまり、自分がやりたいことを貫く。現実から目を背けず、正面から攻めていく。時々あまりの猛進さに目的を見失いそうになるが、その度に何のために志したか振り返り軌道修正していく。多くの人物が登場してはいるが、輪郭のくっきりさは本人のみ際立つ。


 起業して成功する者、それから冒険家などは、そういう精神の立て方ができることが条件ではないか。どんなふうに養われるのかに興味があるが、家庭や周囲の環境について突っ込んだ記述はなかった。生まれつきの資質ということは容易い。ただ「よそ見をしない」「集中力」だけは、どこかで鍛えられたのかと思う。


 わずか二十数年の人生に、いくつもの転機がある。驚異的な頑張りの陰にある、学生時代の鬱病克服やバングラデシュでの裏切り…その度に「号泣」することになる。それが一つの「」になっているのが特徴か。そうか、これは女性独特かもしれない。と、けして某会長のおっしゃる蔑視発言とは違います。念のため。

令和三年如月日記・壱

2021年02月06日 | 雑記帳
2月1日(月)
 先月13日からの休館措置が解除される。今日は通常休館だが、準備しておいた明日からの開館告知を図書館ブログにアップする。ほっと一息である。午前中は上の孫と一緒に五輪坂でそり遊び。先週と同じ完全な貸し切り(笑)状態。そりに飽きた子は、新雪の雪玉を見つけ「モグラ!」と叫んで潰し回る姿が楽しい。


 五輪坂スキー場へどうぞ


2月2日(火)
 節分が124年ぶりにこの日だという。その歳時と絡めネット活用案内をブログにアップした。シリーズ化している町広報回顧も順調に進んでいる。時々面白い記事が出てきて興味深い。帰宅後、夕食時に娘と孫と一緒に豆まき。意味もわからず豆を拾ってばかりいる様子に「鬼は外がなくて、福は内だけだな」と苦笑い。


2月3日(水)
夜間にあまり雪は降らなかったが、朝除雪した後ずいぶん降り出す。絵本ボランティアの方々が来館して少し話す。今後の学校読み聞かせは一部を除き予定通りらしく、選書を始める。新刊本で季節にふさわしい一冊が見つかった。夜、毎年届けてくださる知人から「立春朝絞り・天寿」を頂く。感謝、長生きできる。



2月4日(木)
 目覚めの早い朝読書で一冊読了。今朝は除雪車の置いていった量が多く、作業にも少し時間がかかる。勤務のない日だが、買い物ついでに少し図書館に顔を出す。その時の雪の降り方が半端でなく、恐る恐る運転した。午後は休養。夕刻にまた少し雪かきをする。今年初めての「桜餅」を食した。春が待ち遠しくなる。


2月5日(金)
 昨日よりさらに雪の量は多かった。12月、1月と違うのは雪の質。さらに細かくさらさらしている。作業は比較的楽だ。スキーならいいだろうが…。今日は午後早く退勤して、近代美術館に「大野源二郎写真展」を観に行く。なんといっても見知った学校の姿が懐かしい。自分ならこう撮るか…と生意気なことを想う。



なんなら、地に足をつけなくとも

2021年02月05日 | 読書
 ヨシタケシンスケの新作を読む。

『あつかったら ぬげばいい』(ヨシタケシンスケ  白泉社)

 15×15㎝のサイズで、『わたしのわごむはわたさない』の感じだろうか、読み聞かせするとすれば、TV画面で映したほうがいいかなと思いつつ、めくってみたら…

 これがこれが、なかなかの哲学?バージョンで、『もしものせかい』に少し似通った印象をうける。 


 題名のように「問い」と「行動」がセットになって見開きで進む。
 題名がスタートで、結びは「さむかったら きればいい」だ。

 その二つだけで結論付ければ「自然体のススメ」とでも言いたくなるが、そんな単純では、ヨシタケワールドとは言えないだろう。


 パターンを探る。

「ヘトヘトにつかれたら」
→「はもみがかずに そのままねむればいい」

 これは「休めばいい」の即断かつ具体形である。

「ふとっちゃったら」
→「なかまをみつければいい」

 通常「やせればいい」「食べるのをへらせばいい」と流れそうだが、ひねり方が入ってくる。
 つまり、結果寄り添い系、発想転換系とでも名付ければいいか。

 このパターンは結構見られる。

「なにもかも どうでも よくなったら」
⇒「コンビニで バカみたいに かいものすればいい」

と思うと、かなり提案的な、作戦として効果があがりそうな展開もある。

「だれも きずつけたくなかったら」
⇒「じょうずな うそをつけばいい」


「よのなかが みにくく おもえて きちゃったら」
⇒「ひかる がめんを みなきゃいい」


 一貫性や汎用性があるかと言えば、「どうでもいい、楽しいし」と答えてもいい絵本だ。

 


 一番、同感したのは、これかな。

「おとなでいるのに つかれたら」
⇒「あしのうらを じめんから はなせばいい」


 地に足をつけなくても生きていけるさ!と思うこと。
 違うか。

1/2ぐらいは読めたとして

2021年02月04日 | 読書
 一昨年に読んだ『月の満ち欠け』は、久しぶりに小説の読みごたえを感じた一冊だった。著者の作品を続けて…と思わぬでもなかったが、なんとなく失念した。先日、古い雑誌で佐藤正午特集が組まれていたのを目にし、では読んでみるかと3冊注文したが…傑作と言われる『鳩の撃退法』は上巻で挫折し、これに移った。


『永遠の1/2』(佐藤正午  小学館文庫)


 正直、これもどうにか読みきったという感じだ。以前、初めて著作を読んだ時に感じた「冗長さ」と付き合えるかどうか、今回もぎりぎりだった。多くの作家、批評家から称賛される「小説の名手」の話についていけない訳は自分の読み方にあるかもしれない。ただ、唯一同齢である時代感覚がつなぎ留めてくれたか



 デビュー作である。1983年に28歳になった主人公は著者と等身大の姿であろう。「自分と瓜二つの男がこの街にいる」ことによる、様々な出来事そして事件が話の筋を作りながら、独特ともいうべき問わず語りが展開される。友人、異性、家族関係、そして趣味の競輪、野球等々、時代が背負っている景色が鮮明だった。


 細かい点だが妙に懐かしく思えたのは、この当時スーパーなどの買い物では、いわゆるレジ袋ではなく四角い紙袋だったこと。ほんの些細な描写が心を揺らし、当時の風景が蘇ってくる感覚に浸った。買い物帰りの手はそれぞれ家のカゴから紙袋へ、そしてレジ袋、さらに今はエコバックへ。そんな姿が物語に思えた。


 この文庫版には著者自身による「あとがき」がある。著者は他の小説はいつでも「ほれぼれ」して読み返すが、このデビュー作品だけは例外らしい。文庫新版のため読み返し、「文章力」だけが見所だと書く。それを「粘り」や「根気」とも言い換えている。要は「タフさ」だ。私にはそのタフさがしんどく思えたのか。

一年後のクルーズとは…

2021年02月03日 | 雑記帳
 去年の今日のことである。
 厚生労働省の報道発表(2020.2.5付)によると…

 2月3日に横浜港に到着しているクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」については、海上において検疫を実施中ですが、これまで新型コロナウイルスに関する検査結果が判明した31名のうち、10人については、新型コロナウイルス検査の陽性が確認されたため、神奈川県内の医療機関へ搬送されました。


 そこから2ケ月余り、報道のなかで「クルーズ船」という言葉を聞かなかった日があったのだろうか。その時は、高齢者の一つの夢であった(笑)クルーズという響きが色褪せ、逆に危険を孕むようなイメージが刷り込まれたような気もする。いつかは…と田舎者が持っていた憧れがしぼんだのは残念だった。そこで…。


 と思いついたわけではないが、書棚整理で見つけた10年以上前のコミックで楽しむことにする。その題名は『クルーズ』。ビッグコミック連載だったという。矢島正雄原作は見つけると手に入れていた時期なので、たった2巻で終わっていたが、やはり矢島テイストを感じる。乗り物を舞台にすると、一層映えるようだ。



 将来を嘱望される名医が白い巨塔ではなく別の道を選択するというストーリーはありがちである。しかし、昔からずっと繰り返されていることを考えると医者の役割の何たるかを多くの人が求めている証でもあろう。舞台が洋上、船上である設定は、人生に重なる物語が繰り広げられ、ドクターはそれを見守る役目だ。


 全16話で医師が大きく関わる話は稀で、多様な登場人物たちを理解し、そっと手を差し伸べ、明日を促す役割が多い。それはクルーズにある特性が支えている。ゆったり流れる時間、ゆとりある空間、先々に見え迫りくる絶景…過去と未来にじっくり思いを馳せられる今がそこにはある。少し乗りたくなってきた。