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つまり、誰も味方はおりません

2021年02月21日 | 読書
 自分とちょうど30歳違うから我が子と同い年になるか。『だから日本はズレている』を読んだときに、ああ新世代(この言い方も古い)が登場したなあと感じた。考え方の多くに共感できるわけではないが、TVで見せるあのストレートなあっけらかんさが心に残る。それゆえこの本にも、問いかけられる命題がある。


『誰の味方でもありません』(古市憲寿 新潮新書)


 著者は、ネット上で「炎上」や「血祭り」の対象によく挙げられるようだ。そこまでの関心はないので詳しい事情は知らない。しかし、ここに書かれた物言いを見れば、今の世相では十分予想できる。そういう世の中であることを認識しつつ、「はじめに」に書いた著者の次のような姿勢を、どう評価できるかどうかだ。

「何でもタブーなく自由に言える。何か間違いがあったとしても、少しずつ修正していけばいい。それくらい鷹揚でいられる人を増やすことこそが、実はいい社会を作っていくコツなのではないかと思う。」



 どうだろう。今月世間を騒がした「わきまえる」という発言とは対照的に見える。しかし、かの一件を見ても「少しずつ修正」が許されないのはなぜか。発言に透けてみえる価値観への批判だ。同時にある場所ある範囲では全く逆になっている状況が存在していることも確か。鷹揚に不寛容な社会は見ていられない


 つまり「総論賛成、各論要注意」と言うべきか。タブーなく自由に言える社会に人々が持つイメージはあまりに多様で、それは無理じゃなかろうかと思う。例えば最終章「嫌な人と付き合うコツ」には、中学校担任の言葉として「他人は変えられない。自分は変えられる」を紹介し著者は「嘘だと思う」と断じている。


 「人は変わらない」は家訓の一つでもある。これは他人も自分も含まれるのでさらに含蓄(笑)があるが、それはさておき、著者の考えは「自分が『移動』してしまえば『他人』なんていくらでも変えることができるから」という理由である。それは発想を変える方法論だ。しかし裏を返せば、自分中心から脱け出してない。


 「で何か問題でも…」と言われそうだ。ここで人には「地理型」と「歴史型」のタイプが居るという論を用いれば、タイプ変更を強いていると言える。つまり「自分を変え」なければならないのである。俯瞰に俯瞰を重ねていけば、どこまでも浮かび上がる問題。結局、「誰も味方はおりません」の言い換えか。淋しい。