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特別な日の「鬼は外」

2021年02月02日 | 雑記帳
 2月2日の節分はぴんとこない。124年ぶりというから、誰しもそんな感覚は持つに違いない。学校に勤めてる頃、節分という行事はネタにしやすかった。やはり「季節を分ける」「明日は立春」という意味合いはが大きいし、何より「鬼」「福」という意義付けしやすい語もある。それは大人も同じだ。何想う夜になる。


 以前の節分の日のブログを見直していたら、こんな俳句を紹介していた。

 鬼は見え福は見えざる節分会(江川由紀子)

 今、多くの人はコロナ禍に重ねてこの句を読むだろう。もちろん経済的な面でいえば逆に需要が高まった仕事もあることは確かだが、誰もそれを「正常」とは思っていないはずだ。最近アナウンスは減ったが「新しい日常」というけれど、やはり人と人の直接的接触が避けられる事態は「異常」だと言い切りたい。



 さて、「鬼は見え」という上五をコロナ禍と考えれば、本当に見えているのかとも問いたい。状況としては明らかで、連日連夜何を見ても感染拡大の様子は視覚化されている。ところが、実際に見えないウィルスという点を思い出してみると、次のような文章に目が留まる。出典は『美人の日本語』(山下景子)である。

「『鬼』の語源は『隠』です。隠れていて見えないものを人は恐れ、『鬼』という怪物にしたてていったのでしょう。」


 まさにその通り。大流行のアニメでは鬼の正体がくっきりしているが、本当は「見えない」ものの方がずっと怖いことは、「感染」している病気そのものだけでなく、渦巻き連鎖するような閉鎖的排他的な感情を見てもわかるだろう。だから、私たちは「鬼は外」を具体的に引き寄せて考え、心を込めて口に出したい。

 上の文章も、次のように締めくくられる。

「『鬼は外』と叫びながら、敬遠している物をよく見えるところへ開放してやる。そうすれば、それが福になって返ってくるのかもしれません。」

露天で英語を呟いてみる

2021年02月01日 | 雑記帳
 週末に、とある温泉施設に行った。少し混んでいるのは想定内だが、子どもが居るとなると話が違う。兄弟か親戚同士だろうか、小学生の二人のはしゃぐ声がする。入っていた中年男性が少し叱ったら、大風呂からは姿を消す。「最近は親がいても、注意しないからねえ」。周囲の知り合いも、もやの中で同意したようだ。



 小雪が風に舞う天気だが、やはり露天風呂に入りたい。出入り口から三人ほど戻ってきたので行くことにした。直径4メートルほどの円形風呂に屋根があり、なかなかの風情ではないか…と思った瞬間、二人の男児が目に入る。まあ仕方ないかと足を入れる。ぬるめの適温。肩までつかると顔に風が吹き付け気持ちよし。


 小さい子の方はまだ興奮気味で、年長の子にたしなめられる。「水泳」は怒られそうなので、言葉のゲームで遊ぼうとしたのか、「よしっ、じゃあ今からしゃべる時に英語を使ったら駄目ということにしよう」と、今どきの子どもらしい思いつきだ。小さい方が「えっ、英語って…どうするの。例えばおでんとかはいいの?」


 「あのね、英語はたいていカタカナで書いている言葉だから…」と端的な説明をする。「例えば、車の名前とかはたいてい英語。食べ物ではケーキとかは駄目、花のマリーゴールドだったら、ゴールドは英語だから駄目」と少し微妙な例を出す。小さい方は「ンー」と言いながら聞く。「いい、じゃあやるよ。レディゴー!


 (おいおいっ、のっけから自分が使っているじゃないか)と苦笑しながら様子を伺う。クイズのように問いかけ返答を待ち判定を下しているが、当然厳密さには欠ける。そのうち小さい子は耐えきれず動き始め、私の腿に何度も足をぶつけるが、当の本人は気づかない。「ガッデム!」と久しぶりに英語で呟いてみた。