すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

絶望にまっすぐ目を向ける

2020年05月20日 | 雑記帳
 今年度が始まった時、図書館エントランスに「今月の言の葉」と題し、詩等の掲示をすることをこのブログにも書いた。毎月4編を選ぶ。一応のテーマは決めて、それに合うような(自分なりの解釈が強くなるが)短句、短文をピックアップする。4月は「新しいスタートのために」と、ごくありきたりな設定だった。


 しかしそれから半月後に、連休明けまで全面休館となった。掲示物どころではないのだが、自分に課したことをやり通す意義はある。少数でも目に留めてくれる利用者がいれば、1ミリほどの力にはなるかもしれない。さて、5月のテーマをどうしよう。通常の年なら、「緑あふれる季節へ」とでもしたいところだが。


 「今を生きぬくために」とストレートにぶつけてみよう。といっても変化のある構成をしなければならない。小さい子向けは、「春」という木島始の言葉遊びのような詩を選んだ。テーマのためには「楽しさ」も必要だと思ったからだ。後は、星野富弘、むのたけじ、樹木希林の著書から幾分趣の違うものを取り上げた。


 なかでも、むのたけじの書いた一節は、このテーマのど真ん中に投げる直球だ。

みんなが当事者になって動けば
ものすごいエネルギーが生まれる
ということですよ。
日本の現状はマイナス面がいっぱいある。
なぜこうなったかをみんなで考える。
絶望にまっすぐ目を向ける。
絶望から目をそらせるから
希望が見えてこないわけだ。

    (「希望は自分でつくるもの」より)


 今「絶望」という状態に陥っている人は少なくないだろう。コロナ感染に直接関わり、自分が手を出せない状況であれば、祈るしかないと言える。しかし経済的なことや派生する危機的状況にあるとき、解決の道が閉ざされたと考えてはいけない。「まっすぐ目を向ける」ことは、それしか目に入らない見方ではない。


 「まっすぐ目を向ける」を掘り下げてみると、まず、目標でなく目的を見ることだと思う。揺るがないそれが見えたら、周囲や要素に広げていく戦略を考える。内なる長所や価値を取り出し、突破口とするイメージが浮かぶ。行政を含めて地域社会、また今までの繋がりに救けを求める工夫も大事だ。道を見失うな。

Spirit of St.Louisを噛み締める

2020年05月19日 | 雑記帳
 えっ、なんで…

 先に書いた「今日は何の日」のコーナーに、5月21日「リンドバーグ翼の日」があったのを思い出したからだ。

 今年はねずみ年が干支であり、1月下旬に3年生相手に『リンドバーグ』を読んだ。
 20分ぎりぎりの量、字も細かい。本が重い(笑)。結構な悪条件だったし、難しい語句もあったが、集中して聴く様子が見られた。
 ただ、素晴らしい絵本だっただけに、まだやり切れていない感が残っている。

 もう一度挑戦してみてもよくないか。
 カレンダーが教える時期としてもぴったりだ。
 そして上学年であれば間違いなく理解できるだろう。
 それに、本が重いし、字が細かいので、やれる時にやっておくかという気持ちが強くなってくる。

 よしっ、もう一度下読みから始め、おさらいしてみよう。



 前回、本番でやや戸惑った箇所があったので、念入りに読みだけは繰り返した。


 そして、今日を迎え学校へ…

 小規模校ではあるが4,5,6年対象なので「密問題」をどうするのだろう…と行ってみたら、なんと体育館。なるほど。
 体育館半分ほどのスペースに、間隔をとって子どもたちが座っている。

 やむなし。

 残念ながら素晴らしい絵の魅力を伝えるのは困難だったので、声が勝負とは言えるのだが…。
 無声音の発音を意識した読みが最近のスタイルになりつつあるので、どれだけ届けられたかはきわめて不安だ

 自分の耳では及第点が与えられるが、「場」を支配するまでには及ばなかったろう。
 それは目の片隅に入る何人かの子どもの様子から見てとれた。

 絵本の読み聞かせにとっては、受難の時代か。

 「新しい生活様式」なるものが、教育、特に初等教育にとって不利な条件を突き付けていることは誰しも予想できるだろう。

 ただ待つだけでは駄目な気がする。


 Spirit of St.Louis 号と名づけられたリンドバーグ(本物の方だが、絵本の表紙にも使われている)の飛行機。
 その名の由来は不明だが、『リンドバーグ』の「精神」とは何かと考えたときに、
 「工夫、挑戦」は間違いないキーワードだろう。

 今年度の初めに、これを選んでよかった。

 小ネズミを見習え。

これならと選んだ2冊は…

2020年05月18日 | 雑記帳
 で、どうする。

新着本からでも選んでみるかと手に取ったのは…

 『ウォッシュバーンさんがいえからでない13のりゆう』
  (中川ひろたか・作  高畠那生・絵  文溪堂)




 今年1月の初刊。興味がわく題名だ。
 「題名読み」だけでは、何か辛いことでもあるのかな、家の中にとんでもない理由があるのかな…と予想するが、実は…

 「ウォッシュバーンさんは おうちから いっぽも そとに でません。なぜかって? ウォッシュバーンさんはいうのです。」
というイントロからスタートし、

 「だって そとに でたら ~~~~かも しれないじゃない

 と、続くパターンである。
 リズムとテンポのある繰り返しに添えられる、シンプルな絵が楽しい。
 そして結末は意外なことになる。

 これは良さそうだ。高学年ならこの流れのユーモアを感じるだろう。


 では、もう一つはタイプの違う本で攻めてみるかと、誰もいない絵本コーナーで漁ってみる。
 読み聞かせなのでやはり大判のものが良いし、できれば文字も大きいといいなあ(齢を感じるねえ)。

 『ヤクーバとライオン』
  (ティエリー・テデュー作  柳田邦男・訳  講談社)




 アフリカ奥地の小さな村を舞台としたお話。
 一人の少年の通過儀礼(ライオンと戦い勝利した者が戦士として認められる)の顛末を描く。

 あまり言葉は多くないが、感動的な結びとなる。

 これはいい。ふと見ると続編もあり、その後の少年とライオンの「戦い」を描くストーリーとなっている。

 前編が「勇気」、後編は「信頼」と題づけもされている。
 高学年にはふさわしいだろう。

 よし、これで行こうと練習に入った。

 ところが、移り気な性分がまた顔を出し始める。

 えっ、なんで。

とうことで、却下の2冊

2020年05月17日 | 雑記帳
 学校が再開し、読み聞かせの要望も入ったので、そのための選書に入った。
 初回はT小学校上学年の予定である。

 そう言えば、去年も別の学校だったが高学年対象だった。何がいいかテーマを考え、お得意(笑)の「笑い」と決めた。最初だけに真面目に記録していた。

①「笑い話」のふり ~ギャグ、ダジャレ、小話をする~
②「落語」について「オチ」「サゲ」の説明、~紙芝居『とまがしま』~
③昔話の笑い ~羽後町の昔話『おしょうさんのまくら』~

 なるほど。なかなかいい流れではないかと自画自賛。
 対象の学校は違うし、今年も同じでいいか…、いや、それじゃつまらないと本探しをすることに。


 図書館だよりに「今日は何の日」のコーナーを設けたので、それをみると読み聞かせ前日の5月18日が、語呂合わせから「ことばの日」となっている。

 「ことば」か。
 図書館らしいテーマではある。いろいろな切り口が考えられるだろうが、子ども対象なので絵本とすれば…と、蔵書検索をかけてみた。

 「ことば」をキーワードにすると、絵本に関わらず全検索となってしまい427冊ヒットする。

 そのうち、直接「ことば」というシンプルな書名を持つのは2冊。どちらも絵本だ。閉架書庫にあった。新しい本ではないようだ。

 『ことば』
  (アン・ランド&ポール・ランド  長田弘訳 ほるぷ出版)


 『ことば』(五味太郎  架空社)

 前者はいかにも外国の人が作ったという感じのする絵本だ。



 絵の面白さはあるが、言葉によるインパクトはあまり感じない。
 深く考えることはできるけど、提示だけでは上学年には弱い気がする。


 後者は、なんと「文字なし」絵本である。
 こんな感じでページが続く。



 ことばを一つも出さずに「ことば」という絵本をつくる。
 さすがの五味太郎である。
 これも、授業として教材にはできるが、紹介するだけでは物足りない

 ということで、却下の2冊となりました。
 で、どうする。

この現象の向こうの本質は

2020年05月16日 | 読書
 未読の一冊である『暮らしの哲学』(池田晶子 毎日新聞社)を読んだ。急逝する前の週刊誌連載コラムである。春・夏・秋・冬そして春と章分けされ、その折々の考えが、いつもの池田節とでも呼べる調子で語られている。哲学の関心は「現象の向こうの本質の側」にあることを徹底して書き続けた、最後の一年だ。


 今、私達の置かれている「現象の向こうの本質」とは何だろうとつくづく考える。コロナウィルスが意図を持って人類征服を目論んでいるわけではない。しかし一種の生存競争であることは確かだ。生物学的な決着がどうなるのか、専門家たちの叡智がうまく結集すればいいのだが…。世界を見渡すと不安だらけだ。


 病気以外の感染とも言える「不安・差別・偏見」という感情の拡大、暴走が気になる。この本質は一種の自己防衛のように思えるが、大きな意味で「負のスパイラル」に陥ることは明白だ。池田の論を繰り返せば「知ることより考えること」。つまり情報に接し沸き起こる感情を、冷静に内省する目こそ肝心と言える。



 この著で一番力強かったのは「言葉の力」。「苦難や危機に際して人が本当に必要とするものは、必ず言葉であって、金や物ではあり得ない」…何を寝言を言っているかと多くの批判が聞こえてきそうだ。しかし「必ず守る」という言葉が信ずるに足りていれば、マスク2枚や10万円がもっと心に響く気がするのだが…。


 「我々の日常とは、よく考えると、明日死ぬ今日の生、その連続以外の何ものでもない」と考えれば、心を動かす言葉しか求めないだろう。それゆえ、この感染によって、最後の言葉も交わすことのできない別離の哀しみが報じられると胸に迫る。それも受け止めなくてはいけない本質だと、自分に強く言い聞かせる。

廃校の中のバトンは

2020年05月15日 | 雑記帳
 公民館関係の方より連絡があり、用事である廃校舎に入ったら書籍がずいぶんとあったが貴重な資料はないのかという問い合わせだった。数年前の統合時に一応の点検はしているはずだが、一挙に進めた経緯もあるし、念のため訪問して確認することになった。向かう先はかつて自分が6年間続けて勤務した地である。


 閉校式典に参加したので五年ぶりか。実は一年前も点検しようと玄関まで行ったがトラブルで入れなかった。今回ようやく足を踏み入れることができた。玄関周辺は保存掲示がある物品以外は、案の定散乱している。特徴ある螺旋階段を上り2階へ。懐かしい並びで普通教室、特別教室、トイレなどが目に入ってくる。


 廊下にそのまま残っている掲示物がある。貼りだされている詩は、相田みつをの「自分の番 いのちのバトン」のようだ。この校舎は比較的新しく築40年を過ぎて数年だったはずである。しかし何百人かの「命」が入学し、親子で学んだ家庭もきっと多いことだろう。そう考えると、ここもパスされた場の一つだ。



 連続して6年勤めたので4学年を経験している。同じつくりとはいえ、窓から見える景色など妙に懐かしい。特に2階奥から西側の沢目に作られたプール。これは印象深い。ドル平泳法の指導に夢中になった時期でもあった。しかし沢水を引き入れた低温のプールで、蕁麻疹が酷くなったという笑えない思い出もある。


 書籍確認により一つ課題が見えたことは収穫だった。また再利用されない建造物の状況を生で見られたのも貴重だった。帰宅してから、夕食時にそんなことを話す。家人もかつて勤務した場所である。収めた何枚かのスナップを見せたら、「あれっこの詩、私が書いて貼ったはず…」という、目出度い(笑)オチとなった。

利己主義を進める頭のクリアさ

2020年05月14日 | 読書
 先日、書棚の整理をしていたら雑ファイルから1枚の紙が出てきた。「真の利己主義のすすめ」と題された随想で、著名な動物学者の本川達雄氏の文章だった。10年以上前の冊子からコピーされていた。一読して「これは」と判断したのだろう。今読んでも、いや今になったからこそ、余計頷き具合が深くなる内容だった。



 氏は「老いた動物は野生では見られません。ちょっとでも目がかすみ脚力が衰えれば野獣の餌食になりますし、体力が衰えれば病原菌の餌食になってしまうものです」と記す。80年の平均寿命を持つ人間の特殊性を支えるのは人類の叡智、技術だが「莫大な金とエネルギー」が必要であり、それは次の世代を圧迫する。


 高齢者の医療と福祉が財政を圧迫しているのは、いわゆる「生殖活動卒業者」の「利己的なふるまい」だという。一方で、氏は利己の「己」(私)について生物学的な見地から「子どもは私です。私の遺伝子が子どもに伝わり、孫に伝わりと、そういう形で『私』がずっと続いていくのが生物というものです」と語る。


 従って、真の利己主義とは「子や孫を含めての利己主義」を指しており、そうした価値観や行動観を奨めておられる。「次世代の『私』」が住みにくくなる振舞いを慎むことは、大きなスタンスで考える点も念頭に置きながら、やはり身近な拠点で特にそうありたい。さらに「次世代の『私』」のため貢献できればと思う。


 氏は最後に「次世代の私、とせずに広く次世代」とより広い貢献を考えている。自分もと見習えば、かろうじて技術があるのは教育という分野しかない。大きな変化のうねりがある昨今、もはやその役回りは「教育の不易」を守るくらいだろう。ただそれが単なる懐古主義に陥らないような、頭のクリアさが求められる。

ちょっとの言語習得期

2020年05月13日 | 雑記帳
 昨日「ちょっと」のことを書いている時、自宅に来ている2歳半の孫が廊下を走りながら「おばあちゃん、ちょっと」とまだ上手くまわらない口で喋っている。偶然かと思いつつも、ちょっと(笑)観察してみると、意外にこの語か連発されていることに気付いた。「ちょっと、ちょうだい」「ねえねえ、ちょっと」…


 言語習得の真っ最中であり、なんでも繰り返して口にする。だから、自分たちを含めて周りの大人がいかに「ちょっと」という語を使っているかの証明になっている気がした。まさしく「ちょっとどころではない」「ちょっと多いなあ」という感じだ。ちなみにこの二つの用例も「少し」の意味に留まらない範囲を持つ。


 さてここからは、祖父バカモードで孫を見つめた話。言語習得期とは本当に面白い。亡くなった志村けんの話題になった時「♪変なおじさん」と思わず口にしたら、ずいぶんと気にいってしまったようで何度も言い始める。散歩に連れていきご近所と挨拶している時に、ふと言ったりするので困ると家人から言われた。


 この頃はバリエーションを増やしたようで、昨日はこちらの方を見ながら少し笑って「♪変なおじいちゃん」などと歌う。「なえでが…」と「♪変なKちゃん」と返したら、またにこっとして止めてしまった。意味や使い方をどう捉えるか明確には理解しがたいが、近くの大人が、最大の言語環境であることは間違いない。



 生活全てが対象であり、ポイントなどは挙げようもない。ただ、その子に接する時、おびただしく言語を垂れ流すTVの質も意識し、意図的に自然や地域社会へ連れ出して会話をすることに努めたい。一昨日は実家への約800mを散歩してみた。途中で小雨が降りだす。信淵神社に手を合わせる。その時の言葉かけ…。

ちょっと、ちょっとの顛末

2020年05月12日 | 雑記帳
 『いきな言葉 野暮な言葉』(中村喜春 草思社)は、芸者から通訳になり長く米国在住したという異色経歴の著者が、花柳界の言葉などを取り上げて使用例を示した本で、書名に惹かれて購読した。90年代の発刊、昭和テイストが色濃く反映された中身だったので斜め読みペースだったが、こんな言葉で立ち止まった。

 「ちょっと」

 ごく普通の言葉という前置きもしながら「芸者仲間の暗黙の了解」と表して、なかなか粋な使い方を伝えている。そう言えば…と改めてこの「ちょっと」を辞書で引いてみると、今さらながら面白いと感ずることが多い。まずは漢字表記。「一寸」は普通に読めるし使う人もいるが、もう一つあった。「鳥渡」と書く。


 調べてみるとどちらも当て字であり、「一寸」は意味から、「鳥渡」は音からとされている。「チヨウ」と「ト」ということだ。こんなふうに書いている人は残念ながら見たことがない。クイズなら出そうなレベルだ。意味は、考えてみればわかりそうなこととはいえ、広辞苑では副詞として五つに分類されている。

 ① わずか。少し ②(逆接的に)存外。かなり。 
 ③しばらく ④ほんのついでに 
 ⑤(否定の語を伴って)少しのことでは。そう簡単には。



 ちょっといいでしょ。家のハナミズキ 2020.5.12

 他の辞典には「感動詞」として「軽く相手によびかけるときのことばとして用いる」も載っている。これはずいぶん頻度が高い。使い方としては同等もしくは目下へということになろうか。言い方でずいぶんニュアンスが変わる。例えば「ちょっと、ちょっと」などは、場を想像すると実に様々な心情が適用される。


 ちょっと(として)した驚きを超えて、ちょっと(として)感心した。ちょっと(して)考えてみて、ちょっと(として)書けると思ったのだが、ちょっとそうはいかなかった(として)。

その一瞬の真実だけを

2020年05月11日 | 教育ノート
 土曜日にEテレで放送された「ETV特集」は見応えがあった。

「映画監督 羽仁進の世界 〜すべては“教室の子供たち”からはじまった〜」

 残念ながら直接観た記憶のある作品はなかったが、部分的に映された箇所だけでもその凄さが伝わってくるようだった。
 羽仁進の著書はいくらか読んでいると思うし、TVなどで評論家のように登場して話している場面はいくらか観ている。しかし、映画監督としての偉大さについては恥ずかしさながら認識不足だった。

 取り上げられた「教室の子供たち」という記録映画には、副題としてなんと「学習指導への道」とあり、羽仁は「教えられない子どもがいる」という言い方で、多様な子どもたちの生態に注目しているのだった。

 次の「絵を描く子どもたち」では、なかなか「描きだせない」子に着目し、子どもがどのようにして心を開いていくか、置かれた環境を含めて明らかにするような展開だった。

 その後の「不良少年」という映画は、ドキュメンタリーではなく劇映画という範疇になるが、それは役者ではなく素人つまり「本物の不良」をキャストにしていた。等身大の言動を求める撮影の一端も紹介されていて、実に興味深かった。


 2020.5.3 その日だけの共演

 羽仁は、ドキュメンタリーと劇映画に違いはないという考えを持っている。
 それは、いわば「過程」や「練習」の否定といった見方もできよう。

 その一瞬にある真実だけが価値を持つ、そこを切り取っていくという姿勢だ。
 むろん作品である以上編集という要素は抜きに出来ない。しかし、画面から確実に訴えかけてくる姿だけを相手にしていたというべきか。


 番組中に何度か是枝裕和監督が登場し、作品を見ながら語っている。自ら認めるように彼のつくる映画が影響を受けているのは確かで、今後の作品をみるうえでの視点が深みを増したような気がする。

 娯楽映画ばかり見てきた若い頃を少し悔やむような気分がわいてきた。