すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

あの戌年の夏~歌②

2018年07月11日 | 教育ノート
 登校する子どもたちを、校門前で待つことを日課として始めた最初の年だ。
 
 人数も少なかったし、いろんなことを思いながら立っていたことを思い出す。


◆雨の朝を見つめて
 ~06/10/2006~


 一日雨が降り続いた。
 梅雨入りは近いかもしれない。
 雨降りの日はどちらかといえば嫌いだが、4月以来の慌しさを、少しは鎮めてくれるかもしれない…
 そんなふうに、空を見上げた。


 深緑の山裾の朝
 傘の列
 黄 赤 ピンク 青 白 黄

 

 水色のパラソルの子背伸びして
 「おはよう」の声 我に届ける



◆朝の表情は毎日違う
 ~06/21/2006


 朝から暑く感じる日が多い。
 夏に向かう一日は、それでも毎日違う一日だ。


 草の背に見えぬ向こうの道路から
 黄色い帽子 今顔を出す



 雨傘をライフルに見立て撃ち抜くぞ
 六月の空 今日は遠足



 ◆雨の朝の声
 ~07/14/2006~


 久しぶりに強い雨が降った。

 気が滅入っているわけではないが、やはり声のトーンは低めになってしまう。

 こういう時ほど、声を塩にして…


 傘をさし
 ふと立ち止まり口ずさむ
 『三百六十五歩のマーチ』


 長ぐつを
 はく子
 ぬいだ子
 はかない子
 いずれがしのぐ
 この世の雨は



あの戌年の夏~歌①

2018年07月10日 | 教育ノート
 別ブログで、写真+短歌・俳句等のような試みをしようとしたが、なかなかはかどらない。
 考えるけれど、吐き出せない、啼きだせない現状か。

 12年前の6,7月をみると、結構気軽に(どうでもよく)書いている。
 レベルアップなどと言わず、ケロっと行こうぜという気分で、あの夏の駄作を読み直す。


◆蛙の歌二首
 ~06/07/2006~


 田んぼに水がはられ、苗も植えられた。
 一週間ほど前から、蛙の声が聞こえるようになってきている。


 蓋されて側溝の中
 我ひとり
 ゲゴと鳴いたら
 やけに響くなあ


 
 白い腹見せて
 蛙の干されてる
 五月三十一日の朝




◆行き帰りの歌二首
 ~06/09/2006~-


 収穫の秋も美しいが
 農村の今の時期の美しさには、心打たれる時がある。


 朝練の声はねかえす早苗田よ
 中学野球部員六人 


  
 早苗田に夕陽がおちて
 大切な一日終わる
 あたたかく終わる


あの戌年の夏~逢衆②

2018年07月09日 | 教育ノート
 これは確か全体の懇親会が終了した後に、ホテル周辺をぶらついたときのことだ。


◆逢衆ラーメン屋にて
 ~07/12/2006~


 「手打ちラーメン」の旗がたなびいている。

 宿にも近いし、田酒を飲んだ「しめ」にはもってこいだろう。

 店の前まで来ると、戸口の前には「焼鳥」と大きな字。
 焼き鳥屋崩れ?か、しかしここまで来たら仕方あるまい。


 暖簾をくぐると、カウンターだけの空間。
 しかも角があって8席、理想のパターンではないか。
 先客は中年男性が一人、焼鳥をつまんで、上方にあるテレビに見入っている。

 じゃあ、とりあえずビールと言おうとしたが、残念ながら、飲まないと決めてあるA社である。
 では一気に、ということで

 「手打ちラーメンを

 少し気弱そうな親父が、すばやく麺を出し、準備にかかった。

 スープが煮えたぎっている。
 丼に入れられたタレが、妙に黒いのが気にかかる。


 数分後、手打ちラーメン登場。

 いかにも醤油が濃そうなスープ、
 手打ち風ではあるが、もっさりしてそうな麺
 ごく普通のメンマ、チャーシュー
 そして、麩が入っている。

 味については…

 言うまい。

 少し侘しいシチュエ−ションに実に相応しいとだけ
 言っておくか。


 ふと、昨夏急逝したKさんのことが思い浮かんだ。

 こうした場末に一緒に来たかったなあ
 このラーメンの味に、なんて言葉を返すだろう。

 いや、もうここに来るまでは随分と飲んでいるから、食べ物は口にせず、親父と語るだけか


何やってんだこの国は!なあ、親父

 突然、先客の男性が話しかけた。

 テポドンが発射されるシーンが、さっきから何度も画面に映っている。

あの戌年の夏~逢衆①

2018年07月08日 | 教育ノート
 Cちゃんシリーズに続き、「逢衆シリーズ」(と言っても2回だけだが)をお届けする。

 どうして、こんなことを書いたのかよくわからないが、妙に記憶がよみがえってきた。
 初めて「東北校長会」なるものに参加したときだのようだ。


◆逢衆列車が行く
 ~07/10/2006~


 八戸発のスーパー白鳥は、ひどく混みあっていた。

 狭いデッキにひしめくあう人々。

 最初の駅で数人が降りたが、降りた以上の人数がまた乗り込んで、ますます息苦しさがつのってきた。


 二つ目の駅で、そいつは乗り込んできた。

 開いたドアの中を見て、ギラリ

 ステップに足をかけて、ギラリ

 周囲の乗客を威嚇する目で、肩を少し揺さぶりながら

 そいつは、この空間に入り込んできた。


 短髪、ややパーマがかかっている。
 色黒、やけに細い眼鏡をかけて、あごひげに、金のネックレスが音を立てている。
 ゆっくりめの開襟シャツに、茶のスラックス、、白いエナメルの靴。
 そして、約束のように黒いセカンドバックを携えて。


 つり革などないデッキの中では、寄りかかるスペースをいかに確保するかは死活問題である。
 まして、新幹線ではない地方の特急。
 揺れは、意外な局面で起こってくる。

 そいつは、通路側の一角を占めたが、さすがに、周囲はみんな背を向けている。


 起こるべくして、揺れが大きくなった。

 黒い上下の服をきたサラリーマン風の男が、そいつの脚部にぶつかったようだ。
 まあ、一般の客であれば、この揺れでの接触は、当然のような顔で受けとめるのだが…

 そいつの視線が、サラリーマンの後姿の、背中から後頭部にかけてゆっくりと上がっていく。

 細い眼鏡の奥の瞳は、異常に大きく見開かれている。

 始まるか…


 「間もなく青森です。お降りの方は…
 アナウンスが入る。
 そいつの目が少し気勢をそがれたように伏せられた。


 ほっ、気弱な観察乗客は、つめていた息を少しだけ吐いた。

あの戌年の夏~Cちゃん③

2018年07月07日 | 教育ノート
 今、何しているのかCちゃんと思う。
 きっといいお母さんになっている。


◆恐るべし、Cちゃん…永遠に
 ~07/02/2006~

 「イアッシャイマヘェ」
 「コチアエドーゾ、オスワイクダハイ」


…姿を見なければ、そう聞こえただろうか。

 正統なラーメン屋の女店員の格好をして、Cちゃんはせわしなく働いていた。

 「いらっしゃいませ」
 「こちらへどうぞ、お座りください」

 ちゃんとそう聞こえるではないか…

 いや、正しくはその姿に目を奪われて
 発音がどうのこうのと思っては聞いていない。

人は見た目が○割」とはよく言ったものである。
 なんといっても、ついに憧れの(いつからそうなっているのか)
 Cちゃん発見、である。


 いやいや、気配りが見事である。
 他にも二人ほどの店員がいたが、客に対する声かけ、動きなどで圧倒している。

 「お待たせいたしましたあ
 「みそ一つ、チャーシュー二つ、ですね

 言葉も淀みない。
 ラ行がないのが救いか…

 そうではあるまい。
 ラーメン屋の客は、滑舌には興味ないのだ。
 スピーディーな動きと勢いのある声
 店にマッチした対応があればいい。


 そうだよ、Cちゃん。
 なんでラジオなんか選んでしまったんだ。
 貴方が十分に魅力を発揮するために「声だけの場」は、条件が悪すぎる。
 それを早く気づくべきではないのか。

 そのことをCちゃんに伝えたいと思いながら
 無言で、みそチャーシュー麺を食べ続けた。

・・・・
(それから、また数年)

 今日もローカルラジオ局の電波にのって
 Cちゃんの声が流れる。
 もうほとんどカムことはない、
 自信を持って原稿を読んでいる。
 「ベテラン」だもんな。

 夕方の地域の食べ処インフォメーションは涙なしには聞かれない。

 「ハイ、今日モ、居酒屋○○カラノ オシアセデス

 「オススメハ、野菜サーダ、海鮮サーダ、○○サーダ。

 「お得なコースメニューもアリアスカーネ。
  ドーゾ イアシテ クダサイ。
  今日、コレカアデモ ダイジョーブ デスカーネ。
  ナオ、定休日は火曜日デスカーネ。



 今日、火曜日だって、Cちゃん!

あの戌年の夏~Cちゃん②

2018年07月06日 | 教育ノート
 某ローカル放送局のことだと、わかる方はわかるだろう。


◆恐るべしCちゃん…続き
 ~07/01/2006~


 今の言葉でいえば「かむ」のオンパレードである。
 ひっかかって、ひっかかって
 ぎくしゃくを通り越したその喋りに
 思わず「バカヤロー」と車内で叫んだほどだ。


 しかも、滑舌が悪い。
 特に、「ラ行」が致命的である。

 語頭ならばなんとか聞こえるが
 (例えば『ラーメン』など)
 それ以外は、もう悲しくなるほどである。

 「からす」は「カース
 「ごりら」は「ゴイア」に聞こえてしまう。

 よく案内する電話番号などはこんな調子
 「56−3009」だとすると(架空です)
 「ゴーオクノサンエーエーキュー


 ローカルのしかもミニ放送局とはいえ
 よく採用したもんだと感心したものである。

 もしかしたら美人?
 私としては、声の甘さから勝手に「坂下千里子」をイメージしたが、見かけた家族のいうところによるとどうもちがうらしい。

 タウン誌に載った写真は、一見南方美人系である。


 そういうことで?
 我が家での超有名人となったCちゃん。

(あっという間に数年が過ぎ)

 ある休日、家族でラーメン屋に入ったら

ちょっと、あれCちゃんじゃない?

 と、連れ合いが小声で言う。

 
 つづく

あの戌年の夏~Cちゃん①

2018年07月05日 | 教育ノート
 気が向いたときにPCデータ整理をするが、アルバムや文集を片付ける時と同じで、つい見入ってしまうときがある。
 削除する前に、ブログに駄文を残しておこうと思いつく。

 今読んでいるのは、ちょうど12年前の今頃、別ブログに載せた文章。
 当時の様子もなんとなく思い出される。
 コメントを寄せてくれるやや常連さんもいて印象深い。


◆恐るべし、Cちゃん…出会い  
 ~06/30/2006 ~


 逡巡した末に、やはり書くことにした。

 これから書くことはけして悪口のつもりではない。
 自分の心を震わせたという意味で
 書き留めておきたかったことだ。

 Cちゃんに何の悪意もない。
 いや後で書くが好意すら感じている。

 と、バリアをはりながら…


 その出会いは衝撃だった。

 もう何年前の話になるのだろうか。

 確か夕刻だった。
 カーラジオを聴きながら運転していた私の耳に
 突然Cちゃんは語りかけてきた。

こ、こんど、このほ、放送局でパーソナーティをすることになったI・C でぇす。

(おそらく、こんな感じだったってことで)

なんだぁ、こいつ」とすぐに沸騰。

 しかし、あまりの酷さに
 車を降りるまで、耳は釘づけになった。


 つづく

あの戌年の夏の涙

2018年07月04日 | 教育ノート
 「サムライブルー」と言い出したのはいつからだったか。
 今はあまりそんなこと言わなくなったのかな。

 チームプレーとサムライがイメージに合わなかった。
 その意味では、駄文だけれど、なんとなく象徴的な題付けをして書いたものだ。


 サムライの哀しい涙
 ~ 06/26/2006~



 サッカーワールドカップ記事の総括?をもう一つのブログにも書いた。

 それとはまったく違う意味で、印象深かったのは、やはり「中田の涙」である。

 多くの敗因の、ある意味での一つの真実は、スポーツ新聞に書かれた「W杯観戦記」の次の見出しではなかったか。

 悲しいことに1人で涙を流し続けていた


 確かに中村も直後のインタビューには答えられないほどであったし、無念さを抱えた選手は多かったろう。
 しかし、中田とは質が違っていたというべきか。

 いや「質が違う」のは仕方ないのだろうが、敗北後の表情や言葉がそれぞれが自立したような印象を受けないことも確かだ。

 ここはやはり、みんなでピッチで大泣きした方が、日本人らしい?
 お前たちはサムライにはまだなれない、潔さより、集団でぶつかってみろ、玉砕だ!とかね


 それもできなかったチーム事情というか背景というか、そんなこともひっくるめて、中田はどこまでも哀しかったのだろうか。

あれも戌年の夏だった。

2018年07月03日 | 雑記帳
 俄かサッカーファンというか、斑ファンというか、真夜中にずっと見続けるまでの気持ちはないにしろ、残念である。そしてたまたまではあるがTVを見始めると間もなく相手チームに点を許すシーンに遭遇するパターンだ。ポーランド戦も、そしてベルギー戦も。相性が悪いのか(何の?)。しかしよく戦ったと思う。


 同齢の西野監督にエールを送りたい。直後のインタビューで「足りないことは?」と問われ、「すべて、そしてわずか」と答えたことが印象的だ。勝負とは常にそういうもの、それを徹底的に自覚した時、具体性を持った対策がとられる。これは仕事術にも共通するだろう。12年前のドイツ大会ではいろいろ書いていたなあ。


 「それでも日本代表は考えねばならない」
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/3bc05439af0f22402aa3ba706d98f23f


 「サッカーワールドカップのための教育か」
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/7df277885363a2f3cf98f45449a7e2be


 あの頃からすると、サッカー界は結構変化した。時々のリーダーやエースと称された者が切り開いてきたのだ。ただその姿は一様ではなかった。12年前の中田の姿は何を象徴していたのか。今回とはずいぶん対照的であったことを思い出す。そう言えば、当時そんなことを書いていたと探してみたら、あった。明日へ。

クヨクヨし引きずり抗え

2018年07月02日 | 読書
 「引きずることから切実な表現が生まれる」と筆者は書いた。小さなことにクヨクヨし、様々なコンプレックスを引きずればいいのだ。だからミタビ読み直そう。


2018読了65
 『コンプレックス文化論』(武田砂鉄  文藝春秋)



 最初なんとなく「コンプレックスはバネ」と題付けをしたが、なるほどと頷きたくなるような面白いデータがある。2009年の資料なのでちと古いが、「身長と年収・幸福度に関する調査」である。一つは「男性の身長と年収には比例関係がある」。そしてもう一つはおおうっと思う…こう書くと予想できるかもしれない。


 「160cm以上の男声より、160cm未満の男性の方が、『幸福』と感じている人の割合が高い傾向にある」ということ。流行りの言葉で言えば「自己肯定感」なのだろうか。普通に考えれば逆の気もするのだが、それだけ「身長」はコンプレックスと結びついている。身長順に並ぶ学校教育、身長制限のある職業も在る。


 筆者は社会にはりめぐらされている密接な基準も紹介しつつ、こう書く。「それに届かない男たちは、早々に自分なりの選択肢を探し始めるのだ。結果として世の中には、背が高かったら生まれていなかった表現に満ち溢れているのだ」。昔「チビ」と馬鹿にされた者が、出世したり芸術家になったりする物語も好まれる。


 さて最終章は、コンプレックスの大エースとも言うべき「ハゲ」である。まずはお笑いにおける定番中の定番ネタだし、そのものを売り物にする人気コンビもいるわけだから、レベルが違う。誰にもわかる外見とある意味の可愛らしさ、そして明るさを背負っているからか。某女性議員の暴言に笑った人も多いはずだ。


 筆者は最後にユニークな論を繰り出す。曰く「ハゲはロックンロール」。一面的だが、ハゲは頭皮の健全さを保つこととは別の「不摂生の果て」にあり、それはロックンロールが持ち合わせるものだ。「『ハゲる』と『抗う』は同義」とまで言い切ると、哲学的でさえある。コンプレックスという名のバンドがあったなあ。