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平成一顧、0年~9年

2019年04月28日 | 雑記帳
 お祝いモードで「令和」を迎えることに異存はないが、「平成」はそうではなかった。昭和天皇の崩御が改元を余儀なくしたわけだから当然だ。実は暗い始まりとも言える。我が家では妻が第二子を身籠ったはいいが悪阻が酷く入院となったのが確か平成になって二日目。それが三週間以上続く、まさに真冬の時期だった。


 自分はというと、上の娘を実家に預けて少しワーカホリック状態ではなかったか。病院へも実家へも毎日顔を出しつつ、学級のこと、研究のこと、あれこれ騒然とこなす日々だった。そうした線上に三度目の転勤があり、小規模校とはいえ、異常なほどの目まぐるしさが頂点に達したように思う。平成4年のことだ。

(このあたりのこと)ミツバチ教師、せっせと働く
https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160416


 翌年ある研究賞応募で最優秀をいただき、新聞に顔写真が載るという出来事があった。身体同様(笑)仕事も脂の乗り切った頃といえよう。平成6年、母校へ転勤となる。若い教員が多くなり、担任を外れた教務主任となった。この辺が一つの分岐点になるが、真剣に意識できなかった甘さがあり、実践対象も変化した。


 教務としての仕事もやりがいはあった。会議や行事等の改善、全校を巻き込んだ組織的な活動など、文科省指定を受けるなかで、かなり斬新な提案もできたと思う。学校報は2年間書かせてもらった。「学校を動かす」はやや大袈裟かもしれないが、その醍醐味や課題をとらえた時期だった。それが平成9年までだ。


 教員年齢層の不均衡があり、その影響で早く担任を退いたことが妥当だったか、今でも想うことがある。もちろん自分の力量の限界は知っているつもりだが、教室実践にもっと拘りを持てば、違う道も開けたのだろうか。ただ手放さなかった思いは、自他ともに興味や得意を生かそうという姿勢だったことは違いない。


 だから同僚や知人を巻き込んでのサークル活動を継続できたし、担任外でも教務だよりや学校報などに積極的に取り組むことができた。お上からの指導に対しても、論拠を持って向かうことができた。振り返れば、未熟ながら理論と実際の活動が遊離しなかった時期である。しかし、立ち位置は把握できていなかった。