ここ数年、毎日美味しいごはんを食べるためにはどうしたら良いのだろうか、と考えることが時々あった。
美味しいごはんといっても、山海の珍味や高級料理という意味ではなく、普通に美味しいごはんであれば良い。
歳を取って味覚が変わったのか、あるいは食材や調理方法が価格競争だとか効率化などの影響で昔に比べて旨味が少なくなったのか、自分で作ったごはんを食べても美味しいと思う事が最近少なくなってきた。
だから醤油をたくさんかけたりするなど調味料で味を濃くして食べている。
季節ごとに定番のメニューを決めて朝昼晩をそのローテーションで回していけばいいと思うのだが、その定番が決められない。
炊飯器が無いからかもしれない。
だいぶ以前に電気式炊飯器が壊れて以来、土鍋でご飯を炊いてきたが最近はラージメスティンで炊いているのだが、やや手間がかかるので、ご飯がないときがあってそういうときは麺類を食べたりレンチンご飯を食べたりパンを食べたりで、主食が安定していないからメニューも安定しない。
だが、最近になって考えが変わり、そもそも毎日おいしいごはんを食べる、と言う事などありえないのではないかと考え出した。
そもそも、子供のころの食事はたまにハンバーグ等であれば喜んで食べたが、そうではない常日頃の食事はかなり義務的に嫌々食べさせられているようなものだった。
成長期になると腹いっぱいごはんを食べることに喜びを感じるようになり、大人になって自分で稼ぐようになるとファーストフードやスーパーで売っているくらいの価格のものなら、いつでも食べられるようになり、自分の好みのものしか食べなくなった。
それがエスカレートしていつでも美味しい物を食べたい、等と思うようになったのではないのか?
食事が美味い、と言う事は人生において大事な事ではあるが、反面余裕があれば追求すればよい事でもあって、必須の事ではないのかもしれない、とそう思っていたところ、たまたま読んでいた「サバイバル登山家」服部文祥著の89ページに、
「舌とは旨い・まずいを判断するものではなく、本来は「食べられる・食べられない」を味わい分けるための器官ではないかと考えるようになった」
という一文を発見した。
まさに我が意を得たりである。
「食べられるものは旨い、食べられないものはまずい。舌をそんなシンプルな道具として使いうることは生命体としての喜びである」
これは登山家である服部氏が限りなく徒手空拳に近い姿でのサバイバル登山を通じて得られた悟りの境地であり、自分の能書きとはレベルが違うと思うが、この言葉は今の自分の心境にピッタリ来た。
毎日の食事は美味しくなくても良い。
たまに御馳走の時に惜しければ良い。
そう思う事にした。