那須太社 錦輔 の日記

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ジョイフル本田千葉NT店 バスで訪問

2021-10-24 21:09:18 | 日記

昨日休日出勤の帰りに西船橋駅でちばレインボーバスを見かけて乗りたくなったので、今日乗ってみた。

西船橋から終点の白井車庫まで1時間位。

木下街道が混むかと思ったが休日の昼間はそうでもなかった。

白井車庫かから千葉ニュータウン駅まで歩いて45分位。840円。途中から乗客は自分一人だった。

いい田舎だが、車が終始行き交うので歩いていて楽しくはない。

途中、住宅街で幹線の下を潜るちっちゃいアンダーパスがあったが、確か10年くらい前にこのあたりを夜自転車で走っていた時こういうのにあたって迷ったことを思い出した。

千葉ニュータウンから印西牧の原までは北総線にのって、牧の原からジョイフル本田までは歩いた。

もう買い物する物もないと思っていたが、色々買って5,749円分買い込んだ。

まずは、多肉植物の植え替え用に鉢と受け皿を4つずつ。多肉植物の数は減っているのだが、株が大きくなっているので、今までより一回り大きな4号にした。プラスチックと焼き物と2個ずつ。

それから、ユーチューブでよく見かけるキャンプ用のコンパクトチェア。2,178円。

自分も欲しくてネットで見てたのだが、耐荷重150㎏のタイプと80㎏のタイプがあるみたいで、ジョイフル本田オリジナルのものは80㎏のタイプ。手に持った感じが軽かったし、コーナンブランドは怖いけどジョイフルだったら大丈夫かな、と思って買った。

それから、イワキの耐熱ガラスの皿。あとは酒とか歯ブラシとか色々。

帰りは向かい側にあるBIGHOPというショッピングモールをのぞいてみた。

入口が幹線道路に面してないので入りにくく、いままでは通り過ぎるだけだった。

観覧車などの遊具が色々あり、イオンモールなどより小さな子連れの家族には向いている。

広場でバンドが演奏していた。

優美堂という音楽教室?が主催しているようだが、すごく演奏が上手で自分の興味範囲外のフユ―ジョン風の音楽だったが引き込まれそうになった。

ボーカル無しでサックス、ギター、ベース、ドラム、キーボード。サックスは白髪のおじさんだった。

ギターが氷室京介専属と看板に書いてあった。

腰や股関節が痛くなってきて早く帰りたかったのでじっくり見る事なく印西牧の原駅から北総線に乗って帰宅した。

やはり、ジョイフル本田はホームセンターの中でも面白い。

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ご飯を炊いた

2021-10-22 00:38:38 | 料理

夏場はご飯を炊いても、放置して腐らせることが多く、この夏からレンジで温めるタイプのご飯を利用していた。

が、大分寒くなってきて丁度レトルトご飯のストックが切れたのでご飯を炊いた。

土鍋で炊いたのだが、ちょっと柔らかかった。もう少し火にかけておけばよかった。

ご飯を水に浸す間にカレーを作ったが、中々美味しくできた。

「S&B Golden Curry バリ辛」(私はS&B派、ハウス食品は西城秀樹のイメージが強くて買わないことにしている)。

たまねぎを炒めて黄色くなって一部焦げてきたら、ニンジンを入れ、しめじを入れ、牛肉を入れて牛肉の色が茶色になったら水を入れてじゃがいもも入れて沸騰させる。灰汁を取ってルーを入れて牛脂を入れてピーマンを入れる。

中々美味しかった。自分でカレーを作っても、いつも美味しくないのだが、今回は豚肉ではなく牛肉を使ったのが良かったのかな。

あと、米櫃を買った。山崎実業と言うメーカーの製品。

つい先日米を炊こうとしたら、ゴキブリの糞が袋の中に散乱していて、今までも何度かそういう事があって、プラスチックの米櫃に入れていたのだが、たぶん米の重みなどで本体がたわんで蓋と本体の隙間から入ってきたと思うので、パッキン付がついてて密閉できるという米櫃を買った。

多分これで大丈夫かなと思う。

実家にも送ろうかな。

5㎏の米袋がそのまま入るが、スリムで場所を取らない。

ふたを閉める爪が今一存在感がないのが気に入らないけど。

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GENKYO 横尾忠則 東京都現代美術館(MOt)

2021-10-16 23:03:14 | 絵画 美術展

入場料2000円。

色が綺麗で気持ちよかった。

自分が分かった範囲で、ルソーとかブラックとかピカソとかキリコとかいろんな人のタッチで描いているのだが、ものすごくペイントの技術というか描画力が高いと思った。

空想科学的なコーナーの絵が良かった。

 

キャンバスを切り貼りしたり、鏡を張り付けたり、オブジェをくっつけたり、のギミックは全く理解できなかった。

後、絵の端っこに関係ないアイコンみたいな小さなイラストを張り付けているのも意味が分からない。

 

なぜ、ああいう事をするのだろうか。

何が良いのか分からなかった。

 

横尾さんは物凄く絵を描く技術に長けている、けど、それくらいの人って絵の世界では多分いくらでもいて、そういう環境でただ絵を描いていることに飽き足らなくなったのだろうか。

あと、三島由紀夫の事がすごく気になっているみたいで、何枚も何枚も三島の顔を描いていた。

また白人女性のヌードも多数描いている。

Y字路のシリーズ等で、雨上がりの濡れたアスファルト路面に夜のライトが反射している描写が凄く上手いと思った。モネの睡蓮的な描き方で綺麗だった。

 

凄く上手いし色使いも自分にとって気持ちが良かったのだが、また展覧会があったとしても、もう一回見に行く事はないかも。

ギミックを使わず普通に絵画として仕上げればいいのに、もったいない気がする。

 

行きは東陽町駅から、帰りは木場駅まで木場公園を通り抜けたのだが、長いこと東京で営業してきたがこの公園の中に入ったのはたぶん初めて。

二時間弱、美術館の中を歩いたら腰と股関節がおかしくなってしまった。

 

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「砂漠の狐」ロンメル 大木毅 角川新書

2021-10-13 01:02:17 | 読書感想文

ロンメル将軍(エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル)も知ってるようで知らない人だった。

多分評伝を読むのは初めてだ。

 

なかなか面白い。

ロンメルを知ると同時に、第2次世界大戦を知る事もできた。

例えばそもそも、ロンメルがなぜアフリカで戦っていたのかというと、リビアを領有していたイタリアが、同盟国ドイツの勝ちに乗じてイギリスが領有するエジプトに攻め込んで負けたから。

P152-156引用 1940年6月22日、コンピエーニュの森で、独仏休戦協定が調印された。ドイツは短期間で、宿敵フランスを降伏させることに成功したのである。しかし、これで戦争を終わらせることができるとのヒトラーの期待とは裏腹に、ひとり残ったイギリスは徹底抗戦の決意を固め、ドイツからの和平の申し出を蹴ったのだ。
ヒトラーはやむなく英本土上陸作戦を実行する腹を固め、その前提となる制空権の確保をドイツ空軍に命じた。こうして開始されたのが、有名なバトル・オブ・ブリテン、英本土航空戦である。
1940年7月から、ドイツ空軍はイングランドに激しい空襲を加えたが、英王立空軍(ロイヤル・エア・フォース)の戦闘機兵団(ファイター・コマンド)による抵抗は熾烈をきわめ、どうしても航空優勢が取れない。結局、ヒトラーは英本土上陸作戦を断念し―――ソ連侵攻に転じると決した。ソ連を打倒し、東方植民地帝国を建設することは、ヒトラーの宿願だった。加えて、イギリスが戦争を継続するのは、いずれソ連がドイツの敵にまわるとみているからだろうとの判断もあった。従って、ソ連を制圧すれば、イギリスもあきらめ、講和に応じるはずだ。かかる計算から、1940年12月18日、ヒトラーは、対ソ連戦準備を命じる総統指令第221号を発した。
一方、ドイツとっては想定外の方面でも、戦争は拡大していた。西方攻勢によりフランスが圧倒されるのを見たイタリアは、1940年6月10日、ドイツ側に立って参戦した。ヒトラーの勝利を奇貨として、地中海を制覇し、かねての念願であった新ローマ帝国の建設をなしとげようとしたのである。だが、ファシスト・イタリアはローマではなかった。
同年9月に、当時植民地だったリビアから、エジプト王国(1922年に独立したが、イギリスの間接支配を受けていた)に侵攻したイタリア軍は、英機甲部隊を中核に据えた反攻に遭い、潰走した。スエズ運河に迫るどころか、逆にリビアの大部分を放棄するはめになったのだ。一方、10月には、やはり自国領だったアルバニアからギリシアを攻撃したものの、戦線は膠着した。ギリシア軍は攻勢に転移、アルバニアの一部を占領するありさまだった。
・・・
しかしヒトラーとしては、盟邦の苦境を看過するわけにはいかなかった。また、放置しておけば、バルカン半島や北アフリカが、英軍反攻のスタートラインになりかねない。1941年1月9日、南独ベルヒテスガーデンで会議を開いたヒトラーは、こう述べている。
「いかなることがあろうと、リビアの失陥は防がなくてはならない。[中略]われわれの支援がなければ、イタリア軍が英軍に抵抗できないことはあきらかだ。これは、彼らが軍人として劣っているというよりも、イギリス戦車に対して、近代的な防御兵器を有していない事による」
・・・
当初、ヒトラーは、小規模な装甲部隊の派遣のみを考えていた。kれども、「リビア封止作戦」と名付けられた団隊の指揮官に予定され、現地視察に赴いていた男爵ハンス・フォン・フンク少将が、1941年1月25日付で送ってきた報告書は、そうした見解をくつがえすものだったのだ。
・・・
ヒトラーは意見を変えた。もっと大きな兵力が必要であると判断し、「リビア封止部隊」を第5軽師団に拡張するとともに(すでに述べたごとく、4個あった軽師団は装甲師団に改編されつつあったが、応急処置として、5番目の軽師団が新編された)。もう1個師団を送ることに決めたのである。
・・・
ともあれ、2個師団もの大兵力を運用するからには、それを指揮統括する上部組織が必要である。リビアにおいては、イタリア軍の機動性の高い部隊も、派遣されるドイツ軍司令官の指揮下に置かれることが予定されているとあっては、なおさらだった。かかる重要なポストを任せられる人物として、ヒトラーはロンメルに白羽の矢を立てた。
引用終わり

イギリス以外の欧州をほとんど制圧していたドイツからすると、イタリアがアフリカで負ける事で生じる穴をふさぐため軍を派遣することになる。

またロンメルの構想ではエジプト・スエズ運河を制した後は中近東から黒海・カスピ海を経由してスターリングラード等ソ連の横っ腹を衝く腹積もりだったらしい。

本書では、補給の問題からとうていありえない、と論評しているが。

 

マルタ島に残っていた英空軍がロンメルへの補給をしばしば遮断し、またトリポリ、ベンガジに揚陸された物資を前線まで輸送する手段をロンメルが確立しないまま先へ先へと前進していったため、補給が常に問題になった。

ロンメルはドイツ軍内のエリートであるプロシア系貴族出身ではなく南ドイツのヴュルテンベルク(バイエルンの西隣)の出で、高等な軍人教育をうけていなかったため、優れた現場指揮官ではあったが、一個軍を指揮する器ではなかった、というのが筆者の結論。

そういう当時のドイツ内の地域による階層というか権力構造というかの解説も面白かった。

また、アフリカに渡る前、フランスでもロンメルは大活躍していて、その際も独断専行であったり自ら前線にでて部隊を突出させたり、勝機を逃さないため他の部隊の兵を勝手に指揮下に入れて動かしたり、奔放に動いている。

 

そうこうしているうちに、米軍が西側のアルジェリアに上陸してロンメルはエジプトの英軍とに挟み撃ちされる格好となる。

 

不満としては、戦闘の推移の記述が読みにくい。

しょうがないのかもしれないが、第〇〇師団が〇〇峠から退却とか無味乾燥な部隊名とその移動経緯が次々記述されるが、ネットで地図を参照したりしたがイメージがわかない。

ロンメルの所属も時々で変わるのでなおさら追いかけるのが難しい。

地図が挟み込まれているが、これも分かりにくい。

都度つど、部隊名とかを覚えつつ読み進める人には良いのかもしれないが、自分はそうじゃないのでそういう部分は飛ばしていった。

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Wikipedia ゲーム

2021-10-09 12:16:57 | 日記

1)なんでも良いのでひとつの単語AのWikipediaのページを開く

2)さらにもう一つの単語Bを設定する。

3)Wikipediaのリンクだけをたどってその単語BのWikipediaページまでたどりつけば勝利。

 

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