最近、本を読み通すのが難しくなって、目が悪くなってきたのも原因だと思うが、残念なことだ。
去年老眼鏡も作り、それを使えば確かに裸眼より読み易いがけっこう面倒くさい。
それでなんとなく俳句をネットで検索して楽しんでいる。
尾崎放裁の「咳をしても一人」
与謝蕪村の「春の海、ひねもすのたりのたりかな」
気楽に楽しめていい。
日本人の漢詩もいい。
伊達政宗の
「馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の許すところ
楽しまずんばこれ如何せん」
なんてたまらない。
元になった「酔余口号」という漢詩は
馬上少年過 世平白髪多
残躯天所赦 不楽是如何
一国を率いて戦って天下を取る事は出来なかった大武将が、若き日の戦いの日々を「馬上少年過」のたった5文字で表している。
小林一茶は江戸時代の人だが、現代人と同じような感覚、言葉遣いで親しみやすい。
1763年に信濃北部の農家に生まれて、子供のころ江戸に奉公に出されたという。
1615年が大坂夏の陣で豊臣家が滅ぼされ徳川家の体制が確立した年だが、その148年あとの生まれだ。
最後の将軍徳川慶喜が大政奉還したのが1867年、明治維新が1868年だからその105年前の生まれでもあり、江戸時代の真ん中あたり、ちょっと後半よりに生まれた人である。
お城には2本差しの武士がいた時代だ。電気やガス、水道はないし、冷蔵庫も洗濯機もガスコンロもない。自動車も電車も電話もない。ネットももちろんないしテレビも新聞もない。
けど、その句はとても親しみやすい。
「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」
「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」
「やれ打つな 蝿が手をすり 足をする」
ちいさな生き物の可愛らしさを詠んだ詩が良い。
あと良いのがこれ。
「雪とけて 村いっぱいの 子どもかな」
北国に春が来て深々とした冬景色から一転、家から出てきた子供たちが外で元気いっぱい遊びまわっている風景が目に浮かぶ。
この唄など現代の風景と変わらない。
江戸時代が平和であったという事もあるだろうが、人って今も昔もそんなに変わらないんだろうだな、と思う。
子供を題材にした歌だと後白河上皇の
「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」
という歌?もあった。
後白河上皇は1127年生まれ。
武士が台頭してきて貴族を凌駕しつつ相争い始めた動乱の時代の人で、若いころには保元平治の乱、壮年から晩年には源平合戦にかかわっている。
遊びを・・・の唄は言葉遣いは難しいが、歌っている中身は、子供たちの遊ぶ声を聞いてると嬉しくなる、といった意味でこれも現代でも変わらない気持ちを歌っていて、権力闘争の真っただ中にいた人でもそういう感覚があったんだ、今も昔もそういう所って同じなんだな、人間と言うのは根本の部分は変わらないんだなと思う。
※深読みすると、遊女の事を歌っている、という説もネットで読んだが自分は素直に子供のこと歌っているとうけとめたい。
昔の詩を読んでいると、科学技術が進歩して、色々な思想が世に問われてきたが、結局人間は何も変わらないのじゃないかとおもう。