炭焼きは難しい。とりわけ炭焼きの世界に縁のなかった者がそこに参加して
炭焼きができるようになるのは至難の業である。参加して色々なことを知って
行く内、確実になっていくのは技ではなく『耳年寄り』。
言葉やうわべの経験をしていくと少しは話にも参加できるようになり、恰も一端
の炭焼人になったかのように勘違いしてしまう。つまり本質の理解はともかく
お経は読める『門前の小僧習わぬ経を読む』と同じである。
現代の炭焼き初心者が『耳年寄り』に為りやすい最大の要因は何年経験しても
自身が主体となり炭焼きをすることがないこと。更にその奥には材料集め、加工、
窯立てと事前準備に大きなマンパワーを必要とし、その労苦をお釈迦にするか
もしれない門前の小僧のための経験に使うのはリスクが大きいところにある。
熟練した人たちは経験というアナログのデータが頭に入っており、それをベー
スに工程を進めるが門前の小僧にはそうしたデータはないから、他に頼るものと
して温度という数値に行き着く。それを進める内に炭焼きは温度数値の変化を
追求するところに力点が行き本来あるべきところからずれてしまう。熟練者の炭
焼きは工程々に温度が決まっているのではなく結果の温度をプロットしていくと
理に叶ったものになっている。
門前の小僧は数値を目的化してしまい、只管それに沿うようにいくことでしか炭
焼きに行き着く手法を持たないから、そこに執着していく。
そしてそれが正しい方法と信じ込む罠に落ちてしまう。
しかし、炭焼きの数値データは活用次第で何かのヒントになるのではないかと模
索することは間違ってはいないと思う。
熟練した人たちの話を思い返してみると言葉の端々に技のヒントが語られている
のに、そうした貴重な情報を身に付けていないことに気づく。
会に参加する人は夫々に『遊び心』『皆とワイワイやりたい』『地域活動の一環』な
ど様々で、炭焼き人を育てるために特別のプログラムがあるのではなく、弟子入り
した落語家が師匠に『稽古をつけてください』と頼むような積極性を持たなければ
技の継承はできない。つまり受動の姿勢であれば技は頭の上を通り過ぎていくだ
けで身につくことはない。
門前の小僧も後期高齢者の仲間入りを果たしているがこの年になって尚、精進の
必要さを思い知らされている